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迷路歴程 [ソ連・東欧世紀末点描 (8)]


飾り罫線

Contents:

ソ連・東欧
世紀末点描

目 次


(1)
【序 嵐の前】

 世紀末
 トラブルのモスクワ、混乱のペレストロイカ
 オデッサからバカンスのクルーズへ

(2)
【ベルリン 無題】

 予感
 無機質
 廃墟
 号外!

(3)
【ベルリン 無題】(承前)

 新聞報道
 東の街
 選択の理由
 考えたこと

(4)
【プラハ ボへミアの夢と現実】

 エルベの国境
 ブルタバをプラハへ
 バーツラフ広場
 選別

(5)
【プラハ ボへミアの夢と現実】(承前)

 クーデタ後の街
 百塔の町
 街角、カフェ、レストラン
 特権と官僚

(6)
【プラハ ボへミアの夢と現実】(承前)

 「社会主義」と企業
 博物館の記念展示に
 社会主義の失敗

(7)
【ブダペスト 二重の国の二重の世紀末都市】

 客引き
 民宿
 貧しさと豊かさと
 世紀末の街へ

(8)
【ブダペスト 二重の国の二重の世紀末都市】(承前)

 マジャール音楽、マジャール舞踊
 応用美術博物館
 世紀末都市
 歴史の街

(9)
【ブダペスト 二重の国の二重の世紀末都市】(承前)

 ヘレンド磁器
 二重の社会
 二重の経済
 庶民の活気

(10)
【モスクワ 混乱の冬に向かって】

 ロシアの企業家
 「市場経済」の考え方
 「革命」の古戦場

(11)
【モスクワ 混乱の冬に向かって】(承前)

 ホテルに着いても
 再会
 議会前の人々

(12)
【モスクワ 混乱の冬に向かって】(承前)

 市場の混乱
 ロシアのわからなさ
 魂のイコン

(13)
【モスクワ 混乱の冬に向かって】(承前)

 サモワール
 荒廃の兆し
 「戦後」状況

(14)
【モスクワ 混乱の冬に向かって】(完)

 「希望」の虚妄
 大地に流れる時間
 10年後の後記


ソ連・東欧世紀末点描(8)


【ブダペスト 二重の国の二重の世紀末都市】(承前)


マジャール音楽、マジャール舞踊

 夜、市電を乗り継いで、ブダの南にある民族文化センターに民族舞踊を観に行きます。途中に大きな市場がありました。マーケットの建物のそばに売り台を並べた広場があったので、おそらく自由市場だとは思いましたが、残念ながらブダペストに着いたのは週末。労働者がしっかりと休みを取る国ですから、近所の店やレストランも、いちいち開店時間を確かめておかなければならない始末でした。街のにぎわいを見るのは翌々日までお預けです。

 東欧は民族音楽の宝庫で、ハンガリーにも、バルトークやコダーイを引き合いに出すまでもなく、マジャール音楽の伝統があります。マジャール民族舞踊にはスラブ風も混じり、小編成のバンドのバイオリンにはジプシー風も混じって、なかなか楽しませてくれます。中で印象に残ったのは、言葉はわかりませんが哀愁を込めながらも力強く、民族衣裳で東洋的5音階の民族の歌を歌い上げたバスの歌手でした。

 宿があるのはアッチラ通り。紹介してくれた夫婦からは、マジャールとフンという2人の王子が狩りに出て魔法の白い鹿に出会うという建国神話の話を聞いてます。ハンガリーは、そのアッチラ大王率いるフンと少し遅れてウラルから来たと言われるマジャールの2つの民族によって形成されたと言われます。その以前も以後も、ドゥナ流域は幾多の民族が移動を繰り返して、民族的、人種的な混交を繰り返しています。その征服、被征服の歴史もあってか、欧州の孤児としてアジアに寄せる親近感も大きいとも言われます。

 江差追分けとハンガリーの葬送歌の関係を追いかける小説を読んだことがあります。ブダペストのリスト音楽院は、日本からの留学生が詰めかけることでも有名です。ハンガリーは、文化的に日本人が親近感を抱ける国です。

 一方、ブダペストの人たちの日本への親近感も、かなりのものがありそうです。この前の大戦で枢軸国だったことや日露戦争はともかく、人種的にアジア人と同根だということは関係していそうです。姓名の順序やマジャール語の語順が日本と同じだということは、かなり知られた事実です。指揮者小林研一郎は絶大な人気がありますし、まあ、日本人にとっては居心地のいい街ではあります。

