Contents: ソ連・東欧 世紀末点描 目 次 (1) 【序 嵐の前】 世紀末 トラブルのモスクワ、混乱のペレストロイカ オデッサからバカンスのクルーズへ (2) 【ベルリン 無題】 予感 無機質 廃墟 号外! (3) 【ベルリン 無題】(承前) 新聞報道 東の街 選択の理由 考えたこと (4) 【プラハ ボへミアの夢と現実】 エルベの国境 ブルタバをプラハへ バーツラフ広場 選別 (5) 【プラハ ボへミアの夢と現実】(承前) クーデタ後の街 百塔の町 街角、カフェ、レストラン 特権と官僚 (6) 【プラハ ボへミアの夢と現実】(承前) 「社会主義」と企業 博物館の記念展示に 社会主義の失敗 (7) 【ブダペスト 二重の国の二重の世紀末都市】 客引き 民宿 貧しさと豊かさと 世紀末の街へ (8) 【ブダペスト 二重の国の二重の世紀末都市】(承前) マジャール音楽、マジャール舞踊 応用美術博物館 世紀末都市 歴史の街 (9) 【ブダペスト 二重の国の二重の世紀末都市】(承前) ヘレンド磁器 二重の社会 二重の経済 庶民の活気 (10) 【モスクワ 混乱の冬に向かって】 ロシアの企業家 「市場経済」の考え方 「革命」の古戦場 (11) 【モスクワ 混乱の冬に向かって】(承前) ホテルに着いても 再会 議会前の人々 (12) 【モスクワ 混乱の冬に向かって】(承前) 市場の混乱 ロシアのわからなさ 魂のイコン (13) 【モスクワ 混乱の冬に向かって】(承前) サモワール 荒廃の兆し 「戦後」状況 (14) 【モスクワ 混乱の冬に向かって】(完) 「希望」の虚妄 大地に流れる時間 10年後の後記" |
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| 【モスクワ 混乱の冬に向かって】(承前) 市場の混乱 モスクワの現状をかいつまんで書ける言葉はありません。かと言って事実を羅列してみても、収拾がつかなくなりそうです。また、91年1月1日の価格自由化以後、市場の混乱には拍車がかかっていますから、苦労して書いてみてもむなしい感じが残ります。 おそらくモスクワには、古き良き時代と呼べる時代はなかったのかもしれません。革命の情熱が物不足とインフレに勝っていた1920年代を別とすれば、かろうじてフルシチョフ時代の1960年代前半が、良き時代と言えるのかもしれません。事実モスクワやレニングラード(現サンクトペテルブルグ)を歩くと、歴史が1960年代で止まってしまったかのような感覚も、たしかにあるのです。 そしてルーブルのレートや物価を当時に当てはめて考えてみると、かつての、年寄りがのんびりと暮らしていたモスクワのイメージも描けそうです。 しかし86年には、ルーブルの闇レートが1ドル=3ルーブルでした。これは、実勢かなという感じがしないでもない相場でした。 89年に訪れたときの闇レートは、1ドル=6〜10ルーブルでした。 86年も89年もルーブルは公定で換えなければならない時代でしたし、貧乏旅行の感覚では、食事や消費物資などの値段はかなり高く感じました。旅行者が通常の観光ルートに乗っているかぎりは、レストランもみやげ物も外貨払いで、ルーブルはほとんど使えない仕組みでした。それでも89年には何とか庶民レベルで歩いてみようと、6ルーブルの相場で10ドル両替してみたところ、物価がべらぼうに安く感じて、使いきるのに困ったものです。 この夏の旅行者レートの30ルーブルとなると、物価の感覚は麻痺します。これで換算すると、レストランの食事が200円以下ですからどうしようもありません。このようなレートは、実勢とは言えないはずです。事実、闇ドル買いにはもうお目にかかれませんでしたし、闇屋のドル価格とルーブル価格を比べてみても、ドルははるかに安くなります。 たとえば、両替できなかったときにドルで払ったレストランでは、1人5ドルでした。アルバート通りの露店では、琥珀の5連のペンダントが35ドル、1個なら10ドルと声をかけられましたが、ほかの露店で1個100ルーブルぐらいで売っている品物でした。ホテルの掃除のおばさんが持ってきたキャビア(最高級品)が10ドルでしたが、価格自由化後の値段が120ルーブルとかいう記事を読みましたから、当時の自由価格は100ルーブルぐらいのはずです。 ホテルのおばさんのキャビアは、ありがたく頂戴しました。横流しには違いないのですが、そういう闇には共感を抱いてしまいます。 つまり商品の闇値との関係では、1ドル=10ルーブルで均衡していたようでした。 闇ドルの相場はかつて、ドル・ショップで買える商品を自由市場で売ったときの値段でした。ドル・ショップの値段が、両替レート換算だと異様に高く感じられたことは、この関係が続いていることを裏書きしていそうです。しかもこれは、生活に必ずしも必要な商品についての値段ではありません。 経済的な意味でのルーブルの実勢は、これよりさらに高く考えるべきなのでしょう。