<塾長>

 山根 裕 
 1953年(昭和28年)生まれ 仙台市出身
 早稲田大学大学院文学研究科修了 教育哲学専攻
 東京で14年間、院生時代より受験塾で教務主任を務め、開成、早稲田、慶応、麻布、学芸大付属、小石川、
 竹早等の中学高校の合格者を育成。
 1990年(平成2年)当学舎を設立し、現在に至る。

 <塾長補佐>

 山根 茂
 1958年(昭和33年)生まれ 仙台市出身 
 早稲田大学大学院文学研究科修了 社会学専攻
 東京で8年間、院生時代より受験予備校に勤め、早稲田、慶応、武蔵、富士等の高校受験を担当。
 1990年(平成2年)当学舎を設立し、現在に至る。

 <コラム>
93 知能論 IQとEQ?
92 中学部の授業内容 今はこういうやり方で行っています。
91 小学部の授業内容 今はこういうやり方で行っています。
90 天動説と地動説? 君の家族はどっち?
89 30年ひと昔・・・ 誤解しないでください!
88 どうしていいかわからない? まずは簡単なものからかたづけること!
87 書かずにいられないようでは、私もまだまだ パート3 これでいいとは絶対思わない!
86 数の感覚?言葉の感覚? 感覚は重要である!
85 わからないことは、チャンスである! 頭と心を鍛えるにはもってこいだ!
84 人も一生、われも一生! パート7 あなたにとって大切なものは?
83 反抗期アラカルト? パート3 友人間でお互いが重要であること
82 テストの採点って? 学力を測るためのものであるはずなのに・・・
81 中高一貫校の登場! 適性検査って?
80 「あれかこれか」と「あれもこれも」 学習にやりがいを感じること
79 塾のあと パート1 大学進学のこと
78 名医とは? 古代中国の教え・・・
77 勉強と部活等との両立 パート3 受験でものいうもの?
76 学力を測るものさしは? 自己修正力の有無
75 意図的教育と無意図的教育? 計画性だけが有効ではない?
74 人も一生、われも一生! パート6 自分にあった生き方?
73 「わかった!」から「わかっている」へ! 一時完了から長期継続へ!
72 勉学に王道なし! 質は量で決まる!
71 15年ひと昔・・・ 時の変化に流されずに、柔軟に対応する塾であり続けること!
70 理科社会は早めの方が・・・ 理科社会を制する者は高校受験を制する?
69 戦いすんで日が暮れて・・・ 一番長い日々?
68 マラソンレースと受験勉強? どういう走り方がいいか?
67 中3諸君へ、受験前夜に! パート2 おーい!
66 中3諸君へ、受験前夜に! パート1 自分を信じよ!人を信じよ!
65 中3直前講習 受講心得! いよいよである!
64 書かずにいられないようでは、私もまだまだ パート2 入試結果報告のこと
63 人も一生、われも一生! パート5 夏目漱石
62 「ゆとり教育」の次は? パート2 いつの時代もタイムラグがある・・・
61 「ゆとり教育」の次は? パート1 子どもにとって本当に必要なものは?
60 得点か?失点か? 合否判定によって受験間近の対策はちがう!
59 人も一生、われも一生! パート4 大雪の受験日・・・
58 中3諸君の健闘を祈る! アーレア・ヤクタ・エスト!
57 本屋さんの問題集? いい問題集なら、とっくに塾で使っています・・・
56 これからの受験勉強はどうあるべきか? パート2 受験勉強へのアドバイス第二弾!
55 頭と心が疲れたら? パート2 自分だけの引き出しを持つこと?
54 頭と心が疲れたら? パート1 解決法は遠くにある?
53 過度と適度? オーバーワークとハードワーク?
52 自己確認のためのコラム? 今のこと? 昔のこと?
51 雲からも風からも・・・ 新年恒例、塾生諸君へ贈る言葉
50 中3冬期講習 受講心得! 蓄えた実力を発揮するときが来る前にもう一度!
49 高校受験は楽ではありません! パート2 毎年今頃恒例の喝!
48 受験面談でたまに思うこと・・・ パート3 後悔する?しない?
47 受験面談でたまに思うこと・・・ パート2 人も一生、われも一生・・・
46 受験面談でたまに思うこと・・・ パート1 国公立推薦について
45 好きでもないことに熱心になれる子ども? 勉強と遊びと部活と習い事・・・
44 失敗に学べ! 成功に続け! 防げる失敗がある!
43 合格と不合格の理由? 失敗に学べ! 成功に続け!
42 勉強と部活等との両立 パート2 君はどのくらいのエネルギーを持っているの?
41 勉強と部活等との両立 パート1 エネルギーとは、体力・知力・感情・意志・時間・速さの総和!
40 入試の作文対策? 習うより慣れろ!
39 頑固親父? 子どもの頑固さは直しておきたい!
38 書かずにいられないようでは、私もまだまだ パート1 体験入会のこと
37 なんのために勉強する? パート2 君はどれ?
36 これからの受験勉強はどうあるべきか? パート1 受験勉強へのアドバイス第一弾!
35 考えていない?考えている? 考えないとよい結果?考えると成長?
34 おろかなもの? 塾の座右の銘?
33 おせっかいはいやですか? 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥!
32 反抗期アラカルト? パート2 親の意図? 子どもの解釈?
31 一流?二流? ランク付けする塾ではないのですが・・・
30 中学校の定期考査の範囲? フェアーであるべき!
29 後悔したこと? パート2 席自由?
28 ご気分はいかがですか? 気分よく帰らせたいのですけどね・・・
27 九人の侍? 優秀であることの条件?
26 育てられることと育つこと? 自分で育つ!
25 反抗期アラカルト? パート1 ほんとうの自分ってあるの?
24 中3夏期講習 受講心得! 実力を蓄え、確かなものにしよう!
23 人も一生、われも一生! パート3 勉強のしかた?
22 今のままで満足かい? 自分を変えるには勇気がいる!
21 後悔したこと? パート1 ただより高いものはない?
20 1990年6月11日? 君たちが生まれる前のことですが。
19 高校受験は楽ではありません! パート1 簡単に合格できると思っていませんか?
18 人も一生、われも一生! パート2 作文練習に見るある中3生の決断!
17 君はプライドを持っているかい? 自分に自信を持つことは大切です!
16 夏が来れば? 素足はだめです!
15 「どうせ」君? どうして、そう最初から決め付ける?
14 自主的であるとは? 自分で考え、自ら行動する!
13 人も一生、われも一生! パート1 作文練習に見る中3諸君の目標論
12 NOWHERE? どこにもない!
11 木が花を咲かせるためには? 根と幹が肝心!
10 ちゃんと食事してますか? いつもごちそうとは限らない!
9 勉強での積極性はどうやってわかるか? 活発な生徒だけが積極的だとは限らない!
8 記憶の持続はどうすれば? 思い出す間隔をじょじょにあけていくべし!
7 江戸時代にはこうだった! 年齢に応じた成長ってある?ない?
6 一生の数字? 「たったこれだけ?」それとも「え?こんなに?」
5 なんのために勉強する? パート1 ヒトから人へ!
4 知を待つ者から知を求める者へ! 賢くなりたかったら、質問しなさい!
3 浪人回しってなんだ? 勉強と息抜きの区別をしっかり!
2 姿勢がよいとなにがいいの? 姿勢がよいとすべてによし!
1 理解の工夫! 暗記の工夫! 理解や記憶は、回数と刺激の強さに比例する!
0 文は人なり! 書いてみてはっきりする!










