オリンピックの北京報告E



 北京に着いて4日目に西単にある北京図書大厦に行ってきた。昔は中国には紀伊国屋のような大きい本屋は無かった。今はそれよりも大きい本屋がある。中は立ち読みというか座り読みもし放題。なので本も汚れている。本屋といよりも図書館兼本屋といった感じだ。

 北京図書大厦の外観。
 立ち読みならぬ座り読みをする人々。


 今回買った本は2冊。1冊目は『論日本ー全景展示二千年中日怨念史』。日本の小林よしのりの『台湾論』に対する反論として、中国の小林よしのり、于信強が書いた一方的な反日漫画。近代日本を中心に、古代日本から現代の日本人の習性まで批判的に描いている。漫画というよりも1ページ毎の1コマ漫画という感じだ。古代や中世の日本人の服装は時代が少しおかしかったり、誤解した服装も描かれている。他人の芝生は青いというか、日本では中国を巨大な敵として描くが、中国では日本を尖閣諸島を狙う巨大な敵として描いている。また、日本の90年代からの不況をユダヤ人の仕業とし、その証拠として日本赤軍のリッダ空港事件を上げているところが印象的だった。それで中国人もユダヤ人に学べと。。。。

 この本は2005年出版。しかし、最近の日本論の書籍には『論日本』にような一方的な本だけでなく、よく戦後の日本を見ているものもある。玄洋社の頭山満の紹介や、日本にも学生運動のような文革があったこと、美しい国日本を唱える安倍元総理等、冷静に日本を解説しているものもあった。

 2冊目は人民出版社から出ている『マルクス主義出展学研究叢書 ”物証化”の謎を解き明かす−広松渉のマルクス主義観研究』。日本ではもう見向きもされなくなってきたが、私個人は世界の哲学者に張り合える日本人哲学者だと思っている広松渉。ちょうど私が大学在学中に亡くなったが、広松渉が提示した四肢的存立構造は哲学史上類の無い世界観だった。西洋の古典哲学の根底にある実体を東洋の仏教の世界観から西洋の哲学の言葉で破壊した。東洋的な仏教の縁起の考え方で、デカルトの「我思う故に我有り」から続く西洋哲学の持つ個の実体を否定したのだ。東洋思想はそれ自体では語られるものが多く、また、近世の西洋哲学は東洋思想から学ぶものが多かった。前者は西洋哲学と対話するとしても、それ自体西洋哲学のいう哲学にはなれなかった。後者は結局西洋哲学の立場から説明した東洋思想でしかなかった。東洋思想の立場から哲学の言葉で西洋哲学の新しい境地を開けたのは広松渉だけだ。広松渉はまた、マルクス主義者で、ペレストロイカでソ連が解体に向った1990年に『今こそマルクスを読み返す』を書いている。

 今回買って来た『”物証化”の謎を解き明かす』と『論日本』。論日本は多くの人が立ち読みしたらしくボロボロだ。日本人である私がカウンターに持って行くと店員は笑ってた。


 現在の日本において問題が表面化しているのが、労働の疎外だ。マルクスは労働者の物質との普遍的な関係が資本による労働の物象化により疎外されていると説いた。物質との普遍的な関係とは、ただ単に物理の研究をしているというわけではなく、自分と社会との関係、自分と文化との関係、自分と生産との関係そのものを指す。資本家は、労働者の労働を賃金という対価で物象化し、本来労働から産まれた生産物の価格から労働者の賃金とその他設備費等の経費を引いて得た利益、余剰利益を搾取しているとする。ただ、マルクス主義者が見落としているのが資本の側に、責任労働があるという点だ。現在、会社を起こすよりも、大企業の社員になる方が楽だというのは、何も資金だけの問題ではなく、リスクがあるからだ。労働者の労働力だけが、余剰利益をもたらすのではなく、資本家のアイデアと投資の判断と投資したことに対する責任が余剰利益を生み出す。単純労働を足しただけでは余剰利益は生まれない。へたすると元の資本を食いつぶしてしまう。毛沢東の大躍進政策はいい例だろう。

