新しい伝説


冷たい雪で閉ざされたロシアに最近春の気配を感じる頃。
記憶をなくして数年が過ぎたユリウスはもう不自由なく 毎日を過ごしていた。
そうして今はユスーポフ家にあるサロンの出窓の前に立っていた。
冬の間閉ざされてきたこの窓。
以前、凍える吹雪の日、ユリウスは窓を開いたまま冷たくなっても 夢中で吹雪の向こうに見える黒い影と戦っていた。
それをレオニードに止められ、以来冬の間はこの窓を開くことは 禁断とされてきた。
もともとユスーポフ家ではまったく使われることのないサロン。
そしてアデールと別居中の今、サロンへの出窓を閉ざしたところで なんの支障もなかった。
しかし訪れた春の気配。
吹雪に怯える心配のなくなった季節。
いつのまにかこの窓の封印をとくのは、ユリウスの役目になっていた。
そして今日をその日に選んだのである。
もう何度も繰り返してきたこの儀式。
それでもいつも緊張を隠せないでいた。
今年も日が暮れて暗くなった頃を見計らい、ユリウスの儀式は始まった。

窓の前でゆっくりと深呼吸をすると、1つずつ錠前を外していく。
厳重過ぎる錠前の作りにいつもユリウスは手間取ってしまう。
今年も例外ではなかった。
しかし最後の1つをはずし終わるとユリウスは今年の願い事をもう一度 確認した。

これはユリウスがこの役目に就いて以来、ユリウスが欠かさずに やっていることであった。
この窓に3つの願い事をかけるのである。
なんの根拠もない、ユリウスにだけ通じるおまじない。
記憶をなくしたての頃、リュドミールから聞いた話がユリウスの中で 消えずに残っていたのがきっかけであった。

『レオニード兄様には内緒だよ。本当は言っちゃダメだって言われてるん だ。でもね、ぼくにそのお話をしていたときのユリウス姉様は とっても素敵だったんだ。それにそれはとても大切なお話だって 言ってた。なのにユリウス姉様が知らないなんて絶対おかしいよ!』

『その窓で出会った男女は恋人同士になるんだよ。それでね、すっごく 愛し合うようになって伝説になるんだよ!』

リュドミールなりに一生懸命話してくれた物語。
最後はよく分からなかったけれど、それでもユリウスはなぜだか 懐かしくて心惹かれる話だと思った。
それ以来、自分なりにこの窓を伝説の窓に仕立てた。
そしていつの間にか3つの願い事をかけるようになったのである。

いつも決まった3つの願い事。
ユリウスは左側の窓を開けながら1つ目の願い事をする。

「今年も豊富な収穫がありますように。」

次に右側の窓を2つ目の願い事をする。

「ユスーポフ家に今年も平和が続きますように。」

そうして3つ目の願い事をしながらサロンに足を踏み入れるのであった。

「ぼくの記憶が少しでも戻りますように。」

そうしてサロンに出たユリウスに帰宅したレオニードの姿が映った。

「レオニ…。」

呼びかけようと思ったがやめる。

レオニード、ぼくに気づくかな…こっちを見るかな…
ぼくに気づいて、レオニード…

ユリウスは少し高い位置にあるサロンから身を乗り出し、レオニードをじっと 見つめた。

今日も夜遅くまで冬宮に詰めていたレオニード。
馬車に揺られながら屋敷の明かりが見え始めると、 どっと疲れが襲ってきた。
うつむき加減に馬車を降りる。
そのまま屋敷に入ろうとしたが、ふと以外に暖かい外の空気に気づいた。

いつの間にこんなに暖かくなったのだろう…
そうだ、こんな日は…確かこの時期はいつも…あいつが…

そうして伏せられていた瞳をゆっくりと上げてみる。
そして何気なくサロンの方に目を向けた。
そこには期待を裏切らなかった金髪の少女が、月明かりと漏れてくる明かりに 照らされてキラキラと輝いていた。

あっ、こっち向きそう…!

ユリウスはどきどきしながらレオニードの行動を見守っていた。
そしてついにレオニードとユリウスの視線がつながった。

「レオニード、お帰りなさい!」
「・・・。」
「レオニードってば!ぼんやりして。お帰りなさい!!」
「あっ…あぁ、ただいま。」
「今日、この窓を開けたんだ。もうそんな季節になったんだよね。」
「そうだな。これでもうお前がわたしに泣きついてくることも あるまい。」
「どうしてレオニードはそう意地悪なんだ!!」
「本当のことだろう。」
「もう!知らないんだからね!」

ぷいっとすねてみせるユリウスである。
そんな仕草さえ疲れたレオニードに安らぎを与える。

おまえのわがままなど…たわいもない…ふふ…

一瞬目を伏せて含み笑った次の瞬間、ユリウスの姿が消えた。
開けっ放しのサロンの窓…。

「ユリウス…?」

レオニードの端正な横顔に影が落ちる。
いつもいつも一瞬、ほんの一瞬目を離した隙にいなくなってしまう ユリウス…。
だがこんな一瞬にありえないことだと頭では分かっていても、不安が よぎる。
すると、動けないでいるままのレオニードを裏切るよう、勢いよく 屋敷の扉が開いたのであった。

「ねぇ、驚いた?ふふふ。」

レオニードの一瞬の隙をついたユリウスのちょっとした遊び心だった。

「おまえという奴は…。」
「あっ、もしかして呆れてる!?」
「そういう訳ではないが…。」
「もっと驚くと思ったんだけどなぁ…。」
「ユリウス、サロンの窓が開けっ放しだぞ。」
「だって急いでたから…。」
「言い訳はよい。」
「ごめんなさい…。」

淡々としたレオニードの態度に、ユリウスの遊び心は失せ、瞳には薄っすらと涙が にじみだした。
ユリウスの涙などもう見慣れたはずレオニードであったが、今は 自分が悪い気がして妙にとがめられた。

「泣いているのか?」
「泣いてなんかいない!」

そう言い切りながらも、依然として顔を上げようとしない ユリウスにレオニードは余裕の笑みを漏らしたのであった。

「仕方のない奴だ…。」

聞こえるか聞こえないかの声で呟いたかと思うと、たたずむユリウスの 手を取り、屋敷へと入っていった。

「ちょ、ちょっと、レオニード!」

ユリウスの動揺もかまわずに、レオニードは帰宅の挨拶もそこそこ、 ユリウスの手を引いたままサロンの窓の前までやってきた。

「レオニード…?」

このあと、なにが待ち受けているのか、ユリウスはレオニード ただただ見上げるしかなかった。

そしてユリウスが見守る中、レオニードの逞しい腕が伸び、 開きっぱなしになっていた窓をゆっくりと閉めたのである。

「ほら、これでよかろう?もう泣くこともあるまい。」

そう一言いうと、ほのかな笑みを見せ、しかしすぐに厳しい顔に戻ると レオニードは振り返ることなく私室へと引き返した。

一方、ユリウスはというと、ただ呆然と立ちすくんでいた。

今のは…ぼくを気遣ってくれたの…?

レオニードの行動の真意など分からないユリウスであったが、 とにかく嬉しかった。
また少しレオニードに近づけた気がした。
家族にも滅多に見せないその笑顔が、今自分だけに向けられたかと 思うと、嬉しさで心躍らずにはいられなかった。
振り返りもせずに去っていくレオニードの背中にユリウスはもう一度 祈ってみた。

もう一度…振り返ってみせて…


レオニードが私室に入る直前、ちらりとこちらを見た気がした。
それはきっとユリウスの気のせいではなかっただろう。