その93
 知能論 IQとEQ?
 
 最近見た、イギリスBBC放送の、「知能」についての番組で面白いことが言われていた。児童の学力といったとき、私たちが考える学力とは簡単に言えば「知能指数」つまりIQを視野に入れた話になるというのだ。実際は、IQの高低と学校でのテストにそれほどの関係がなくても、やはり、IQが高い児童は知能が高いと考えられている。現に、日本ではさほどでもないが、欧米ではIQの高い人たちだけの団体が作られ、高度なパズル問題などを作って交流しているらしいし、彼らを研究対象にした研究者もいる。つまり、IQの高い人は特別な知能を有する人であるわけだ。そして、彼らの次に価値あるものとして、例えば国家試験等で高得点を取る人たちがいる。その流れの中で、学校教育においてもテストで高い得点を取る者には価値が認められる。これらの知能論に共通するものは、その知能が数値で表されることである。
 ところで、知能論において、数年前からEQなるものが主張されている。まだ、一部の学者の主張だが、一考しておく内容である。(日本では『心の知能指数』と訳されているが、理論の検証もせずに実用プログラム等の売り込みをしている会社もあるようだが・・・)
 いままで、知能とか学力とか、そういったものとはちがって、むしろ、感情的側面といわれてきたもの、例えば、辛抱強くことにあたる、しっかりと人の話を聞く、みんなとなかよくする、といったものも、知能・能力のひとつではないかというのである。実際、われわれ大人が、社会や他人から評価される場合、従来の学力、例えば、数学ができる人だから立派だとはいわれない。むしろ、人当たりがいいとか、そういったことで評価される。そういう要素はすべて知能・能力だというのである。子どもの知能を育てるということは、従来のIQに代表される能力だけでなく、あいさつできる、てきぱきと答える、人を思いやる、そういったことも人間関係においての知能として、正しく見直すべきだというのである。たしかに、それらは数値では表せないものである。それを無理に数値化することは無謀である。だが、重要な人間の構成要素であることは確かだ。
 ここまで話を続けると、なんだ、日本では昔から道徳として教えてきたではないかといえなくもない。欧米の二者択一的な思考の中で、ようやくここまで達したとも言える。だが、科学的なアプローチで、知能として捉える考え方は日本にはなかった。その点でこれからの知能論や能力論の裾野が広がったと思う。
学校はその時代にあった能力を育てる場であるのだから、従来の知能論に固執していてはいけないことは確かだ。これから先、知能論がどう変容し、社会がどういった人間を求めていくのか?それに対して、学校がどう対応していくのか?

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その92
 中学部の授業内容 今はこういうやり方で行っています。
 
 塾生ならびに保護者に渡している入会時の説明です。(教材名は省略してあります)
 
国語:授業は、各塾生の国語力に適した級(10級〜1級)から解き始める進級式プリントと、当塾として該当学年に解かせたい読解力養成の共通問題のプリントや文法のプリントを併用して主として個別対応で行っています。中3は後半から作文練習が加わります。学校の試験対策用には、テキストと教科書準拠用のプリントを用意して対応しています。家での学習用または学校の試験仕上げ用に副教材を渡してあります。確認テストでは定期的に漢字テストを実施しています。月例テストは、文章題と履修範囲の文法や語句に関する実力問題になっています。
 
数学:授業はテキストを使って、学校の履修範囲の解説と問題演習を主に集団授業で進めています。また、家で行う復習と学校の試験対策用に、副教材を添削の形で指導しています。塾での学校の試験対策用には、教科書準拠用のプリントを2種類用意して、集団形式と個別形式をおりまぜながら試験範囲の理解定着を図っています。確認テストでは履修した単元について定期的に小テストを実施しています。特に中3は、9月以降中1からの全ての単元の小テストを実施し、各自の苦手な単元の分析と対策を行っています。月例テストは、すでに習った単元の実力問題になっています。
 
英語:授業は教科書と当塾編集のテキストを使って主に集団授業で行っています。学校の試験対策用には、教科書準拠用のテキストとプリントを2種類用意して、集団形式と個別形式をおりまぜながら試験範囲の理解定着を図っています。中2・中3では、家庭学習の補強のためのノートを用意し、添削指導を行っています。確認テストでは履修した単元について定期的または夏冬の講習で集中的に小テストを実施しています。月例テストは、最近習った単元の実力問題になっています。
 
理科・社会:授業はテキストを使って、学校の履修範囲の解説と問題演習で進めています。主に集団授業です。学校の試験対策用には、教科書準拠用のプリントを2種類用意して、集団形式と個別形式をおりまぜながら試験範囲の理解定着を図っています。家での学習用または学校の試験仕上げ用に副教材を渡してあります。確認テストは、副教材から履修した単元について定期的に小テストを実施しています。中3は、4月初めから、用語問題集を使って確認テストの形で中1からの総復習を始め、すべての単元を網羅します。特に理科は、9月以降用語問題集とは別に中1からの全ての単元の小テストを実施し、各自の苦手な単元の分析と対策を行っています。中2後期からの月例テストは、すでに習った単元の実力問題になっています。

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その91
 小学部の授業内容 今はこういうやり方で行っています。
 
 塾生ならびに保護者に渡している入会時の説明です。(教材名は省略してあります)
 
塾の授業では国語算数とも当該学年の内容を網羅した主教材を柱に副教材(国語進級式プリントや算数進級式プリント等)を適宜交えながら学習していきます。主教材は一斉授業が主です。主教材は単元によっては教科書と順序が異なる場合があります。副教材は各自の理解度に見合ったところから開始し、個別授業が主になりますが、中高一貫校の入試(適性検査)において思考力の養成の点で十分に役立つ内容になっています。
 
家庭での復習教材を用意し、家での同単元の繰り返しによる理解の強化を図ります。家庭学習の習慣づけを補強する意味もあります。内容が主教材で学習した問題パターンの反復ですからさほど負担になることはないはずです。授業で習った単元(通し番号が付いています)と同じところを家でも学習し、解答と解説を見て必ず答えあわせをし、まちがいを直しておくようにしてください。わからなかった場合に答えをそのまま写すことも大切です。また、塾に早めに来て質問するとよいでしょう。なお、復習教材は教材との同時の併用によって、後々まで理解定着させる効果が上がりますから、復習教材だけ先に進むことは避けてください。途中入会の場合は、まずはその時点での授業で勉強したところを復習してください。そうでないと理解定着がなされません。入会前の単元は、夏冬の休み中や余裕のあるときに解いてください。
 
確認テストは主教材と復習教材での学習の達成度を細かく検証していくものです。算数は履修単元の確認、国語は読解力と漢字の組み合わせのテストです。
 
月例テストは、履修単元についての総復習になっています。主教材の内容と順序に対応しています。
 
塾での授業と家での復習を2冊のテキストを通して統一させる形になっています。
ご家庭でのご理解とご協力をお願いいたします。

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その90
 天動説と地動説? 君の家族はどっち?
 