先の、唯一現実的だったかもしれない90年秋のシャターリンの改革案では、ルーブルの現実的な(主に国際貿易に関連してですが)レートとして1ドル=2ルーブルを掲げていました。 外貨オークションというのがあり、この相場が両替相場の基準となっています。これは、外貨の必要に基づく企業間取引のためという建て前だったのですが、取引額は微々たるもので、今や相場建てのためにのみ利用されていると考えられます。オークション相場は、夏、70ルーブルになったことがあると言われていました。 外貨収入のある機関や企業や人々、貿易利権、闇市場などの存在を考えると、この異常なルーブル相場で大儲けできる闇屋は確実にいそうです。 誤解を避けるための蛇足ですが、実勢その他の感じはあくまでもこの夏の話です。物価自由化以降のインフレでルーブルの崩壊は一挙に加速し、たちまち1ドル140ルーブルになりましたが、先行きを見込んだ現実的な相場となるともはや見当がつきません。 ロシアのわからなさ モスクワには、同じことに正反対の表現ができるほど、ちょっと想像しにくいスケールの外れたところがあります。食糧不足にせよ、物不足にせよ、その例外ではありません。 有名なグムのほかにも、クレムリン周辺に大きなデパートがいくつか新設されたことなどに、消費物資の供給拡大の姿勢があったことはうかがえます。しかし空港からモスクワ市内に入ったあたりなどに、並んだ看板をそのままにそっくり店じまいして廃虚化したような町並みが見られるなど、とにかくふつうの商店の存在感がなくなっています。 ロシア議会前からモスクワ川を渡った現クツーゾフ通り、巨大なウクライナ・ホテルの近く、かつては大規模なベリョースカ(ドル・ショップ)があったあたりには、衣類やアクセサリーを中心にコーペラチフ店が並んで大変なにぎわいです。値段のほうは、為替レート換算では安いにしても、給料との比較ではとうてい手が出ない感じになります。このあたりには国営店もあるのですが、靴屋をはじめ相変わらずの大変な行列で、何がどれぐらいで出ていたのかもわかりません。 今回は、両替その他にやたらに時間を取られて、古本屋やレコード屋などにも活気のあった旧ゴリキー通り付近の街をのんびり歩く時間が取れませんでした。そこここの広場でビラを配り、新聞を売りながらの演説に人の輪ができたりして、雰囲気はたしかに変っていたのですが、通りすがりに終わったのがちょっと残念です。 それにしても、ミサイル以外に何もない国という表現さえあてはまる一方で、食糧はもちろん、必要な物は何でもあるとも言えるのです。 何でもあるのはもちろん自由市場で、何もないのは国営店。一物一価の原則などと言うまでもなく、物が自由市場に流れるのは当然の現象です。価格差も拡大して6倍から10倍ぐらいになったと言われてますから、言い換えればそれだけのインフレが生活を直撃していることになります。 テレビは連日最高会議の様子を中継しています。新しい友人は、テレビがある場所ではその内容をこまめに通訳してくれます。 連邦のパブロフ政府に対する激しい批判の中で、為替政策ももちろん取り上げられていました。1ドル=6ルーブルへの切り下げは正しかったが、その直後に15ルーブルに切り下げたことが混乱を招いた、などという批判です。 すでに逮捕されたパブロフ首相の副官に当たる党官僚(名前は忘れました)が、モスクワには食糧があと7日分しかない、と発言しました。この発言は、皮肉にも品数豊富なユダヤ・レストランで聞いたのですが、真意を疑いました。 危機感をあおって保守派クーデタを弁護するための嘘か、単なる脅しか、国営店への供給在庫か、それとも市場の実態を知らずにほんとにそう信じているのか……。 混乱が続く中で冬を控えて、たとえ経済がわからないとしても政治家の緊急の課題は、食糧、衣料、医薬品の供給を確保して、インフレを抑えることにあるはずです。 これに比べればたとえば、実効はともかく今の改革の推進者のガイダル副首相は、価格と個人の商売(売り食い)の自由化について、官僚=マフィアの供給独占=市場支配と戦うための唯一の手段だと説明(「ヘラルド・トリビューン」のルポ)する感覚があります。 数百万の餓死者が出たといわれる1920年頃とは違って、食糧も資源も基本的には豊かなはずの今の、食糧不足、物不足です。この供給不足は、善意で解釈しても供給体制の崩壊、むしろ独占による人為的な操作と考えるのが妥当に思えます(実際のところは、旅行者にはとうてい確認できませんが)。 消費物資にしても、縮小再生産から崩壊への過程が危ぶまれるのかもしれませんが、まだ今のところは、改革を待つゆとりがありそうな気がします。あるいはそのゆとりが市民に感じられることだけが、救いかもしれません。 イタリアのグラムシは、革命当時のロシア社会をアジア的なゼラチン状の不定型な市民社会と表現しました。今も、この冬をどう乗り切れるのだろうかと尋ねたら、ロシアには共同体があるという答が返ってきました。別の人は、年金生活者がどうして生きているのかという問に、家族とか親戚とか、誰か助ける人がいるのだと答えました。