辻政信についてユン・チアンの『マオ』の書評に日本のような和の通じる社会では毛沢東のような人間はいないと書いたが、本当にそうなのだろうかという疑問もあった。理想主義者で戦略家としてはやはり石原完爾が並ぶのだろう。しかし、石原は権力闘争に勝てるタイプではなく、やはり日本的な和の中で押しつぶされてしまうタイプだ。理想のためなら手段を選ばないという点は似ているが、理想のためにどこまでも冷酷になれるタイプではなく、和を保ちながらなんとかしていこうというタイプだ。そこから石原を導師と仰いだ辻政信はどうだと思い、辻政信に関する書籍を漁ってみた。 この人物は日本陸軍の元凶のように言われる人物だ。辻の人物評は実情無視で無謀な作戦を立てる精神主義者、目的のためなら手段を選ばないマキュベリスト、我意強く小才に長じこすい男(山下奉文評)等々。その悪評の理由として以下の辻の責任が上げられる。 @ノモンハン事件での敗北の責任と兵士への自刃強要の疑惑 Aシンガポールでの華僑虐殺と最高裁判所長官ホセ・サントス処刑の指令を出した疑惑 Bガダルカナルで日本兵に大量の餓死者を出した作戦責任 Cビルマでの英兵人肉食の疑惑 また、武勇伝もすさまじく、ノモンハン、マレー作戦、ガダルカナル、インパール作戦と激戦地には常に辻がいて、体中には弾丸による無数の傷があり、ラバウルでは銃弾が頭部を貫通したが急所は外したために生還した。戦場では常に前線にいる参謀だった。また、マレー作戦ではわずか2ヶ月余りでシンガポールを堕とし、作戦の神様と呼ばれた。 以上を見ると日本陸軍の精神主義の体質を体現した人物に見えるが、本当にそんな絵に描いたような実情無視の精神主義者だったのか。ノモンハン事件の直前の頃、敵情視察を行わせると辻の報告がもっとも細密だったという。黒竜江のある場所を調べた時は自ら泳いで調べたという。(※1)作戦をたてる時は必ず自分の目で確かめたことしか信じなかった。戦前金沢歩兵第七連隊の少尉だった頃、古年次兵が初年兵をリンチする問題を初年兵の部屋と古年次兵の部屋を分ける等、軍人勅諭の精神主義を押しつけるのではなく合理的な配慮を行った。(※2)陸軍士官学校の教官だった時は生徒達が小哨をどこに置くか議論し、川に架かった橋を固めれば敵の侵入を阻止出来ると結論した時、自ら川に飛び込むという型破りな教え方をしている。辻は精神主義者では無く、合理的だ。ただ、その合理性は徹底した現場主義からのもので、それ以上のものでは無かった。 辻は酒とたばこはやるが女遊びやその他贅沢を嫌った。マレー作戦の前、サイゴン駐屯時、将校が女部屋に通うのに軍の自動車を使用するのを見て徹底的に軍記粛正を行った。(※3)終戦間際のバンコクでも将校が慰安所に行くのに車を使っているのを戦闘以外でガソリンを使うなと戒めた。(※4)辻は兵隊には優しく、将校や上官には厳しかった。日本軍の体質を体現する人物というよりも、日本軍の体質に抗ってきた人物のようだ。 石原完爾が日本的な和の中をうまく利用して、出来なくなると引いてしまうタイプだったのに対し、辻政信は徹底的にぶつかっていく。辻にとってノモンハン事件も、南方進出も中国侵略に向う日本陸軍を止めさせるという目的の過激な手段だった。職業軍人である辻政信は戦争を侵略戦争ではなく、アジア解放戦争にするという理想があったようだ。毛沢東ならばこんな戦略的ミスは絶対にしない。毛沢東は田中角栄に日本と手を組むにあたって日本の敵であるソ連、アメリカ、ヨーロッパ、そして中国と全部戦うことの愚かさを語ったという。(※5)第二次世界大戦ではそれを行ったヒトラーと東条英機を馬鹿だと言った。そのへんが辻政信と毛沢東の違いのようだ。しかし、そうまでしないと止まらない日本の和は一度狂うと恐ろしいことになるようだ。その時は石原完爾のような天才が出ても、出る杭は打たれる日本の和の中では押しつぶされてしまい、より過激な方法を提示する者だけが流れを変えていく現状があった。その意味では辻は日本陸軍の元凶の一人だったかもしれない。ただ、辻は侵略戦争の元凶ではない。むしろ、それを止めようとしていた立場だった。侵略戦争の元凶を求めるといつも雲をつかむようになってしまい、ヒトラーやスターリンのような中心はみつからない。それは日本が天皇を除いて一人の指導者に寄り添う社会ではないためだ。ある時は理ではなく劣情が寄り添う和の空気そのものにある気がする。 辻政信は石原完爾と出会ってから石原を導師と仰ぎ、東亜連盟を推進していった。それを東条英機はアカだと呼んだ。(※6)東亜連盟には反日運動である五四運動の指導者胡滴、鮑明ツが参加した。東条は辻を利用価値があるとみて使っていたが、辻は東条を嫌っていた。東条は満州を帝国主義的に支配しようとしていたが、辻は石原の説く五族共和を信じていた。昭和13年通化県で土匪が帰順してきた時、辻は自らの責任でその罪を問わずに解放した。東条は激しく叱責したが、帰順してきた者を殺すなど武士道に反すると食い下がった。辻は自ら土匪の頭目と話をつけ、無条件で帰順を認めてもらえた頭目はいたく感激し、土匪は一人残らず帰順した。(※7)昭和17年日本の中国支配のために作られた大東亜省の運営についても東条と揉め、中国人による運営を目指した辻は大東亜省など無くしてしまえと言った。