 小学生の国語のテキストに、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の一部が載っている。私が小中学生に薦(すす)めたい本の一冊である。主人公の少年コペル君に、彼のおじさんが社会の成り立ちについてわかりやすく説明していくのだが、コペル君、つまりコペルニクスにあやかってつけた名前である。コペルニクスは16世紀にそれまでのキリスト教会の、宇宙は地球を中心に動いているという「天動説」に異を唱え、宇宙は太陽を中心に動いているという「地動説」を唱(とな)えた人物である。当時は無視されたが、17世紀にガリレオ・ガリレイが登場し、望遠鏡の発明によって「地動説」の正しさが立証された。といっても、ガリレオ・ガリレイ自身も教会から迫害を受けたわけで、20世紀になってやっと認められたのである。今では、太陽系の話からもっと遠くの宇宙の果てまでの研究が進み、別の宇宙の存在が仮説として立てられているわけだが、しかし、原点はコペルニクスにある。
 ところで、宇宙の話はここまでで、先ほどの文章に次の一節がある。
 
 コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体のひとつとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりとすわりこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、じつは、天文学ばかりのことではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やはり、ついてまわることなのだ。
 子どものうちは、どんな人でも、地動説ではなく、天動説のような考え方をしている。子どもの知識を観察してみたまえ。みんな、自分を中心としてまとめあげられている。(中略) それがおとなになると、多かれ少なかれ、地動説のような考え方になってくる。広い世間というものを先にして、その上で、いろいろなものごとや、人を理解していくんだ。(中略) しかし、人間がとかく自分を中心として、ものごとを考えたり、判断するという性質は、おとなのあいだにもまだまだ根ぶかく残っている。いや、君がおとなになるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方をぬけきっているという人は、広い世の中にもじつにまれなのだ。(中略) たいがいの人が、手まえがってな考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分につごうのよいことだけを見ていこうとするものなんだ。
 
 そこで、塾生に尋ねてみた。
「君のうちではどう?」
「う〜ん。お父さんもお母さんも・・・天動説かな。」
・・・ごもっともです。私もそのひとりですから。

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その89
 30年ひと昔・・・ 誤解しないでください!
 
 中3の志望校判定の際に、各高校の難易度表を、塾生はもちろん、親御さんにもお見せしている。塾生に関係のある国公立・私立高校のすべてを出している。そのときにいつも思うのだが、現時点での高校ランキングで、塾生諸君が、例えば、親御さんたちの年代の学力を推し量っていないだろうかと気になる。
 ここ十数年、宮城県内だけで見ると経済不況や少子化が原因で、私立高校のランキングが低くなっている。高校によってばらつきはあるが、実質倍率が1.0に近いのである。
 塾を始めた頃の難易度と比較すると、私ですら驚くほどである。公立高校が上がり、私立高校が下がっている。上位の私立高校でも、中堅の公立高校と肩を並べるレベルになっている。
 私立高校出身の親御さんが今のランキングを見たら驚くはずだ。「昔はそんなに楽ではありませんでした。」とおっしゃるにちがいない。実際、15年前には、公立高校に行けるにもかかわらず、受験しないで私立高校に行った子どもたちがいたのだ。就職や面倒見のよさで優れていると判断してのことだ。
 それが次第に様変わりした。時代の流れというものだろう。
 塾生諸君。誤解しないで下さい。今の君らが見ている高校ランキング表は、昔とはかなりちがうのですよ。

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その88
 どうしていいかわからない? まずは簡単なものからかたづけること!
 
 勉強に限らないことであるが、日常生活や学校生活で、なんとなく楽しくうまくいっているときは、そのことに身を任せておけばいい。何でうまくいっているのだろう?などと考えないほうがいい。
 だが、うまくいっていないとき、人は知らず知らずのうちにそのことを気にしはじめるし、悩み始める。どうしたら、今の状況を打開できるだろうか?このままずっとこの状態が続いていくのだろうか?
 よく考えれば自明のことなのだが、よいことも悪いこともそんなに長く続くことはない。交互にやってくるといってもよい。
 よいことを長くするにはどうしたらいいのか?人の悪口を言わない、誠実に人の話に耳を傾ける、うそを言わない、そんなところだろうか。え?なんで他人が出てくるって?実は、うまくいかないときというのは、人との関係がうまくいってないときなのだ。例えば、テストの成績が悪かった。そのこと自体は結果にすぎない。その結果から、親や先生から怒られるとか、友達に軽く見られるとか、そういうことがつらいのである。だから、うまくいっているときに、他人を大事にしておくと、困ったときに励ましてもらうことができる。
 悪いことが続かないようにするにはどうしたらいいのか?あれもこれも、自分の周りで困ったことがたくさんある。例えば、勉強の成績が上がらないし、友人とはけんかしているし、小遣いは足りないし、親にはいつもしかられているし、先生には信用されていないし・・・。
 解決方法はひとつある。それは、困ったことを全部まとめて解決しようとせずに、まずそのうちの簡単なひとつをかたづけることから始めればいい。例えば、勉強のことで悩んでいるのであれば、明日予定の確認テストの点数を取るように家で準備することに集中することだ。一挙に全部の教科でアップなんてできないことぐらい、わかっているではないか。まず自分でやれそうな小さな積み重ねを一つ一つかたづけていくことが、たくさんの困ったことを解決する最も近道となるのだ。ひとつかたづけたら、次にかたづけることをすればいい。ひとつかたづけると、心にちょっとだけゆとりができ、そのことが、親と子・友人どうし・教師と生徒の人間関係でもよい結果を生むことにもなる。
 どれからかたづけるかは、各自が決めればいい。大事なことは、一度に全部解決しようと考えずに、自分にとってささいなことからとりかかるといい。大変なことを初めにやるとつらくて途中であきらめて、「どうせ、おれはなにをやってもだめだ」なんて言ってしまう。今の自分で十分にできることから手をつけたほうがいい。

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その87
 書かずにいられないようでは、わたしもまだまだ パート3 これでいいとは絶対思わない!
 
 塾の行き帰りはほとんどが徒歩なので、いくつかの他の塾の前を通ることになる。他の塾がどんな方針でどんなやり方で教えているかはインターネットなどを見ればわかるので、私の場合はそこの生徒の様子を見ることにしている。
 ある日、夜7時ごろに早めに家での仕事のために塾を出たのだが、(塾には塾長か塾長補佐が必ず授業終了までいる。)ある塾の入り口の所で、若い女の講師が生徒を出迎えていた。「こんばんは」にこにこしながら教室に入ってくる子どもたちにお辞儀をしている。まさにサービス業としての塾のあり方である。
「こんばんは。」
「・・・」
その掛け声に挨拶を返す子どもがほとんどいないのである。車から降りた3人の男子生徒は、バッグを肩にかけながら、女性講師の顔すら見ないで、無言のまま教室に入っていった。自分たちに挨拶している人なんかいないかのような態度である。開いた口がふさがらないとはこういうことだ。わが塾においてはとうてい考えられないことだ。
 私は他の塾のやり方や教育指導に口を挟む資格はない。それでいいならかまわないだろう。
 「おたくの塾の生徒さんはどうなの?挨拶をちゃんとできているのか?人の頭の上の蝿を追うひまがあったら、自分の頭の上の蝿を追えばいい。」きっとそんなふうに言われることだろう。
 だが、頭のよしあしは、常識的な振る舞いや態度によって評価されるのが社会のあり方だ。人としてのあるべき態度をとってこそ、信頼が生まれ、自分の能力に価値を認めてくれる人が増えるのだ。少なくとも、うちの塾生はそうであってほしい。
 塾生の見かねた振る舞いを見かけた場合、他の塾生諸君でも親御さんでも、何でも言っていただきたいと思っている。

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その86
 数の感覚?言葉の感覚? 感覚は重要である!
 
