小松美彦先生について


 今までの半生で出会った人の中で誰が一番インパクトがあったかと考えるとやはりこの人になる。出会いは私が浪人生の頃。小松先生は河合塾で小論文の授業を行っていた。上期は別の先生で、下期の半年だけだったが今に至るまで私に影響を与えている。

 つい先ほどgoogleで検索してみた。当時、全学連の話を体験していたかの如く語っていたので、その世代だと思っていた。だから、今生きているかもわからない。期待せずに検索してみた。すると引っかかる。なんと東京水産大学で教授をしていた。生まれは1955年。まあ、若くは見えたのだが、独特の貫禄があるので実は歳をとっていると言われても不思議は無かった。今の私と同じ年齢の頃の小松先生に私は出会ったのだ。地元は阿佐ヶ谷で私と同じ。意外に近い人物だった。

 天才肌の独特な取っつきにくさを持ち、その存在感と言葉の迫力で、100人以上いる受講生を圧倒しまくっていた。自分の目で見て、自分の頭で考えるよう教え、何かに寄りかかったような言葉は容赦なく斬って捨てられた。私は蛇ににらまれた蛙のような心地がして、何をやっても鼻で笑われる感じがした。しかし、取っつきにくさは自分で物を考えているている証拠で、社会から逸脱した感性を持ってるため、社会的な馴れ合いや安心感を求めても弾かれてしまう。彼は相手が取っつきにくい相手でも接していたし、人に衣着せぬように感じさせる一言も誠実さからだった。本人も当時、人に攻められると弱いと語っていて、タヌキにはなれない誠実さの脆さでもあった。当時の小松先生と同じ歳になってその気持ちを垣間見た気がする。

 広松渉を初めて知ったのも、小松先生の授業からだった。今まで信じていたものが全部壊れた。私は教科書や教師の教えてことをそのまま事実と思っていたが、それは現代の社会に浮かぶ認識のパターンで、別の角度の視点が現れるとそれでは説明がつくとは限らず、新しい認識のパターンが必要になる。認識のパターンを現象そのものと思いがちだがそれは区別しなければいけない。学問はまさに実験の結果による視点の追加と新しい認識のパターンの創造なので、この視点を持つことは高校の授業から大学の授業に切替える上で必要だった。広松渉の名前自体実はこの時は覚えなかったのだが、大学で真島一郎先生の文化人類学の授業で再びこの名前が出て、覚えることになる。(この真島先生も小松先生と似た空気を持っている方だ。ちょっと情緒が不安定なところがあるが。)

 私に大学の勉強なんかくだらないと言っていた小松先生が大学の教授になっていたことは感慨深い。河合塾の小論文の授業についてなかなか得るものがあると言ってたが、90年代に入りどういう心境の変化があったのか。小論文の授業は小論文を書かせ毎回採点しなければならないので、やりがいはあるが相当ハードな仕事であることを語っていた。私は昔から余裕が無いと動かない気質なので、生き急ぐタイプの生き方はわからない。だから、今も小松先生がやっていけてるのかどうかは不安だった。大学では脳死と臓器移植の問題の本を書いている。当時もその問題について小論文を書いたものだ。死に関する話も多かった。サルトルと後誰だったか忘れてしまったが、3人の哲学者の異なる死生観についても話していた。死の恐怖も語っていた。そのせいもあって当時も40歳は越えているとずっと思っていた。この人は歳とっても雰囲気が変わらない人なんだろうなと思っていた。今、googleで引っかかる写真を見ると、やっぱり歳をとるものだと思ってしまう。

 たしかに脳死に関する授業もあったが、私の小松先生のイメージは左翼のイメージが強い。個人の意見として天皇制は打倒すべきと語っていた。共同体による個人の圧殺が許せない小松先生らしい意見だった。共同体が個人から自分で見る、考える能力を奪い、疎外している。やはり今の小松先生の主張もそこに原点がある気がする。私は当時それに反発し、共同体側からの主張を小論文に書いていた。ただ、小松先生は天皇制の問題と天皇の戦争責任の問題は別問題と言っていた。今上天皇が今の日本人が向おうとしている共同幻想に危機感を感じ、歴史事実を忘れないよう言っているのが感慨深い。今の私は必ずしも天皇制の道は個人を圧殺する共同幻想の道ではないと思っている。むしろ、日本の共同幻想がおかしくならないように過去を振り返るために継続性を保っている道だと思う。戦後の「天皇制打倒」というスローガンも天皇制のコスモモロジーを形成する一要素だったと思う。そのこと一つとっても天皇制は他国の王政における元首とはまったく別物なのだ。ただ、自分で物を考えられないことに漫然としてその道を個人圧殺の共同幻想に変えようと考えている輩はいっぱいいるが。天皇制がそのようなものになってしまうのであれば、革命を起こすまでもまく、いつかは自然に滅びてしまう。ネパールで起きたことは他人事では無い。古来から天皇制には道教の世界観も入っているが、帝王学だけでなく、老子からも学ばなければここまで続くものでは無かっただろう。

 最後に授業の感想を書くとき、小松先生は先生と思わない奴に「先生」などと呼称を付けるなと言われ、当時小松先生のインパクトに反発していた私は「先生」を付けずに「小松」と呼び捨てで書いてたった3人しかいない少数派となった。今、小松先生と出会ってから18年の歳月を振り返り、やはり私にとっては「先生」であり、呼び捨てではなく、小松先生と書きたい。
H20.08.30

H20.09.01追記
 小松先生の授業で小論文とは別に以下のような問題が出された。

 12個の分銅のうち1個だけ重さが異なる分銅(軽いか重いかはわからない。)があり、天秤を3回使用し、、重さが異なる分銅を特定せよ。

 この問題の出所はソ連時代、戦闘機にどのようにミサイルを乗せていくか計算する上で使われた考え方らしい。
 ヒントは天秤は左が重い、等しい、右が重いの3パターンあること。3回なので、3×3×3=27パターンある。分銅は12個あり、しかも重いか軽いかの2パターンあり、12×2=24パターンある。これを27パターンにまんべんなく配分する作業を地道にやれば出来る。必ずしも全パターン重いか軽いかまでわかる必要がない。久しぶりにやってみたらこの考え方で出来た。
 実は、受講生の中には2回で出来たという人もいたらしい。さらに先生の仲間で1回で出来たという方もいたという。答えは教えてくれなかった。もしかしたら死ぬ間際にわかるかもと意地悪に言われたものだ。
 私は当時3回で量るやり方もわからなかった。私の友人達も3回で計るやり方がわからなかった。しかし、格闘ゲームで私が絶対勝てなかった旧友は2回でやる方法を発見した。
 単純に考えて、2回では3×3=9パターンなので理論上出来ない。しかし、理論と実践は違う。本物の天秤で量る時、学校で注意されたことを思い出せば、少々ずるいやり方で出来る。
 18年ぶりに考えてみて1回でやるやり方も分かった。思えば18年もかかった訳だが、2回でやるやり方が分かれば、1回でやるやり方はちょっと考えれば出来る。2回を通り越して1回で出来るやり方の方が先に思いつく人も多いかもしれない。

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