ユン・チアン ジョン・ハリディ 『マオ』    土屋京子訳 講談社 2005



 本著は『ワイルド・スワン』で有名なユン・チアン氏とロシア通とされるジョン・ハリディ氏の共著。外側から見た視点で毛沢東の悪事を余す所無く書いてある。まずは私にとって衝撃的だったところを以下にまとめてみました。(衝撃的でも信憑性が低い箇所は除いています。)

@ 1930年江西紅軍を乗っ取る際、江西紅軍の抵抗者とその支持者をAB(アンチ・ボルシェビキの略)団分子と呼び、同志達に対する拷問による自白と殺害を行った。それに対し富田事件という反乱事件が起きた。上海の党中央とコミンテルンは毛沢東の国際的知名度から毛沢東を支持し、そのため再び何万人という処刑が行われた。乗っ取りを行ったばかりの朱徳、彭徳懐の軍に対してもAB団分子の粛正は行われ、党中央の支持も得た毛沢東に朱徳と彭徳懐は逆らえなかった。(※1
A 毛沢東による軍閥のように点在していた紅軍の併合により1931年江西省瑞金を首都とする中華ソビエト共和国が誕生する。毛沢東は主席となるが実権は上海党中央の博古(秦邦憲)、周恩来等に握られた。以前からこの瑞金政府においては大量の死者が出たことは言われていた。それはこれまで国民党による包囲網が理由とされていたが、本著では住民に対する粛正と搾取のためとしている。1949年末共産党が江西省を奪還した時に、ソ連人情報将校の報告では江西省に共産党員はいなかった。
B 長征(1934〜1935)において国民党は共産党をわざと逃がした。(※2)西南地方の軍閥を共産党の残虐な手段で平らげてもらい、その後、この地を支配するためだった。毛沢東は日本の侵攻において同じ手段を使った。日本軍が国民党を追い出した地域に司令官を派遣し支配地域を拡大した。これは日本軍との戦いにおいて人民戦争を行うためと言われていたが、毛沢東としては国民党との戦いが主目的だった。
C 長征(1934〜1935)において毛沢東は共産党の実権を握ったと言われている。まずは博古(秦邦憲)をはじめとする瑞金政府からの指導者から実権を奪った。その後は、長征組よりも多くの兵を持つ四川省の残虐な独裁者張国Zとの戦いだった。合流すると張国Zに権力が乗っ取られる危険があったため、長征上、貴州省からすぐに四川省には入らず、何度も旋回し、(今までの長征の地図でも謎の旋回が記述されている。)結局、雲南省に入った。その後、張国Zと合流をするが、共に山西省に向う際は、張国Z軍には敢えて厳しいルートを行軍するように指示し、兵力を減らさせ、行軍を遅れさせ、毛沢東は先に延安に入り実権を握った。これは今までは張国Zが長征を裏切り南下したと言われていた。後から延安に入った張国Zの軍は新疆ウイグルからソ連とのルートを切り開くという無茶な命令が与えられ、ほぼ全滅し、生き残った少数の兵士も延安に戻ってきた際に生き埋めにされた。
D 「農村部から都市を包囲する」は劉少奇が言い、「都市の死守よりも敵の消滅を主とする」は林彪が言った。国共内戦(1945〜1949)において毛沢東はそれらに反対し続けた。
E 国共内戦末期から革命後(1949)の土地改革は恐怖社会を作り出すための虐殺の場だった。対象の幅はなし崩しに拡げられ、普通の自作農に対しても行われ、家族ごと虐殺された例がある。
F 朝鮮戦争(1950〜1953)に対する中国の介入はスターリンが米軍を東アジアに釘付けにして兵力を減少させる目的と毛沢東が危機を煽り、軍事技術や核技術をソ連からもらうために行われた。中国側も大量の死者を出したが、元国民党の兵士が多かったので死者を出すことは毛沢東の目的にかなっていた。1951年には金日成も戦争をやめたがっていたが、スターリンと毛沢東の目的のためにその後も継続された。第三次世界大戦の危機は毛沢東にとっては好都合だった。その後の台湾の金門島への砲撃もアメリカを踊らせるだけでなく、危機を煽り、ソ連からの軍事技術の供与を目的として行われた。