 国語の文章題は、なるべく質の高い文章を選んで塾生に与えている。テスト問題ならどれでもいいというわけではない。
 次の文章は、そのひとつである。(一部修正してあります。)
 
 携帯の計算機の性能が高くなるにつれて、各種の計算をそれに任せればいいという考えが多くなってきた。そのためか、学校の四則計算に時間をかける比重が小さくなる傾向がある。・・・四則計算練習の重要性を考えるとき、だれでも思い浮かべるのはつり銭勘定であろう。早くて正確であればいいわけだ。だが、それだけなら計算機でことたりる。四則計算の真の重要性は、この種の実際的効用にあるのではなく、『数感覚』をつちかうことにあるのではないだろうか。例えば、89円と94円の品物を買う場合にとっさに200円を出すことや、30はいろいろな数字で割り切れるが、31は割り切れないと瞬間的に感ずることが、計算練習でつちかわれた数感覚である。この感覚こそが重要なのではあるまいか。計算練習の主目的は数感覚の養成であり、計算の上達は副産物にすぎない。この感覚だけは決して計算機では代用されないのである。
 
 次の文章も、そのひとつである。(一部修正してあります。)
 
 音楽で絶対音感という言葉があるが、絶対音感が大切なら、『絶対語感』はそれ以上に重要なものである。絶対音感が幼いときの訓練で身につくのと同じように、絶対語感も生まれた直後から教育を始めないと手遅れになる。誰が教えるのか?言うまでもなく母親である。母親に方言があれば、教わる子どもの絶対語感はその方言に色づけられることになる。なまじ方言を嫌う母親があやふやな共通語を早口で話していると、基本が動揺して、いつまでも典型にならない。絶対語感がつきにくい。保育所でゼロ歳から預かっている子どものほうが1歳になってから入ってくる子どもよりも言葉ができる、といわれるのも、絶対語感に関係があるにちがいない。・・・理想的なのは、母親からの話しかけによって、言葉の感覚をしっかりつけることである。どういう言葉がどういう気持ちを持って使われるか。ただ言葉づかいだけでなく、心とともに言葉を教える。三つ子の魂は、絶対語感によってつくられる。三つ子の魂が百まで変わらないように、絶対語感も死ぬまでつづく。・・・

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その85
 わからないことは、チャンスである! 頭と心を鍛えるにはもってこいだ!
 
 人生で困ったときや苦境に立たされたとき、その事態をどのように受け止めるか?
 賢者や幸福者は、次のように考える。
 
「あるいやな出来事にぶつかった場合、これがいやだ、不幸だ、と思う者は不幸なのであり、これを自分の勇気や善意で幸福の因とする者が英知ある幸福者だという。できごとそのものはまだ不幸でも幸福でもないのである。それはその人の性質とおりになる。賢者には悲劇はない。」
 
 アランの『幸福論』の解説である。まさにその通りだと思う。勉強もそのなかのひとつだ。
◎この問題が解けない・・・英知ある者はこれを、自分をもっと賢くするチャンスだと考える。わかる問題だけ解いてたら向上なんかしないことは明らかだ。わからないことが悪いのではなく、わからないままにしておくことが悪いのだ。賢者はいつでも謙虚だ。
◎テスト結果が悪かった・・・英知ある者はこれを、次の飛躍のチャンスでもあると考える。決して結果だけにとらわれない。冷静に反省できる心のゆとりがある。失敗を次の成功へつなげる勇気がある。賢者はいつでも努力を怠らない。
 
 塾生諸君、賢者になれ!幸福者になれ!

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その84
 人も一生、われも一生! パート7 あなたにとって大切なものは?
 
 中3の作文練習で「あなたにとって大切なものを1つ挙げなさい」という題の時に、多くの塾生は家族、友人、部活の思い出、記念の品などを挙げていた。その中に、つぎのような内容の作文があった。
 
 先日父から勧められた本に、つぎのようなことが書かれていました。主人公の少年に少年の祖父が言います。
 「おまえがおまえでいられるのは、おまえの周りのもの全てがおまえを作り、支えているからだ。家族、友人。それから、町、家、空、星、風、草木、小鳥。それから、食べること、寝ること、勉強すること、遊ぶこと、笑うこと、泣くこと。それから、過去、未来。全てが現在のおまえにとって大切なのだ。大切なものに順位をつけてはいけない。たった一つのために、他のものをおろそかにしてはいけない。」
 この本を読んでからというもの、深く考えもせずに優先順位をつけていいものか考えるようになりました。だから今は1つだけ取り上げて書くことができません。(注:内容と表記に若干の変更を加えてあります。)
 
 入試の作文としては、条件に合っていないとして大きく減点されるかもしれない。この作文内容が、物事に価値の順位を見出せない悩みを表したものなのか、あるいは、価値を相対化する視点を見出したものなのかは、はっきりしない。私には後者のように思えたので今でも覚えている。ここには視野の広さがあると思ったのだ。
 わたしたちは一つのことに価値を見いだしたがる。一つのことに集中したり夢中になったりすることは必要なことだが、そのために他にも大切なものがあるのにそれに気づかずにいる場合がある。
 勉強でもふだんの生活でも、だれにでも思い当たることがあるはずである。

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その83
 反抗期アラカルト? パート3 友人間でお互いが重要であること
 