 このセンターのロビーでは、民族音楽のCDやカセットテープはじめ、民族衣裳、ビーズ細工、レース刺繍などの民芸品を売っていました。舞踊団も劇場も国立ですが、民芸品は、街頭の立ち売りのおばさんたちが売っているものと、品物も値段もほとんど変わりません。ただ、ここでも、後で見た骨董屋などでも、鎖橋で見たほどのものはとうとう見あたりませんでした。

 ブダペストの普通の商店は営業時間が短いのですが、24時間営業の店、8時から20時までの店があって、そういう店は大きな営業時間の看板を出しています。劇場を出てから、アイスクリームなどを売っているそういう店を覗きながら帰ったのですが、商品の種類はやはり多くはありません。

 ソ連のクーデタのその後が気になるのですが、帰るとテレビが、外務省前のバリケードの衝突の模様を流していました。しかしハンガリーの番組はあまり映像がなく、またBBCもCNNも、もう変わりばえのしない報道です。
 外国の新聞も、駅などではほとんど手に入らないのがちょっと意外でした。ハイヤットやヒルトンなどのホテルには「ヘラルド」など英字紙が多少あったのですが、この日は見つかりませんでした。

世紀末都市

 翌日、地下鉄でペストの中心部に出ます。ペストの中心部には環状道路が、マルギット橋から西駅、アンドラーシ通り(英雄広場に向かうシャンゼリゼにも似た通り)、大学、国立博物館、応用美術博物館(工芸美術館)などを通って大きな弧を描き、ペテフィ橋からふたたびブダに入ります。これが、華麗な世紀末建築に彩られた実に美しい街並みです。当然ながらウィーンに似ていますが、そのリンク(環状道路)よりスケールが大きく、ウィーンより有機的な人間味が感じられます。

 大学の前を通ってこの道を博物館まで歩きます。大学も、装飾タイル張りの外壁が、ブダペスト世紀末建築の1つの特徴を印象的に語りかけてきます。

 プラハのことがあるので博物館に入ってみると、やはり近代史の特別展がありました。これが「キリスト教の勝利」と題して、17世紀のトルコからの解放を起点にしたものでした。ハンガリーの近代化の歴史はチェコと似通っていますが、違うのはその屈折ぶりで、ハンガリー一流の反ユダヤ的、反自由主義的な民族主義がキリスト教を名乗った歴史もあります。展示は、テーマの選び方のせいもありますが、工芸的な側面に重点が置かれ、必ずしも文化的、社会的な側面が重視されているわけではありません。しかしそういう展示でも、街の雰囲気との歴史的関連が感じられますので、やはり博物館は入ってみるものです。

 米国から最近返還されたハンガリー王家の王冠も、特別室に展示されていました。王冠としては変哲もないものでしたが、その警備も含めて扱いぶりに、キリスト教と同種の思い入れが感じられます。

 ちょっとがっかりして博物館を出ると、ブダペスト大学との間に世紀末風のカフェがあったりして(休みで残念)歩くほうが面白いかと、ぶらぶらドゥナに近づくと、イブス本社の前に出ました。この建物は、ウィーン・ゼセッション(分離教会)派に属すといわれるレヒネルの作ですが、通りを隔てて向かいの解放広場に座って眺めているうちに、同じレヒネルの応用美術博物館が見たくなりました。

 地図を見ると応用美術博物館は、国立博物館の少し先になります。広場が地下鉄駅だったのですぐに飛んで行きました。

応用美術博物館

 応用美術博物館は傑作でした。マーシャーチ教会でトルコのモスクの影響と思われる華麗な装飾を見ていたのですが、この美術館の外観の装飾性は、一見の価値がある見事なものでした。これは、スペインのアンダルシアに残るモーロ人(アラビア人)の建築の装飾性にも比べられそうです。それは、アンダルシアでモーロ人の建築に触発されたチュリ・ゲラー様式のグロテスクに堕した装飾とは、精神性において明らかに異なります。ウィーン世紀末ともおそらく一線を画すところでしょう。

 ところが入ろうとすると、おつりの小銭がないから崩してこいと言います。40円ぐらいの入場料に200円ぐらいの札を出したのでまさかと思ったのですが、小銭のトレイまで見せられて、ここもやはり官僚の国かと、地下鉄の駅まで戻って切符で崩しました。

 内部は、中央の吹き抜けのホールを部屋がぐるりと取り巻き、天井からの採光も申し分なく、空間の雰囲気も落ち着いて、収蔵品の多さに比べて規模はいささか小さいものの、美術館として十分に機能的な設計です。2階からは回廊を通じて別館に回れます。