G 毛沢東はスターリンを恐れていたとされていたが、毛沢東の権力欲の方が上だったようで、江青もスターリンでさえ主席は倒せないと言っているようにスターリンでさえ手玉にとっていた。スターリンと毛沢東はお互いに利用価値があり、牽制しながらも利用しあう仲だった。
H 毛沢東とフルシチョフの不和はスターリン批判(1956)からと言われていたが、最初は毛沢東はソ連から搾り取れるだけ軍事技術を搾り取った。スターリンの頃はそのようなことを許さなかったが、フルシチョフは最初善意で与えていた。しかし、毛沢東の目的が共産圏の盟主となることと知るとはじめて脅威と認識し、そこから不和が始まった。
I 革命後(1949〜)において他の幹部が国を裕福にした後、軍事大国化することを提言していたが、毛沢東は軍事大国化を優先した。当時の中国では輸出できるものが食料しかなかったのでそれを核開発の資金に充てたり、共産圏での影響力においてソ連を追い抜くために他国への援助に使用された。1956年にさらに3倍の食料供出を計画した。他の幹部はただでさえ飢えている人民からの搾取をしぶり、数字で無理なことを説明した。毛沢東は数字が苦手なのでとりあわなかったが、結局その計画は中止された。反右派運動(1957〜1958)の後の大躍進政策(1958〜1961)はそれを実現するために行われた。到達不可能な食糧増産を煽り、それまででさえ大きかった搾取の量を倍増させた。幹部の間では大躍進政策に対する不満で満ちていたが、それに対して反旗を翻した彭徳懐は左遷された。毛沢東はこのまま大躍進政策を続けるつもりだったが、劉少奇の奇襲で止めさせられ、毛沢東は自己批判させれた。劉少奇と毛沢東との不和は今までは1956年のフルシチョフによるスターリン批判にまで遡るという説もあったが本著ではそれまで毛沢東は劉少奇を危険に思ってなく、ここから恨みを持ったとしている。
J 文革(1966〜1976)において最初に粛正された北京市長彭真は毛沢東が行おうとした文化破壊や文化人粛正から、文化、文化人を守るために行動した。文革の発端となった姚文元『海瑞罷免を評す』の人民日報掲載を毛沢東の指示によるものということを知りながら拒否した。
K 文革(1966〜1976)は、最初、学生による紅衛兵が中心だったが、その次は労働者による造反派が中心となった。この中には毛沢東に逆らうものもあった。そのような造反派は国家により鎮圧された。1968年の広西チワン族自治区で行われた鎮圧では機関銃、迫撃砲、大砲が使用された。そこでは残虐な処刑方法の殺害が行われ、10万人が殺害された。人肉食すら行われた。内モンゴル自治区ではモンゴル人の人口の60%が拷問により迫害された。
L 毛沢東がニクソンと会談する際、台湾、ベトナム、朝鮮半島等具体的な話を避け、哲学の話をしたいと言ったのは、共産圏の盟主を目指していた手前、へたに具体的な内容を言って裏切者と見られないためだった。(逆に『毛沢東と田中角栄』(青木直人著 講談社)によると田中角栄とは相当に突っ込んだ話をしたらしい。これがアメリカ側の怒りを買ったのかもしれない。本著でも毛沢東と会見しようとして他国の元首は小便も我慢して待っていたが、田中角栄だけは毛沢東の家で小便をした。また、晩年、世界の大国の順として、アメリカ、ソ連、ヨーロッパ、日本、中国と日本を中国より上の4番目に挙げている。)


 細かいところは書かないが、ここで描かれた拷問や虐殺の詳細は中国側が発表した日本軍が行ったとされる残虐行為と同様にひどいものだ。また、革命前の毛沢東については理想と情熱に溢れた革命家だと思っていたが、私利私欲のために同志を利用し残虐に殺害するなど、革命後よりも残虐な行為が行われている。これだけ見るともはや何の弁護もできずに、20世紀最悪の独裁者は毛沢東であるは決定的だ。毛沢東はスターリンよりはましと言われてきたが、スターリン以上だ。