 学習していること自体に価値ややりがいを感じている子どもは、学力の面では上位にある場合が多いし、今はそうでなくても、将来学力向上が可能な立場にいることは確かだ。つまり、自分のしていることを認めてもらう立場に身を置いているわけである。親や教師、あるいは友人が、自分のことを認めていると自覚していることは、今を充実させるし、これからも充実できることを保証してくれる。
 この、勉強意欲を妨げるものには多くの要因があるが、ここでは友人関係について述べたい。長年にわたって言っていることだが、子どもの学習意欲や実行力に最も影響するのは、同世代のこどもたち、とりわけ友人である。子どもの素質とか教師の技量とか家庭環境とか、重要な要素はいくつかあるが、私の経験上では友人とのつながりが大きい。学習に対して前向きな友人がいれば、自分も前向きになる。自分が前向きになれば、友人も一段と前向きになる。こうやって好循環が彼らを向上させていく。その底流には、自分を認めてくれる友人がいる。
 ところで、勉強意欲がわかないで低迷している子どもにも友人はいる。是非とも現状を打破して学力向上をめざしてほしいところだが、うまくいかない場合が多い。なぜか?
 彼らが友人になった時点で、彼らのお互いを認める理由の1つに「勉強は嫌いな者どうしだが、ほかのことでいっしょにいて楽しい。」という共通の価値観である場合、「前向きに勉強する」という要素が入ってくると、お互いの共通の価値観が崩れ、関係は消滅してしまう。一つの出来上がった関係を新たな関係にすること、例えば、お互いに勉強して入りたい高校に進むといった新しい価値観を集団に取り入れることは、恐くてできないのだ。友人もそう思ってくれるという保証がないからだ。高校受験よりも、お互いの存在が重要であると感じることのほうが今の自分にとっては最優先なのである。新聞等で青少年の集団での犯罪報道がひっきりなしになされているが、彼らに道徳心が全くないわけではない。集団での優先順位がちがうのである。心理的背景はまったく同じである。
 自分を認めてもらえないことへの不安、自分を認めてもらうことへの渇望、自分を認めてくれる集団への帰属と服従、これが現代では最も重要なことなのである。携帯を肌身離さず持ち歩く子どもや若者も、自分が重要な存在であることをお互いに認めあいたくて、たえずメールでその確認をしている。同じことをして、同じもの(服装・所持品・しぐさ・顔つき)だと安心できるのだ。
 どんな友人を持つかは、誰にもわからない。つらいことがあったときに話を聞いてくれたり、慰めてくれたりする友はお互いに必要だ。自分を認めてくれる友はありがたいものだ。自分を高める過程をお互いに認め合う友なら、なおさらありがたい。
 昔から、友人を見れば、本人についてもわかると言われてはいるのだが・・・

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その82
 テストの採点って? 学力を測るためのものであるはずなのに・・・
 
 子どもにとってテストはいやなものであるが、テストによって日々の努力の成果が数字で表され、それを基にして今後の対策を考えるわけであるから必ず必要なものである。
 当塾においても、毎月の月例テストと単元ごとの確認テストを行っており、塾生の学力を把握し今後の対策に役立てている。
 これは、前々から問題になっていたことだが、学校の定期考査等のテストにおいて、その採点で首をかしげることがしばしばある。
 私の知っている例をいくつか挙げると、
 解答用紙に名前を書かなかったせいで0点になった子どもがいた。よく、受験で名前や受験番号を書き忘れると0点になるといわれたことがあったが、そんなことはすでに過去のものだし、いや、過去においてもそんなことはなかったはずだ。試験官や採点者が前後の答案から、誰のものか調べてくれたはずである。どうしてこんなことが今の学校で起こるのか疑問である。
 よく答えが複数ある場合に、あいうえお順に答えを書けと書かれていることがある。例えば、「イオキコサ」で○である。「コオサイキ」としたら×である。この例は、単に採点のときに楽だということ意外考えにくい。漢数字で書けというのもある。算用数字だと×である。ひらがなで書けというのもある。カタカナだと×である。あいうえお順に書かなかった生徒や算用数字やカタカナで書いた生徒が、まったくちがった答えを書いた生徒と同等に×になるのはどうかと思うが、テスト問題の条件を理解することも学力のひとつであると言われれば引き下がるしかない。さほど重要な条件には私には思えないのだが・・・そのうちのいくつかは減点という対処ができるのではないか?
 長方形の面積を求める式は「たて×よこ」「よこ×たて」と教科書には書かれている。授業で「たて×よこ」と教えた先生のテストで、たて5センチ、よこ6センチの長方形の面積はいくらか?式で、6×5=30としたら×である。5×6=30が○である、と言われた子供がいる。これを一概に不合理といってしまうことはできない。なぜなら、教える際に、先生の教えた通りにすること、次にほかの考え方や解き方もあることと、優先する順番を追って子どもに理解させることが大切な場合もあるからだ。ただし、その単元の習い始めはそれでいいと思うが、いつまでもそのままではどうかと思う。
 漢字の採点も非常にあいまいなものになっている。文部科学省によると、受験では楷書であること以外は採点者次第らしい。漢字によっては楷書でも幾通りかの書き方がある。
 テストの点数が、子どものその時点での学力を的確に示すものであるよう心がけたいものだ。

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その81
 中高一貫校の登場! 適性検査って?
 
 仙台市内でも、来年度から仙台青陵、再来年度には仙台二華の中高一貫校がスタートする。特に小学生のお親御さんの間ではかなりの関心を集めている模様で、すでに始まっている古川の黎明中学部の生徒の学力が高いという話も加わり、中高の6年間でじっくり受験のための勉強をすれば、有名大学への合格がより可能になるということらしい。その意気込みは、父母だけでなく学校当事者も並々ならぬものがある。学校説明会の通知の文面にも如実に表れている。すでに実施されている他県の中高一貫校と同じように、大学受験に強い学校と位置づけされることになるだろう。
 そもそも、中高一貫校の設立の目的は、大学受験にとって有利な生徒を作ることにあったわけではない。「ゆとり教育」の目玉として、まさにゆとりを持って人格教育をする場として考えられたのである。しかし、世間はそうは考えておらず、あくまでもわが子の大学受験とその後の将来に有利になるような学校として認知している。また、当の学校当事者も同じように考えている節がある。
 塾としては、当然その対策を講じることになる。一貫校の入試は通常の学力試験ではなく、「適性検査」になるのだが、適正検査というのは、企業の場合は能力と性格に見合った部署への配置が目的で行われるわけだが、学校の入学選抜での適正検査というと、なるべくIQの高い子どもを取りたいということか?社会や科学の事象に対して関心と理解があり、身の回りのことについて対応できる能力のある子供を取りたいということか?と思う。そのために、国語・算数といった教科ごとのテストではなく、総合的な思考力や応用力やひらめきをみるテストになる。たとえば、算数でパズルのような問題が出されるのは、IQの高い人が得意にする傾向があるからだし、理科や社会のグラフ等を題材にして説明させる問題が多いのは、洞察力や説明能力を見たいからだ。私が東京で中学受験を扱っていた終わり頃に、その手の問題が私立中学の受験問題として出されるようになった。よく、東京などの私立中学入試は、覚えこみが中心だとおもわれがちだが、上位の私立中高一貫校は大学受験を視野に入れた選抜をするから、思考力のあるなしを問う問題をかなり練り上げて作っている。暗記に強いだけでは通用しないのである。だが、だからといって教科を無視した学習かというと、そうではない。そういう受験で求められる能力は、国語と算数で培われた柔軟な思考力なのである。
 小学部では、国語はすでに無学年制のものを副教材として2003年度から使い始めているが、算数も今年度夏から始めることにした。国語で言語能力=思考力をしっかりさせれば作文の表現力も付いてくるし、社会や科学の事象への理解も早い。算数で数や図形の感覚を磨けば、論理的な思考や論理に立脚した自由な発想も生まれ、また逆にひらめいたことを論理的に説明できるようになる。学年にとらわれずに、思考力を養っていくことが大切だ。ただし、従来の私立中学受験のように、短期間で仕上げてなんとかなるということはないだろう。

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その80
 「あれかこれか」と「あれもこれも」 学習にやりがいを感じること
 