(※8)ガダルカナル戦から日本に戻ってきた頃、辻はマラリアで生死の境をさまよったが、その時東条夫人が見舞いに来たが断っている。(※9) 辻の亜細亜主義の理想は他の軍人や政治家のような日本帝国主義支配のためのお題目では無く、純粋なものだった。辻が満州に赴任した昭和11年のある晩、街中で酒に酔った下山という大佐参謀が中国人有力者をバカモノ呼ばわりして小突いている場に出会い、投げ飛ばしてしまった。(※10)日中戦争開始後、辻は重慶政府との和平工作に尽力した。その時重慶政府の地下工作員の家族が上海で日本の憲兵に拘束された時は上海憲兵司令部に連絡を取り、その家族を解放させた。(※11) 辻は終戦をタイのバンコク司令部で迎えたが、地下活動を行うべく僧侶の格好をして身を隠した。その後和平工作をした縁から中国で国民党の活動を行い、その後日本に帰国し、戦犯解除が行われるまで潜伏した。表に出てからは石原完爾がそうであったように自衛中立を説いた。昭和30年当時の民主党(自由党とともに今の自民党の前身)の公認で政界入りした。その際、以下のように演説している。「どうしたら、戦争を防止し、最悪のばあいでもその渦中に巻き込まれずに、民族の独立と平和を守れるか心魂を傾けたい。自衛隊が設置されたのはいいが、その海外派兵には身命賭して反対する。」(※12)その後、アジア、アフリカと共に中立の平和主義を説く石橋湛山内閣の元で数々の外交活動を行う。エジプトのナセル、ユーゴのチトー、中国の周恩来、インドのネルー等と会談した。なかでもナセルとは意気投合し、刀をナセルに送っている。辻は中国共産党とも積極的に接触を図り、日中の国交正常化を図っていた。しかし、岸信介が政権を取ると、岸は対米追従でアジア、アフリカを顧みなかったために、激しく対立することになる。辻は東亜連盟の思想に基づいて戦後も政治活動を行った。 全学連による日米安保反対運動が起こると、辻はその運動の情熱を好意的に見ていた。辻は全学連と接触をし、リーダー格をアジア、中東、共産圏16カ国を回る旅行に連れて行った。共産圏では共産主義国の現実を見せさせた。辻は「俺は全学連の赤い学生を連れて歩き、白くしてやった」と言った。(※13)日本陸軍の元凶と呼ばれたこの人物は実は戦後の左翼にまっすぐ繋がっていた。これはパラドックスでもなんでも無く、日本の戦前と戦後の連続面を示している。ネガとポジは反転しても、構造はそのまま残っていて、戦後に繋がっていたのだ。そのネガとポジとは軍国主義が平和主義に変わったこと、東亜連盟の思想が平等の思想に変わったことだ。その構造には理想を目指すというプラスの構造もあり、目的のためなら手段を選ばないというマイナスの構造もある。ともあれ、戦後を否定しても戦前は見えないのだ。 岸との対立で孤立していった辻はベトナムのホーチミンと交渉するために、ラオ僧に変装しラオスに入る。そこで消息不明となった。有力な説はジャール平原で、ブンウム首相の右派政権に対立するスフォヌボン殿下の左派軍であるパテトラオ軍に殺害されたとする説だ。その他CIAによる暗殺説もある。戦後、辻の側近だった朝枝繁春氏は辻が秘密裏に中国共産党と接触し、周恩来と会談していた頃、中国側からは旧日本軍人と接触している訳だから黙っていて欲しいと言われたのみにも関わらず、おおっぴらに語ってしまっていたことから、中国に拉致されていると推測している。(※14) 辻政信は日本陸軍の元凶と呼ばれ、数々の責任を問われた。でもその大部分は自分の理想のために周りと衝突してきたために、やり玉に挙げられやすかったためのものと思われる。辻はノモンハンにおいては負けを認めたくないために、圧倒的な劣勢の中、無駄に攻めさせ、無駄に玉砕させた。辻の戦い方は与えられた戦略状況の中で劣勢は現場主義の戦術でなんとかするというやり方だ。(圧倒的軍備の差に関わらず、ソ連側は戦略目標を達成したものの、被害は日本を上回っていて、戦術的には敗北に近かった。)戦争の勝敗は逆で戦う前の戦略で決まるのだが、辻にはそれが欠けていた。しかし、その戦略状況は冷静な判断では無く、空気で動く当時の日本の体質が作り出していた。日本帝国主義の恥辱は今のインターネットと同様に顔の見えない人々の和の空気で行われてきた。上海事変では辻の上官である空閑昇少佐は敵軍に包囲され重傷を負ったところで捕えられた。それを世間は「軍人の面汚し」として非難が起こり、空閑はピストル自殺した。ノモンハンについても、その空気の中で解釈しなければならない。ガダルカナルについても行く前までは辻も強硬論だったが、行った後では「あれは餓島だ」と言って撤退論であったという。(※15)辻の戦場での非情な態度も戦争の矛盾に対する現場主義の立場からの辻の答えであり、美談では覆い隠せない戦争の本質であったのだろう。戦後60年経った空気はまたそれを覆い隠そうとしている。日本陸軍軍人であり、その元凶であったという視点をとりあえず置いて見ると、当時の日本の空気の中、先の大戦のほとんどの主要な戦場の前線を経験したこの人物の説く平和主義はどんな言論よりも説得力がある。
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