尾崎、そんなこと全然ないんだよ。




                「人間の無力と実力」
    

   こうして、いま・・・どうしようもない不安と絶望、…ぬけみちのない無力感が

  ひろがりつつある。しかし、このような袋路は、私たち現代に住む人間にとっ

  て絶対的に避けることのできない「運命」ででもあるのだろうか。あきらめて

  死に急ぐか、そのほかに、人としてほんとうに自由に、美しく力強く生きようと

  意志する私たちにとって、…しっかりと立ちうる拠点は、もはやどこにもないの

  であろうか。


   ありがたいことに、事実はけっしてそうではない。絶対に確かな拠点は、い

  まもなお厳として、私たち各自の足もとにある。

   ただそれは、私たちの思想や学問によるのではないのはもとより、死を賭し

  た闘いによって「かちとられた」砦(とりで)でさえもない。いやその拠点は、

  人間の主体的なはたらき、いかなる威力にもよることなしに、ただ単純に、

  それ自体で実在する。


尾崎、いったいこいつはなにを言ってるんだ。
勝ち続けなければ自分は崩壊してしまうぜ。
なんの権威があってこんなことを言うんだ?



   なんらかの功績をまつことなしに、無条件に恵まれてくるこの堅い足場なし

  に、人生が人生としてそれだけで成り立つとか、人間が人間的主体的に

  はたらくなどということは、空中に家を建てるというのにもまさって、実際には

  ぜんぜん起こりようがない事なのだ。

   人が人として充実した生を始めるため、喜んで生きるために絶対になくては

  ならなぬ「アルキメディスの一点」は、そもそもの初めから終わりまで、つねに

  あたらしく私たち各自に密着して、私たちが一刻も早く、この驚くべき事実に

  着目するのを待っている。

   この恩恵は、私たち各自・すべての人にとって、ただ単純に感謝してこれを

  受けるほかはない。人生そのもののこの原点において、人間の主体性は

      言葉であれ、武器であれ、人間の所有しうる一切の威力は   単純

  にかつ完全に消滅している。その一点において、だれかれの別なく人間は

  ぜんぜん無力である。…


だからさ、いつだって勝ち続けなければ
オレは無になっちまう、
そいつがこわい、こわいんじゃねえか


                   怖いのです。何にもなれない自分が、情けなくて
                   申し訳なくて五体満足の身体を持て余していて、
                   どうしようもない存在だということに気付いて・・・
                                          (南条あや)


   私たちは、私たち各自の・人というあらゆる人の・この点における「無力」を

  呪うべきであろうか。いな、全然逆である。


なんだって!


   全人生の真実の基礎   すべての人がただそこでだけ本当に落ちつきうる

  幸いの故郷    は、絶対に人から失われること・奪われることのできない

  ように、そもそものはじめからおわりまで、日々にあたらしく、否応なしに、私

  たち各自に恵まれてくる。

   私たちにできること、なすべきことはただ一つ、その恵まれた基盤のうえに

  まっすぐに立ち、しっかりと振舞うために、たがいに励ましたすけあうこと、思い

  を尽くし、力を尽くして、その共通の故郷の言(ことば)をすこしでもヨリ正確に

  語るべくつとめることのほかににはない。

   そうして私たち各自の生そのものと互いに織りなす人の世が、ほんとうに生

  き生きとした楽しいものとなるためには、元来ただそれだけで、十分すぎるほ

  ど十分なのだ。

   人間の主体性、つまりこの私自身が絶対に無力であるまさにその処に、真に

  人間的な一切の実力の・世のもろもろの力はおろか死もまたこれを奪いえぬ・

  唯一の源泉があるのである。


       滝沢克己『人間の「原点」とは何か』(三一書房、1970、絶版)所収
                「[」237〜9頁より(04・4・6書込)


        尾崎豊 作「僕が僕であるために」より
        南条あや著『卒業式まで死にません』(新潮文庫)297頁より
                                  (04・4・24書込)


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     シナジー
あふれる酒杯
滝沢克己・癒しのことば集   
    引用は編集してあります


僕が僕であるために
勝ち続けなければならない(尾崎豊)