オリンピックの北京報告F



 道端で雲南たばこ「阿詩瑪」を吸い、小吃で坦々面をすすり、燕京ビールを飲むと中国に来たと感じる。去年行った上海同様、今回の北京でもかって雲南の伝説のたばこと言われた「阿詩瑪」はもうどこにも売って無かった。代わりに雲南たばこ「紅塔山」を吸う。7年前行った時、3.5元だった坦々面は5元に値上がりしていた。青島ビールは以前のような甘さが無くなり、今はそれが残る燕京ビールがお気に入りだ。ビールの値段は昔と変わらない。しかし、北京の暑さの中飲み心地は変わらないが、以前に比べ酒が弱くなった私の足をぐだぐだにする。

 7年前来た時には2号線までしかなかった地下鉄は今や13号線まである。便利になったものだ。最近の中国人のマナーの向上により、乗り心地はもう東京と変わらない。煙草を吸う人も減ったものだ。これは世界的な傾向かもしれない。だが、私は中国煙草を吸っている。9年前や7年前、北京はもっとカラっと暑かったが、今は朝はいつも霧が出て、蒸し暑い。大気汚染のせいもあるのかもしれないが、昔の郊外ははげ山ばかりだったのに、最近は植林が進んで緑が多い。それが霧の原因のようだ。車の量は確かに多い。日本が特殊なのだが、右側通行の道路の横断は未だに慣れない。

 北京オリンピックが終わった。「オリンピックを見に来たのか?」と聞かれたが、オリンピックの中国語の発音「奥運」を覚えて来なくて、最初答えられなかった。それぐらいは覚えて行けばよかった。覚えた言葉は「加油中国」(がんばれ中国)。最初、「中国に石油を」という意味かと思ってしまった。北京人にはなぜかいつも韓国人に間違えられる。今回も「韓国人か?」と聞かれた。日本人や日本に来ている中国人に聞いてもどう見ても日本人だと言われるのだが。

 閉会式の日本選手は他の国に比べ、やっぱり日本人同士で固まっていた。日本はやっぱり鎖国のようなものなのだなと感じてしまう。日本は国際化よりも江戸時代化している。それでも私の中に中国は根付いている。92年に行ってから99年に北京に行くまで間、92年に見た中国が夢の中まで出てくる。何がいいのかと言葉では出てこないのだが、やっぱり第二の故郷だと思ってしまう。中国にはダメな人も多いのだが、賢者のようにまじめな人もいる。それは昔から変わらない。この構造を分からずに、ダメなところばかりあげつらっていると味方にすべき人まで敵に回すだろう。胡錦涛はあきらかに後者だ。さすが胡耀邦の意志を継ぐ者。中国の姿は変わってきている。

 今回、スキャナーを買い直し、92年の中国のフィルムをフィルムスキャンしてみた。忘れていた景色を思い出す。最近、今にばかり取り憑かれていた私は、写真を見て、私の人生もそんなに悪くないと思えてきた。最後にその写真を紹介したいと思う。やっぱり言いたい。



