オリンピックの北京報告C



 北京に着いた次の日、798芸術区という北京の芸術村に行きました。地下鉄東直門駅のバスターミナルから401のバスに乗り、大山子路口南というバス亭で降りればすぐそこにあります。バスの料金は1元。東直門駅はつい最近、北京首都空港まで快速地下鉄が出来た。快速地下鉄を上がってすぐにバスターミナルはある。

 この798芸術区は国営の廃工場をそのまま利用して、ギャラリーにしている。ギャラリーはほとんど無料。壁には文革時代のスローガンがそのまま書かれている。ここでも過去のものを壊して新しいものに作り替えるのではなく、古いものを新しい芸術に変えていく最近の北京のセンスが生きている。

798芸術区の入口。
壁に文革時代のスローガンが残っている。建物の中はギャラリー。
工場時代のクレーンも残っている。
毛沢東の落書き。
工場時代の煙突。
芸術区内にある店。
ギャラリーの中も文革時代のスローガンが残されている。


 そんな中にチベットのギャラリーもあった。ここは叶星生という人物が収蔵するチベット文化遺産を展示するギャラリーのようだ。最近は漢人のチベット僧も年々増えてきている。チベット文化の保全への意識も高まっている。
[左上]チベットの文化遺産のギャラリーの前にある紹介の看板。
[上]2003年10月に叶星生が収蔵していた馬頭明王堆綉珍珠タンカ(タンカとはチベットの刺繍絵画)を無償でセルハ寺に返した様子。
[左]観客メッセージにはラサ族のメッセージもある。


 『中国はいかにチベットを侵略をしたか』(マイケル・ダナム 講談社インターナショナル)がダライ・ラマの署名入りで出版されて読んだ。原題は「ブッダの戦士達ーCIAがバックアップしたチベットの自由の戦士達の物語、中国の侵入とチベットの地獄絵」"Buddha's Warriors - The story of CIA-Backed Tibetam Freedom Fighter, the Chinese Invasion, and the Ultimate Fall of Tibet"。つまり、この著作はチベットへのCIAの介入を正当化するために書かれたものだ。その本を『中国はいかにチベットを侵略をしたか』というタイトルで、しかも、「これが彼らの常套手段だ!「初めは友好的に振る舞い、そのうち暴力的になる」」という帯までつけて売り出されることに気味の悪さを感じたものだ。広告には『中国は日本を併呑する』が載せられ、まあ、最近はやりの嫌中本の一貫として出版されている。本書には中国側が行ったとされる残虐行為が多数描かれるが、それに至る過程も描かれる。最初は四川省の方の文化衝突と報復の連鎖から始まり、衝突の火がラサまで及ぶ過程が描かれる。当初の中国のチベット侵攻はさほど衝突も無く行われたことも描かれる。1956年から1959年のダライ・ラマ脱出までの中国とチベットの衝突はやはり最初から意図されていたものというよりも文化衝突が原因となっている。それにより多数の残虐な弾圧も行われたことは事実だろうが、今のダライ・ラマも語っているようにチベットは今の香港のように1国2制度だった。本書でも毛沢東自身は、「男と女を無理にくくりつけたからといって夫婦になるとは限らない。どちらか一方がどうしても厭だというなら放してやるしかないだろう」と言ったことが書かれ、それほどチベット併合に執着していた訳では無かった。また、1959年のダライ・ラマのチベット脱出では、航空機から一行を発見したにも関わらず、毛沢東の一言で追撃は行われず、無事にダライ・ラマはインドに脱出した。ともあれ、ダライ・ラマの署名入りにしろ、この本の邦題の付け方はおかしいと思う。

 今年のチベット暴動以降、ダライ・ラマ側と中国側の接触は行われてきた。ダライ・ラマ側は独立は要求しない代わりに、香港のような1国2制度のような自治圏として現在のチベット自治区、青海省だけでなく、四川省、雲南省のチベット人地域も要求したという。たしかに、1956年から1959年の中国チベット衝突の発端となったのは漢人地域と接するこの地域だった。しかし、中国側のオリンピックの前に解決したいという弱みを利用したしたたかな要求でもあった。今後、どう決着していくかは見守るしか無いが、ダライ・ラマの存命中にダライ・ラマをチベットに帰すことは中国側の義務であろう。

 そういえば、92年に雲南省麗江に行った際、チベット寺院に行ったことを思い出した。麗江から玉龍雪山に行く途中にチベット族が住む村がある。写真を探したが1枚も撮っていなかった。文化のルーツについて一緒に行った相棒が随分熱くなっていたので私の方は冷めてしまっていたのだ。私は文化のルーツとかよりも、生きている文化との関係の方に興味があったのだ。思い出すのは壁に書かれた仏の絵は全部目がつぶされていたこと。衝突の時期だったのか、文化大革命の時期なのかわからないが、当時はその傷跡が残っていた。当時89年のチベット暴動のため、チベットには自由に入れず、成都からの12万円のツアーで入らなければならなかった。また、当時の中国は未解放区が各所にあり、そこは外国人が入ってはいけないことになっていた。とはいえそれほど厳重に警備がされていたわけでもないので行こうと思えば行けないことは無かったが。そこには外国人に見せたくない中国があったのだろう。雲南省大理ではしょっちゅう蒼山の方から轟音が聞こえた。私は当時それを雷かと思っていたが、軍の演習だったのかもしれない。

 鼓楼の南東にある南鑼鼓巷。ここは欧米人が多く、中国人にとってもおしゃれスポットになっている通りだ。胡同をそのままにしてカフェが建ち並ぶ。ここにチベットカフェがある。メニューはチベット語、中国語、英語で書かれている。ここでは虫草というチベットのジュースを飲んだ。店主自らチベットにはよく行くらしく、写真がいっぱい張ってある。このような若者達がいつか過去の悲劇を乗り越えて民族の矛盾を解決していくことが唯一の希望だ。
南鑼鼓巷の入口。
南鑼鼓巷にある服屋。
昼間の南鑼鼓巷。
この店は10秒間キスをすると牛タンがただになるらしい。
チベットカフェの店主がとったチベットの写真。
チベットカフェの店内の様子。



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