 ブダペストは、1848年のヨーロッパ革命以後、爆発的に発展した街です。この発展を方向づけたのは、独立運動の挫折を経た後の1867年のハプスブルク帝国との「大妥協」政策で、オーストリア=ハンガリー二重帝国と呼ばれる半独立の妥協的、折衷的な国家を成立させます。そこから、世紀末、第一次世界大戦にかけてのブダペストの民族的な文化が花開き、爛熟していくわけですが、この美術館には、本館にその時代の調度が陳列され、別館に製紙、出版、織物、刺繍などの工芸品の歴史的な陳列がありました(こちらはなかなか面白かったのですが)。

 それにしても、ソ連・東欧の美術関係の博物館の展示品の現状は、想像を絶するお粗末さです。この美術館にも日本美術のコレクションはじめ、豊富な収蔵品があるはずなのです。これらが日の目を見ない現状は、おそらく1930年代のロシア・アヴァンギャルド美術や演劇のメイエルホリド・グループなどの大粛清、戦後の俗に言う「ジダーノフ批判」、政治主義の権化ともいうべきスターリン主義文化政策の後遺症にほかならないのでしょう。要するに、「社会主義リアリズム」だけが真の芸術で、リアリズムを基準に階級性を問うイデオロギー的文化論です。公認の芸術以外の異端の芸術はブルジョワ的堕落、反動だという政治的強制の歴史の、1つの帰結なのでしょう。見たいものは多いのに、どうしてもフラストレーションが生じます。

歴史の街

 アンドラーシ通りは、ペストの中心をドゥナから英雄広場と市民公園まで、商店も多く、数々のカフェやリスト音楽院はじめさまざまな歴史の現場もあり、世紀末的な雰囲気を色濃く残して縦断する大通りです。そのドゥナ側の起点近くに、同じく「大妥協」の時代の政治家の名を取ったデアク広場があります。ここに、空港へのバス・ターミナルがあります。ブダペストの空港は2つあって、モスクワ便がどちらから出るのかと、南駅のイブスで聞いても、相変わらずの官僚主義で分かりません。アエロフロートに電話して空港とターミナルを確認したのですが、朝早いので前日、検分に行きました。

 この広場もわかりにくく、手こずりました。隣接して他にもいくつか広場があったからです。ここは、空港行きだけでなく、国内各方面、チェコ、オーストリア、ドイツ、イタリアなどへの長距離バスのターミナルでした。ハンガリーの鉄道は安いのですが、バスになるとさらに安そうで、ビルの中の切符売り場には長い行列ができていました。

 この広場は最近までエンゲルス広場と呼ばれ(と思いますが、正確なことはわかりません)、西駅前のマルクス広場からの道に通じます。大戦中はムッソリーニ広場のはずです。そして、この通りの終点の英雄広場がたしかヒトラー広場(戦後一時期はスターリン広場)で、アンドラーシ通りは独伊枢軸通りと呼ばれたのです。その後、人民共和国通り、共和国通りなどと変わって、今は世紀末のアンドラーシ通りに戻ったわけです。
[追記:この広場は今、エリジェーベト広場と呼ばれています。ほかにも古い名前が残ってるかもしれませんが、見逃していればご容赦。]

 広場や通りのこの頻繁な呼び名の変更は、ハンガリーが肥沃なドゥナの平原にあるためさまざまな民族にローラーのように進攻され、支配されてきた歴史を集約しているように思われます。それを、政治的な節度云々と切り捨てることはできそうにありません。むしろそこに、この国の政治、文化の折衷的とも見える屈折した論理が感じられてならないのです。

 この歴史、北方のポーランドと似たところがあります。

 第一次大戦後の1919年、ルーマニアの進攻に対してベラ・クーンのソビエト政権を成立させながら、オーストリアの勢力が迫ると130日でたちまちこの政権を崩壊させた国です。ファシズムの時代にナチスを模した矢十字党の政権によってドイツに接近することで、オーストリアやチェコのような併合を免れ、大戦で枢軸側に立ちながら、ユダヤ人弾圧政策など、ナチの政策には必ずしも同調せず、戦争の局外に立とうとさえします。

 つまり、クロアチアやスロバキアのように必ずしもナチの傀儡国家とはならなかったわけです。もっともこの立場を貫き通すことはついにできず、44年にドイツの占領を許してブダペストはソ連軍に包囲され、ドゥナを挟んで6カ月という長い市街戦の戦場になります。当然、鉄道橋2つを含む8つの橋はすべて落とされ、街もヨーロッパ有数の大規模な破壊にさらされています。ですから、歴史的な建物も多くは復元されたもののはずです。

 ハプスブルク帝国との「大妥協」を含めて、このような政治に道徳的な是非の批判はありましょうが、したたかな妥協だったことは間違いありません。そしてそのしたたかさは、1956年のハンガリー動乱後の最近までの、現在の経済的、社会的な二重性をもたらした改革の歴史にも見られるのです。
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