 塾は学力の向上をめざす場であるから、当然学力を上げるための環境づくりを中心に考える。勉強にとってプラスの面を強調し、マイナスの面は取り除く、あるいは軽減するように求める。つまり、「あれかこれか」の選択を強いる傾向がある。何を優先するかの選択を強いる場にならざるをえない。というのは、塾に来ている以上は学力向上をめざしている子どもであると、前提として考えるからである。実際、万能な子どもは少なく、中途半端な虻蜂取らずになってしまうことがある。一方、その最優先したものが結果として不本意な場合には自分のやっていることに自信が持てなくなり、自分を否定的に見てしまうこともある。
 ところで、ここ10年、子どもの生活の現状は、興味や関心が多方面に向かい、高校受験を考える時期になっても「あれもこれも」である。以前のように、勉強中心に考えることがなくなった時代である。まだ自己を確立する初期の段階にあるのだから当たり前ともいえる。親御さんの立場からしてもそうだ。わが子にいろいろなことをさせてあげたい、そこから自分にあったものを見つけてもらいたいと思う。実際、「あれもこれも」は、そのうちの1つに意義を感じられれば、他で仮に不本意でも自分を肯定することができる。
 小学生や中学生は、「あれもこれも」の過程の中から「あれかこれか」を選択する途上にある。今の小学生や中学生の学力向上の難しさは、まさにこの途上にあってどっちつかずのところにいることにある。以前のように一般的な優先順位がないのである。実際は、有限な時間と体力とエネルギーを配分させることになるわけだから、学力向上のためには他の事柄を制限した方がいい子供もいれば、さほどの制限を加えなくてもいい場合もある。いずれにしても、ただ「勉強しろ」ではほとんど効果はない。人間は感情に大きく左右され、自分のやっていることにやりがいを見出さないと向上しないものだ。本人がそのことに何らかの価値を見出さないかぎり効果はない。
 人それぞれ、その選択はちがってくる。「あれかこれか」にせよ、「あれもこれも」にせよ、学習することにやりがいを見出してもらいたいと願うし、見出せるように導きたい。
 3年後の学習指導要領では、「ゆとり教育」からの転換が言われている。教科によってはすぐにでも前倒しで実施することになった。「あれかこれか」の復活ともいえる。今の「あれもこれも」の子どもの生活風潮を簡単に変えられるかどうかは疑問であるが、それよりも、ここ10年間の、以前と以後の子供に比べての知識の空白を、彼らが成人してどう埋めていくのかが気がかりである。そこにこそ「生きる力」が試されることになるのだろうか。

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その79
 塾のあと パート1 大学進学のこと
 
 当学舎は小4から中3までの子どもを対象にしている塾であるが、高校後に大学に進む生徒はかなりいる。彼らの進路先を全部把握できればとは思うが、大学進学の報告をしに来てくれるとは限らないので、残念ながらほとんどはわからない。ただし、数字の上でほぼ確実に掌握できているのが一高である。本人、あるいはその同級生が立ち寄ったときに教えてくれる。
 2008年4月時点では、一高OBのうち、3人に1人は国公立大に進んでいる。国公立大では、東北大、京都大、北海道大、福島医大、山形大等に進んでいる。私立大では、早稲田、慶応、理科大等である。地元の東北大に限っていえば、OB全体のうち5人に1人が進んでいる。
 彼らが中学時代にどの程度の学力を持っていたか?それを最も端的に示しているのが、塾で行っている一高志願者の11月・12月・1月の3ヶ月平均からみた最終合否判定である。
 難易度の高い国立大には、現役合格を目指す場合は中学時の判定でAAやAをとっている塾生がかなり高い確率で合格している。B判定の塾生でも一浪すればかなり合格している。中堅の国立大であれば、B判定でも現役合格可能である。C判定の塾生で有名国立大に進学したのは今のところ1名である。つまり、大学受験の土台は中学までにほぼ作られるということである。
 これは不思議と思われるかもしれないが、現役合格した彼らに、高校での大学受験のための勉強について聞いてみると、意外と予備校通いが少ない。私自身は納得のいくことで、高校での勉強は小学校・中学校とはちがった勉強になるべきで、その第一は、人に頼らないことにつきる。自分の頭で計画し、自分の意志で決定、自ら実行していくものでなくてはいけない。めだかの学校のめだかのように、みんなで同じように泳いでいるだけではだめなのだ。自分の個性を次第に開花させる時期であるから、試行錯誤しながらでも自分のやり方を確立していくことが重要である。それに、学校と予備校での授業に進度や内容の差があることが多く、そういう時はきまって予備校中心に大学受験を考えるから、多くの時間を過ごしているにもかかわらず学校の授業を軽視する傾向になり、多くの時間を無意味と感じて過ごしてしまう。学習は学んでいることが自分にとって有意義だと感じないと、自分のものにはならないものだ。
 学力の土台、考え方の土台、取り組みの土台、それらの土台作りは小学校・中学校で作られていく。その土台を足がかりに、どう自分を高めていくかは本人次第である。
 余談であるが、東大に入れそうなOBは過去に3名いたが、彼らに言わせると、自分の人生設計で、東大は必ずしも必要ではなかったそうだ。

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その78
 名医とは? 古代中国の教え・・・
 
 扁鵲(へんじゃく)が死の危険の迫った重病人を見事に治療したとき、ある王様から、「おまえは天下一の医者だな」とお褒めの言葉をもらったが、彼は次のように答えた。
「とんでもございません、私の兄はもっとすぐれています。病気がひどくなる前にみな直してしまうので、医者としての名前は、近隣の村々から外には知られていないほどです」
王がなお、「では、その次におまえだろう」というと、
「いえいえ、さらにその上の兄はさらにすぐれています。病気になる前にその原因を取り除いてしまうので、兄の住んでいる村では病人が一人も出ず、兄が医者であることに誰も気づかないほどです。私などは重病になってしまった後で切った貼ったの目立った治療をするから国中に名前が知れ渡っているだけのことで、とてもよい医者とは申せません」
 
 司馬遷(しばせん)の史記・扁鵲伝に中国の伝説の名医扁鵲の逸話がある。この話を現代にどう活かすかは人さまざまであろうが、結果論や楽観論が大手を振るう時代で、前もって用心してことに当たる大切さを教えてくれているのはないだろうか。
 私はというと、教育と医学は異質のものであると承知の上で、どうしても教師としての務めを考えてしまう。
  勉強が不振な子どもを元通りにする教師
  勉強が不振になる恐れありと察して対処する教師
  勉強が不振になる前にその原因を取り除く教師
 どれもよい教師であるにちがいない。3番目が最もすばらしい教師というなら、名教師は教師として知られていない存在、つまりそれは親、特に母親だともいえるかもしれない。まさに、無名の教師である。
 はたして、塾教師の私はどうだろうかと自問する。名物教師ではなく、無名の教師でありつづけ、子どもによって3通りの教師を務めることができるだろうか?
 え?まだまだだって?十分にわかっております・・・

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その77
 勉強と部活等との両立 パート3 受験でものいうもの?
 
