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私は大学にいた頃、シャーマニズムを個人の内面や実存に照らし合わすことでしか捉えられないものと考えていました。実際、シャーマニズムについて興味のある方々は、意識のレベルという概念を用いて捉えようとする人が多いのではないでしょうか。私の場合は仏教の空の思想について大学時代かじったことがあり、その延長としてシャーマニズムを捉えることができると思っていたのです。しかし、シャーマニズムは、シャーマン自身の保身や、その構成員(教団、または民族)の政治性と深く関わっているのです。例えば、トリックによって、メスを使わずに外科治療をやるといったものが以前ありましたが、これは騙すことにより身体への意識の変容を促し、自然治癒力を高めるという説明もあります。それを霊感商法とどのように線引きしていいのかという問題も残ります。オウムやカルト宗教とシャーマニズムは果たして線の引けるものなのでしょうか。それを真のシャーマニズムでは無いと言うのは簡単ですが、そのような意見は普遍的な立場から出たというより、時代の政治性に左右されて出てきたように思えてしょうがありません。そして、チベットやインディアン、または、アフリカといった自分のいる現実からさらに離れた場所(*)に「真実」という言葉が当てはめられていくのです。 ルイスは社会人類学者で、エリアーデの『シャーマニズム』を社会関係からの考察が無いと批判して、この著作を書いたそうです。どうせシャーマニズムの中身からは外れた、ただの社会学理論になのだろうと思っていましたが、読んでみるとなかなか興味深い本でした。 ルイスの考え方には、60年代のサブ・カルチャーの台頭が念頭にあります。まさにカスタネダの登場に代表されるシャーマニズムに関心が集まった時代でしたが、そのようなムーブメント自体がすでにシャーマニズム的であることを看破しているのです。そして、様々な文化におけるシャーマニズムの土壌がその文化内でサブ・カルチャー的な位置付けを持っていることを例示していくのです。 そこに例示される様々な文化において、シャーマニズムの特徴的な要素である、トランス、憑依、脱魂は、その文化内の底辺や、周辺において見られることを例証していきます。例えば、女性や低いカースト、あるいは、その民族の中で異民族の宗教を信仰する人々、あるいは、昔は主流だったが今は底辺に追いやられた宗教を信じる人々等です。ところが、そのような周辺や底辺にいるシャーマニズム的な信仰や宗教が、文化内でメイン・カルチャーとしての力を持つようになると、シャーマニズム的要素を次々と失い、戒律や儀式を重んじるようになるのです。 この考えは現在の文化にも応用が可能です。60年代のサブ・カルチャーの若者達がアメリカの企業社会に次々に組み入れられ、60年代に学生運動をしていたクリントンが、現在はアメリカの大統領なのです。日本でも、全共闘出身の知識人が保守派に変わっていった過程にそれが見出せるでしょう。別に、それが悪いとは言っていないのです。ただ、シャーマニズムは固定的に絶対化はできないということを言いたいのです。その時代に生まれたシャーマニズムが未来永劫真実であるとは言えないということなのです。何かを信仰する方々は、それが固化する前に相対化する必要があると思います。それが逆にシャーマニズム的であるということなのです。 |
* 我々の社会を「科学的」、あるいは、「理性的」と言い、チベットの人々やインディアンの人々はそれにとらわれていないという理由で「真実」に近いというような考え方もありますが、果たして我々の社会はそんなに「科学」や「理性」に染まっている人ばかりだろうか。