そして幸いなことに、この冬モスクワで餓死者が出たというニュースはありません。 こういうわけのわからなさには、やはりロシアはロシアだという思いを新たにします。 魂のイコン タルコフスキーの映画に「アンドレイ・ルブリョフ」というのがあります。ルブリョフ(リュブリョーフ)とは、ロシアの魂のイコンと呼ばれる「聖三位一体」(トロイツァ)を描いた画家、修道士です。この映画はフィナーレで「聖三位一体」を見せてくれるのですが、内容の記憶はすっかり薄れてます。ほかにタルコフスキーがこの絵を語る映像をテレビで見た記憶もあって、タルコフスキーが語ることについてはちょっと捉えきれないのですが、いずれにせよ、彼がロシアの生と現実と、芸術、この絵との関係の中でリュブリョーフとその「聖三位一体」を描こうとしたことだけはたしかです。 イコンとは、ビザンチンの東ローマ教会が偶像崇拝を緩和した後に9世紀頃から信仰の対象として発達した聖画像です。イコンは、たとえばイタリア、パドヴァのスクロヴェーニ聖堂にあるジヨットの「キリストの生涯」に見られるように、イタリア・ルネサンスの源流ともなるのですが、ロシアにおいては、ロシア教会ばかりでなく、ロシア美術、あるいはロシア人についても、このイコンの伝統抜きには語れないような気がするぐらい、重要な存在だと思います。 ヨーロッパに行くのにモスクワでストップ・オーバーしたくなる1つの理由は、このロシア・イコンでした。リュブリョーフのイコンは、トレチャコフ美術館にあります。ほかに、クレムリンの教会にもあり、都心を離れた場所にリュブリョーフの修道院がリュブリョーフ博物館となって残されていますし、郊外には「聖三位一体」がトロイツキー聖堂に置かれていたトロイツェ・セルギエフ大修道院があります。 しかしトレチャコフ美術館は85年頃からずっと改築中ですし、モスクワではいつも大きなトラブルに見舞われて、これまでクレムリンに入る時間もありませんでした。 トレチャコフの収蔵品の一部はどこかで展示されていると聞いていました。ところが、誰に聞いても言うことが違います。 とにかくまず、一番近いゴリキー公園の向かいの「新館」(と言われたことのある場所)に行ってみることにしました。トロリー・バスの路線があるのですが、バリケードに使われたため運休ということで、雨の中を歩いてたどり着くと、「新館」ではなく芸術家センターでした。ゴリキー公園の入り口の巨大なレーニン像は残ってるのですが、ここの中庭には、「革命」の中で倒された銅像がいくつか転がっていて、その情景にいささか感慨はありました。中に入ってみると、現代美術の特別展をいくつかやってるだけ(上野の都美術館のような感じ)でした。もぎりのおばさんに聞くと、リュブリョーフはトレチャコフで見られると言います。トレチャコフはまだ改築中のはずなのにと思いながらも、地下鉄で「旧館」最寄り駅に急ぎ、降りて最初に道を尋ねた相手がちょうどトレチャコフに行く人でした。 行ってみると、改築中の「旧館」のすぐそばに、特別展に使われると思われる「別館」が新設されていました。たどり着いてみると、大勢尋ねて違う返事をくれた人たちの中に1人だけ正確な情報をくれた人がいたことがわかりました。ホテルで小銭を借りた女性です。 思い出してみると、ロシア・イコンが見られると言ってましたが、ここでは何と、大がかりなイコンの特別展を2つもやってました。一方は、リュブリョーフはじめ、トレチャコフの収蔵品の14世紀からのロシア・イコンの特別展、他方は、12世紀からのビザンチン、ロシア、ウクライナなどのイコンをクレムリンはじめ各地の教会と美術館から集めた大規模な展示でした。 モスクワではトラブルはもちろん、予想もしなかった変貌もあって、特にクーデタから「革命」へのさ中に我ながら旅行はいささか酔狂だったかと思うほどで、ときにはうんざりさせられることなどあったのですが、そんな旅の思いを一瞬で消し去ってくれたのが、やはりリュブリョーフでした。 「聖三位一体」は、間違いなく魂が洗われる絵です。阿片ならずとも、十分に憂き世の苦痛と渇きを癒すだけの霊能が、このイコンにはたしかにあります。 リュブリョーフは、15世紀末から16世紀半ばにかけて、モスクワ公国が「タタールのくびき」を脱してロシア民族を統一していく時代の修道僧です。その絵は、穏やかで懐が深く、イタリア・ルネサンス初期のジヨットの信仰告白に通じるものがあります。 インツーリストが正確な情報をくれないせいか外国人観光客の姿はまばらでも、ロシア各地から訪れてきたと思われる人々を含めてロシア人観客は大勢入ってました。しかしさすがにどの展示室も、イコンの雰囲気そのままに静謐でした。十字を切って祈りを捧げる人こそ多くはないものの、昔ながらのロシア農婦の身なりの人たちもかなり目に着き、宗教が阿片だった時代もファッションと化した今もロシア人の魂に変わりはなさそうだという思いを抱きました。 | |
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