 もうじき中総体が始まる。各中学校でも強化週間に入り、練習時間が延長され、帰宅時間も遅くなる。その分、塾へ来る時間も遅れてくることになり、毎年のことながら、対応に苦慮することになる。最近では、強化週間以前から遅くまで練習する部もあるから、塾生にとっては大変である。
 だが、そんな状況におかれながらも、遅刻してでも塾に学びに来る子どもたちを見ていると、何とかしてやらなくてはと思う。時間割を変更して、数学や英語の時間を確保させたり、早く来られる曜日に補習をしたりして対応している。
 勉強と部活の両立については以前にも述べたことだが、中総体等の大会が迫ってくると、子どもたちは勉強か部活かの二者択一に迫られることになる。当然、部活を選ぶ。だが、そのときに、部活だけにするか、勉強を捨てないでいくらかでも続けるかによって、受験での成否はちがってくる。そして、勉強を続けるにしても、少ない時間内でどれだけ集中して取り組んでいるかによってちがってくる。
 受験でのプレッシャーは、経験した者ならだれでもが言うことであるが、相当なものである。好きで続けた部活での、大会での試合のプレッシャーとは根本的にちがうのだ。受験は、いやでも戦わなくてはいけないものなのだ。他の受験者との戦い、そして自分との戦いである。
 そのときにものをいうのが心の強さである。その心の強さは、部活を一生懸命した子どもが持っているものではなく、部活と勉強の両立に一生懸命努力した子どもが持っているものなのだ。好きなものだけをするのではなく、好きでなくても辛抱して続ける精神力が後々ものをいうのである。
 受験当日、「あの時がんばったから、今負けるはずがない。」
 この、『あの時』は、大会当日の試合のことではない。練習の日々と勉強し続けていた日々のことであるべきだし、経験上、そういう子どもが受験では強い。
 運動部の塾生諸君、特に中3諸君、大会での健闘を祈る!

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その76
 学力を測るものさしは? 自己修正力の有無
 
 長年にわたり、教育、特に学力向上を目的にした仕事に携わっていると、いったい子どもの知的な能力の有無の程度と向上をどういうもので見たらいいのか考えさせられる。
 学校での成績や入試での成績を考慮しなくてはならない仕事だから、当然各教科の得点はどれくらいで、総合的にはどうかといった評価や志望校判定をする。その点では、得点の高い子どもが、学力の高い子どもであるわけだ。
 しかし、長年子どもをじかに教えていると、その子どもの学力を得点のあるなしだけで判断しなくなっている。といって、例えば、意欲的だとか、関心があるとか、努力しているとか、そういった尺度でも評価すべきだといっているのではない。それは、今学校で行われている「絶対評価」に任せたい。私の見方はあくまでも学力においてのことである。
 私は、国語の教科で一人ひとりを個別で見る教え方だからいえることなのだが、間違いを修正できるかどうかが、非常に大切な力だと思っている。誰でも間違いをする。その間違いを自分だけで直す力、次にヒントを与えられて直す力、この二段階の自己修正力が重要だ。冷静な判断力と忍耐力も必要になってくる。塾生ですぐにあきらめて答えを聞きたがる子どもが少ないのもそのせいだ。だから、うちの塾生は受験には強いと自負している。
 たとえテストで得点が取れていなくても、修正力のある子どもはそのうち得点が取れるようになる。間違いであると自分で気づき、テスト中に修正できるようになる。また、初めから正解を出せる確率が高くなる。さらに、問題の答えの修正に限らず、受験勉強や生活全般で悩んでいるとき、自己修正力のある子どもは軌道修正ができやすい。
 大人になっても役立つはずであると思う。はじめから自分の考えが受け入れられることは少ない。修正する必要が出てくる。そのためには今までの自分の考え方を変えてみることが必要であり、そのためには思考の視野を広めていくことが求められる。大げさに言えば、自分を徐々に変えない限り、新しくて正しい地平は見えてこないのである。
 得点によって評価・判定する仕事ではあるが、点数には表れない自己修正力を鍛えることが、結果としてその子どもの得点を伸ばし、しかも知的な能力を伸ばす最良の方法だと思っている。修正できる力を養うことにより、思考の柔軟性と一貫性がもたらされる。柔らかくて頑丈な思考だ。

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その75
 意図的教育と無意図的教育? 計画性だけが有効ではない?
 
 学校はもちろん、塾においても年間の予定を立て、教材を用意し、どのように授業を進めていくか前もって計画する。保護者からの委託や子どもへの責任を考えれば当たり前のことで、その場限りのいいかげんな教育はできない。そこが家庭教育や社会教育とは違った厳格さを求められるところだ。
 そして、その結果に対して責任を持ち、改善すべき点は修正していく。それらの過程は全て考えてのことである。
 授業においても、同様に計画的に進めていく。だが、年間のスケジュール等とちがって、授業での効果は計画性のあるなしや有効性や正当性とは違った要素がある。人と人のかかわりの中で授業がなされるわけだから、教師の思わずもらした一言が、授業の質を一変することがある。また、子どもの今後を決定さえすることがある。
 だれでも学校時代を振り返ったとき、授業そのものよりも授業とは直接関係のない教師の一言を印象深く覚えている、また、その一言がその後の人生の指針になっている、という人は多いのではないだろうか?教育とは、意図的なものよりも無意図的なものの方が有効に働くことが多いのだ。
 意図的なものは多少の知識さえあれば誰にでもできる。マニュアルをまねすればいいわけだ。だが、無意図的なものは、まえもって意図していないものだから、その場の雰囲気や気分によって、教師の資質だけでなく、その人間性もにじみ出ることになる。思わず出てしまうのである。
 え?塾長はどうなのって?私の無意図的教育がどれほどのものか?・・・それは、あなたが判断することです。

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その74
 人も一生、われも一生! パート6 自分にあった生き方?
 
 今回は中3生の作文ではない。実録版である。
 
 12月の中ごろのことであった。
「塾長、これ持って来ました。」と言って、当学舎のOBである彼が私の目の前に差し出したのは、丸々と肥えた2本の大根である。
「これ、僕が作ったんです。種を植えて育てたんです。」
「へー。自分で作ったのか?おお、おいしそうだな。どうだ?学校は楽しいか?」
「はい。」
 それだけで十分である。在塾時、私から勉強について徹底的に説教されて困った顔をしていたが、今では充実した顔をして私の前に立っている。彼は農業高校の生徒なのである。塾に来ている子供はほとんどが普通科の高校をめざす。少数ではあるが実業高校でも、機械科や電気科などの方面が多い。農業関係は初めてである。
 
 勉強は効果が上がらなければ意味がないかもしれない。特に塾ではそうだ。だが、効果ははっきり目に見えるものとそうでないものがあって、また、すぐに現れるものとそうでないものがある。少なくとも、大根を持参してくれた彼にとって、私たちは決して無駄な存在ではなかったのだと思う。
 ところで、その大根を上手に料理しておいしくいただく責任が私に課せられたわけだが・・・

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その73
 「わかった!」から「わかっている」へ! 一時完了から長期継続へ!
 