 ただ、労働の疎外は起きている。それは資本だけの問題だけでなく、労働者自身の問題でもある。今の労働者は自分の労働に責任を持っているか。または責任という言葉自体に嫌気がさし、無責任でいたいと思っているのが現状ではないか。そのような労働者が賃金のためだけの単純労働ばかり求め、自分自身の労働を疎外していく。それを利用して単純労働ばかり提供する企業が労働の使い捨てを行い、搾取する。これが日本で起きている搾取の構造だ。

 これには労働組合が賃金ばかり要求し、経営は経営者まかせにして、自らの労働を疎外していった影響も大きい。自らの労働を疎外しないためには、全体の中での自らの労働の位置を常に計り、自らの労働が成果を生み出すことに責任を持ち、それが人に伝わる喜びを知らなければならない。現在の大企業はマネージメントという名のもとに労働を数値化し、工数という名で労働を物象化してしまう。労働者は自らを見積もれなければならない。労働者は自らの労働の経営を考えられなければならない。

 ただ、それが出来るようになるには技術がなければならない。毎日違う仕事をしている日雇い労働者にはそれが手に入りづらいのが問題だ。一つの道の中で自ら失敗をし、試行錯誤しながら自分と物質との関係を築き上げる環境が必要だ。そこには部下の失敗に責任を持てる技術を持ったリーダーの労働者が必要になってくる。今の40代中堅社員はバブル入社でどうも無責任なリーダーが多い。その上の全共闘世代のリーダーには部下のやることに責任を持つリーダーもいたが、そのことにあぐらをかき、労働者の物質との関係、つまり技術を忘れ、ブランド化を目指して、労働を資本のおまけにしてしまったのがバブル崩壊だったと思う。

 当の共産主義は労働の疎外を資本主義よりももたらした。ソ連は資本の代わりにスターリン主義の恐怖政治で生産を行った。スターリン以降は官僚化、つまり、階級化した。毛沢東は官僚化を許さず、文化大革命を行った。永久革命は平等をもたらすが生産はもたらさず、常に敵を作るだけで、責任を放棄した。そこでも労働は疎外された。マルクスの資本と労働の2元論を乗り越えた上で、労働の物象化と疎外の問題を問うことが必要になると思う。安倍政権で提出された残業代を無くすホワイトカラー制度は業界にもよるかもしれないが私はいい制度だと思っていた。労働は時給の単純労働という枠を抜け出さなければ、労働の疎外はいつまでたっても解決されないからだ。いつまでたっても工数でしか労働が計れない状況から抜け出せないからだ。



 私は広松渉のマルクス主義も手放しでは評価できないが、労働の物象化、疎外の問題は現在も続いている問題だ。日本左翼の遺産が中国という思わぬ所で目を向けられているところで驚かされた。人民出版社から出ているということは中国共産党自体が注目しているということでもある。先日、毛沢東が後継者に指定し、ケ小平との権力闘争に敗れた華国鋒元主席が亡くなった。文革の四人組を逮捕するという功績を上げたが、その他はこれといった独創性が無かったというのが現代の評価だが、改革開放開始とともに始まった中国の汚職とは無縁で、再評価する向きもあったという。

 天安門事件を経て、92年にケ小平が保守派を打倒し、江沢民政権にかけて、中国は政治的には弾圧を行い、経済の発展を守ってきた。中国共産党と公安の持つ恐怖政治体質は改革開放の中で汚職と手を組み、今改革開放路線の矛盾を露呈している。毛沢東の時代でも疎外論は全体主義と対立するため、走資派と呼ばれ否定された。改革開放の時代でも人治で行われる経済発展のために汚職と搾取が行われてきた。胡錦涛政権は遅れた政治改革を法治で行おうとしている。それもまた権力のもとに行われるのであろうが、従来の共産主義の全体主義に戻らないようにする上で、疎外論はこれから重要になるだろう。

 そういえば日本語訳は出ていないがユン・チアンの『マオ』なんかよりも正確に毛沢東の光と闇を描いたとされるフィリップ・ショートの『マオ』の中国語版が小さな本屋でも売られていた。毛沢東の実像の理解に関しては日本よりも中国の方が進んでいるとも言える。



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