中国おめでとう。そしてありがとう。




 かっての上海の町並み。
 上海から西安に向う列車の中で出会った軍人さん。「江青(文革四人組の一人。毛沢東の妻)分子を倒す」とか書いた軍に提出するらしい声明文を見せてくれた。公安にはろくな人間がいなかったが、私が出会った人民解放軍の兵士は落ち着いていてまじめな人が多かった。この人は少しクセがあっておもしろい人だったが。西安には当時の中国の列車の硬座(2等座席)で行った。床はサトウキビの皮や向日葵の種の皮でぐちゃぐちゃ。しかも、春節だったため、列車は激混み。我々は席有りだったが、席無し乗客が通路にひしめき、トイレに行くの人をかき分け行かなければならない。トイレにすら人がいる状態だった。なので窓から乗り降りする人が多かった。寝ているとゴミ箱が燃えたらしく、煙がたちこめたこともあった。当時、西安には上海から一泊で、ウルムチには3泊で行けたが、ウルムチまで硬座で行ったら病気になるとも言われていた。とにかくものすごい体験だった。
 西安駅。すぐ側に城壁があるところが情緒深い。当時、中国の都市の駅前は布団持ち込みで居座る人々がたくさんいた。切符を買うのがたいへんで長い行列をならばなければならなかったせいもあるが、流民も多かったと思う。公安が駅に居座る人々をどかす際に、立てないぐらい弱り果てた少年がいた。日本なら救急車が呼ばれるが、なんと公安は動くまで竹の棒で叩き続けた。貧しい国特有なのか中国特有なのかわからないが、当時の中国の矛盾を見せつけられた。
 西安のイスラム寺院。礼拝に参加した。体を清めるところで口から水を含み、鼻から出すという洗浄をしなければならないのだが、どうも私はそれが出来なかった。
 西安の小雁塔。昔、雷で上部が破損し、縦にヒビが入っている。その姿が西安の荒涼とした空気と混じって絵になっている。
 小雁塔から眺めた当時の中国の民家。
 西安で人生ではじめてどこまでも続く地平線を見た。西安は水不足でしょっちゅう断水がある。ホテルの湯船に張った水は青かった。こんなところによく過去、都があったものだ。当時まだ緑が多かったのか。
 西安駅の東側の風景。
 西安の小学校をいきなり訪ねた。中で授業の様子を見せてくれた。無理言って道徳の教科書をもらってしまった。少数民族を差別するなと書いてあった。
 成都へ向う列車。当時は列車の下をくぐって列車に乗り込む人々がいた。また、列車のゴミは窓から捨てる。線路の脇はゴミだらけなのだが、それを拾う人々もいて痛々しかった。
 四川省に入ると景色は段々畑の幻想的な風景となる。
 大足の石窟を上から見た写真。
 大足石窟付近の景色。
 大足の南山にある道教寺院。そこにいた仙人と自称する拳法家(手の平の手相が仙に見える)とその弟子。きつい酒を何杯も乾杯。この方は手紙を書いて唯一返信をくれた。四川語なので読むのがたいへんだったが、あの時は酔っぱらって失礼したとのこと。
 大足の北山の風景。幻想的な中国南部の風景。
 成都の防空壕を利用した怪しいホテル。中は迷路のようになっている。
 そのホテルの私が泊まった部屋。
 楽山から見た長江。
 楽山大仏。
 楽山大仏の裏山。楽山大仏の裏山が実は3kmの寝釈迦だったという報道が80年代末にされた。実はこの位置から見ると仰向けに寝ている寝釈迦に見えるというだけだった。あそこに塔が立っているところがなんとも・・・
 雲南省大理の招待所(ホテル)から見た蒼山。常に轟音が鳴る。この招待所のトイレがドア無しトイレ。壁にはぬぐった糞がついていたり、今まで体験した中で一番すごかったトイレ。大理は堆肥の臭いがした。
 大理の湖、ジ海の岸。大理へは昆明からバスで一泊かかる。
 遠くから眺めた三塔寺。三塔寺を管理している方は親切だった。
 大理の田園風景。
 大理のバザール。
 白族の可憐な少女。カメラを向けると恥ずかしそうにしていた。
 バザールの言い争い。中国ならどこでも見る風景。私もこの調子でなんか言われたことがあったが、何を言っているかわからないので相手もあきらめる。
 大理にいた預言者のように白髭を蓄えた欧米人に物を売りつけようとする少女。
 バザールで何かを売る老人。
 バザールの歯医者。治療といっても抜くだけのようだ。
 大理の景色は四川省を抜けた南方の強い日差しの中輝いて見えた。
 大理の民家の屋根に生えたサボテン。
今やもう時効だし、本人も生きているかわからないので言ってしまうが、我々は大理のキリスト教教会に行った。すると一人の老人が親切に話しかけてきた。我々がその老人と仲良くしていると、女性が私の尻をつねる。そして「彼は詐欺師だ」という。それを無視してついて行ってしまったのだが、ある画家のところに連れていってもらった。以前にも日本人が来て、その日本人が送った写真を見せてくれた。それは中央大学多摩キャンパスの写真だった。絵を売ろうとしたり、記念に日本の紙幣をくれないかと言ってきたが、100円玉をあげて帰ってしまった。その後、教会に行って神父にその老人のこと聞いてみた。するとその老人は元教師で生徒と関係を持ってしまったので懲戒免職となってしまったのだという。今は外国人の相手をして生活をしているという。大理は当時も他の都市に比べ、外国人の多い町だった。
 大理からバスで一泊して行った麗江にて。納西族の美女。
 麗江の裏山。なんか忘れたが麗江の象徴らしい。麗江は雲南省省都昆明からバスで2泊かかり、行くまでの道の舗装も悪く、バスは振動して窓によっかかって寝ると振動で痛くなるほどだった。そこまで苦労して行く麗江は当時秘境だったが、今や都市なみに発展しているようだ。当時もゲームセンターはあったが、今やライブハウスもあるらしい。
 麗江の旧市街。
 なにか祭りをやっていて、男同士で踊る麗江の若者達。写真とは別の集団だが私も"Let's dance!"と声をかけられた。この町は納西族の町だが、不便な場所にある割には、他の漢人地域に比べて豊かだった。
 祭りの様子。
 玉龍雪山に行く途中の山々。
 私はこの山が玉龍雪山だと思っていた。ここから見るこの山の存在感は圧倒的で、視界の90度を埋める。
 向きを変えて撮った写真。こちらが本物の玉龍雪山だった。
 麗江旧市街。
 麗江旧市街。
 大理の招待所のすぐ近くにあるカフェの娘達。今も元気にしているだろうか。
 昆明の公園の風景。
 ゲートボールをする老人達。
 上海の建築中のビル。当時中国では竹を使い建築するのが一般的だった。
 魔都上海と言われた戦前の時代からのビル。頭が尖ったビルが和平飯店。当時の広い個室が今は多人数部屋(ドミトリー)として使われていた。
 上海の黄浦江の水は今より汚れていた。黄浦江のことを去年仕事で上海に行くまで長江と勘違いしていた。



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