 教えていて何よりもよかったと思うことはいくつかある。例えば、合格の連絡をもらったときがそうだし、OBになってから訪ねて来て懐かしんでくれるときもそうだ。
 だが、本当によかったと思うのは、子どもが「わかった」と言ってくれることだろう。自分にとっては難しい問題を、なんとか正解を出そうとひたむきに考える姿はいいものだ。私自身は、その姿こそ最高のものだと思っているが、子ども自身はやはり正解を出したいわけで、その苦労が報われて正解への道筋をみつけたとき、「わかった!」と思わず声を発する。まさに充実感と達成感を同時に味わう。
 だが、本当に本当によかった思うのは、先ほどとは場面は違うが、子どもが「わかっている」と言ってくれることだ。わかっているということは、すでに習ったものを自分のものとして消化吸収し、定着させていることである。「わかった」の一時的な興奮や自己満足を乗り越えた、時間を経た重みのある理解である。
 『わかった』が完了の言葉なら、『わかっている』は継続の言葉である。だから、「わかった」を復習の繰り返しによって、「わかっている」にしてもらいたいと願っている。それこそ、たくわえなのである。実力なのである。授業は、子どもにとって単なる通過儀礼にならずに、その時点時点で何がしかの残るものを子どもに与えなくてはならない。毎回そうできるわけではないし、その必要もないが、その流れの中で、理解が一時的なものから長期に及ぶものになってほしいと思う。
 「わからない」→「わかった」→「わかっている」の道のりを歩ませたい。
 え?「わかっていたのに」だって?それでは過去ではないか!

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その72
 勉学に王道なし! 質は量で決まる!
 
 塾生に対して、「能率的」とか「手っ取り早く」とか、そういう言葉を使わないようにしている。そういう言葉は大人が経験を通して身につけてきたものであって、子どものときからそういう価値観ややり方を、少なくとも勉学については身につけてほしくないと思っている。
 例えば、学校の試験対策で1週間ぐらい前から誰でも試験範囲の復習をするだろうが、ふだんの学習をおろそかにして試験前だけがんばって得点をとっても、一時的な成功にすぎない場合が多い。そういう点の取り方は暗記に頼る場合が多く、理解の度合いが浅く、結局忘れてしまうことが多い。実力を身につけようと本気で考えているのなら、そんなごまかしはしないでほしいものだ。高校受験を見ていても、目先の損得に追われた勉強をしている子どもは、しない子どもよりはずっとましだが、実力の点では、こつこつ継続的に取り組んできた子どもに比べてかなり見劣りする。
 実りのあるたくわえをするには、時間がかかるのである。時間をかけるから熟成するのだ。時間をかけるということは、問題量をこなしているということでもある。問題量をこなすエネルギーがあり、それが更なるエネルギーを作っていく。量をこなすことによって、さまざまな角度から作られた問題に出会える。そのつどそれらを克服していくことになる。だから「能率的」とか「手っ取り早く」は、子どもの場合は少ない量で得をしようとする考え方に結びつくから危険なのだ。勉学の道に、王様だけが通るような特別な道はないのである。
 といって、量さえ多ければなんでもいいというわけではない。管理された量が大事なのである。一貫性のある先を見越した量である。そこで塾の真価が問われることになる。
 インスタント料理で空腹を満たすか?時間をかけた料理ができるまで待って食べるか?どちらを選ぶかで将来の健康状態がわかるように、勉強も同じことがいえる。インスタント料理を3日も食べたら普通は飽きるはずなのだが・・・
 そういや、頭も身体の一部だったよな。

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その71
 15年ひと昔・・・ 時の変化に流されずに、柔軟に対応する塾であり続けること!
 
 中3の志望校判定を長年やっているが、開校当初は全県の中学校で民間業者の模擬テストを受けていたので、そのテストを資料にして分析していた。2つのテスト業者があって、中学3年生は月ごとに交互に受けていた。それが、埼玉県の中学教師の新聞への投稿で、業者テストの偏差値によって私立高校推薦が事前に決められてしまう不合理さが問題になり、あれよあれよいうまに、全国で模擬テストの全廃へと進んでしまった。都市圏の私立高校では、生徒数の確保、優秀な生徒の獲得に躍起になっているから、共通の模擬テストで高い偏差値を取っている生徒を早く取り込みたいし、そのために推薦を活用することは納得するところだ。それが、受験戦争をあおる結果になり、教育の本来の形をゆがめているということで、まずはその数値を出すテストを取りやめることになったわけである。
 その頃の宮城県のテストでは偏差値表示はなく、中3の受験者の得点と全体順位と各高校における志望者だけでの順位が出ていただけである。だから、志望校判定はその学校の定員内の順位であれば、合格の可能性が高いことがすぐにわかったのである。また、各中学校の平均点もわかったから、各教科の担当の教師にとっても刺激になっていたはずである。それがあっという間になくなったのだから、学校における受験指導が大変であったことは想像できる。中3の模擬テストに代わる問題を作ることから始めたわけだから、定期考査の問題を作るだけでも大変なのに総合実力テストで数回にわたって全範囲を考慮しながら作成する苦労は並大抵ではない。ましてやその学校だけで判定を出せるわけもない。
 塾においても独自の模擬テストを作る必要があった。そこで、市内北学区の以前から付き合いのあるいくつかの塾と合同で問題を作成し、志望校判定をできるようにした。判定分析のノウハウはすでに持っていたから、1年目からかなりの確率で当たった。1994年度入試からである。
 あれから15年ほど経過した。絶対評価が導入され、公立高校の推薦入試も始まった。偏差値の代わりに内申で推薦合格を決める私立高校も数多く出てきた。業者作成の実力テストを使いデータをもらう中学校もある。宮城県では男女共学化も徐々に実施されている。学区廃止ももうじきだ。公立の中高一貫校もできる。少子化の流れの中で、受験をめぐる適正な競争になるのか、あるいは騒動になるのか?
 なんにせよ、時の変化に流されずに、しかも柔軟に対応できる塾にしていかなくてはならない。

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その70
 理科社会は早めの方が・・・ 理科社会を制する者は高校受験を制する?
 
 1990年に開校して中学部は原則として全員週3日5教科受講にした。私が東京で学生の頃に塾講師のバイトをしていた時期に、都の入試が3教科から5教科に変わった。理由は、有名大学の進学における私立高校の優位への対策として、5教科をまんべんなく受験教科としてやっておいたほうがよいという結論であった。それで、仙台で塾を開く際に、中1からの理科社会の導入をはじめから考えたわけであるが、結果は当然よいものであった。塾生には、「理科社会を制する者は高校受験を制する。」とさえ豪語していた。
 しかし、2002年、2つのコースにした。私自身は正直不本意であったが、要望があったということである。ゆとり教育が次第に浸透し、教育価値の多様化の流れに沿って、週3日はきついし、理科社会は中3後半からでも間に合うという考えが以前にもまして強くなり、部活やその他に力を入れたいという考えも広まった。それまでの多くの塾がやってきた、数学英語中心で国語理科社会は二の次というやり方を、時代の流れが後押しする結果になったのである。結果は塾内の統計でははっきりしている。
 人数比の上で比較可能だった年度の、中2までのコース別の中3模擬テストの平均得点
 
コース 理科 社会 コース 理科 社会
8月 5科 68.4 62.1 11月 5科 60.3 61.0
   3科 63.0 55.4 3科 55.4 56.2
9月 5科 64.7 58.5 12月 5科 61.1 60.8
3科 63.0 55.4 3科 56.6 54.6
10月 5科 64.4 61.5 1月 5科 67.9