 私が毛沢東に興味を持ったのは実は『毛沢東の私生活』(李志綏著 新庄 哲夫訳 文藝春秋 )だった。この本は毛沢東の主治医だった李志綏が1994年に題名通り毛沢東の私生活を暴いたもので、中国共産党の逆鱗に触れたものだった。実際、出版されてすぐ後に李志綏は謎の死を遂げている。そして『「毛沢東の私生活」の真実』という『毛沢東の私生活』に登場する人物からの反論もすぐに発行された。しかし、私は作り上げられた毛沢東像よりもここで書かれた生身の毛沢東という人間の巨大さに圧倒された。ニーチェの言う超人は中国にいたと帯に書かれていたがまさにその通りだった。吉本隆明も『夜と女と毛沢東』という本を書き、『毛沢東の私生活』はもっとも興味深かったと書いている。

 私は1992年の春に中国に行ったが、その時には中国共産党にも、毛沢東にもまるで興味が無かった。毛沢東像も建っていたが、それを見る度に白々しく思ったものだ。しかし、『毛沢東の私生活』から浮かび上がる毛沢東は、『蒼天航路』(王欣太 李學仁(原案) 講談社)で描かれる曹操のように、人並み外れた見識を持ちながらも理想主義の残酷さと現実主義の人間味も併せ持っているという一括りにできない存在だ。(『蒼天航路』の最初でも毛沢東が出てくる。逆に『蒼天航路』の曹操は毛沢東を意識しているようだ。)この人間性は西郷隆盛や石原完爾といった日本人的な人間性とも違う。それは中国という土地の地政学的な特徴から出てくる存在で、日本のような和が通じる社会や、戦後の中産階級による平等な社会からは現れない存在であろう。老子は「大道廃れて仁義あり」と言ったが、毛沢東は中国という矛盾に溢れたところからこそ現れる存在だ。

 私はその後、S・リッテンバーグの『毛沢東に魅せられたアメリカ人』(筑摩書房)、産経新聞社の『毛沢東秘録』を読んだ。毛沢東に批判的に書かれた『毛沢東秘録』でさえ『毛沢東の私生活』で感じた毛沢東の印象が感じられた。

 この『マオ』では徹底的にそれが否定されている。書かれていることは実際事実であろう。そして、ここでの毛沢東のイメージはこの上無く嫌悪されるものだ。ただ、それは外側から捉えられたもので、『実践論』、『矛盾論』のような哲学的な思惟については語られていない。

 これまで語られてきたヒーローとしての毛沢東像は、本著を読んだ結果としては劉少奇、彭徳懐にあったものだったと言える。その意味では天安門広場には毛沢東の絵では無く、劉少奇、彭徳懐の絵を掲げるべきかもしれない。しかし、もし毛沢東がいなかったとして、彼らの政権でソ連から独立した政権となっていたかは疑問だ。彼らは毛沢東ほど強欲では無かったからだ。

 また、私は以前中国には矛盾が溢れていると書いたが、本著を読み、その大部分が毛沢東により引き起こされたものかもしれないとも感じた。ユン・チアン氏は革命前の中国についてそんな矛盾は無くうまく行っていたと語る。日本人から見るとそれでも古来から矛盾を持っていたと思う。そして本著からは意図的に外されている毛沢東像があると思う。それはそれ以前に読んだ毛沢東に関する著作から感じたイメージだ。毛沢東は20世紀でもっとも人命を奪った独裁者に間違い無い。哲学による統治というものが人類にとって災悪にしかならないということもある。(私が思うに哲学者はいつもサディストだ。) それでも毛沢東は私にとって雲の上にいるような捉えきれない存在としてある。


※1 富田事件について
 福本勝清著『中国革命を駆け抜けたアウトロー』(1998中公新書)によるとAB団分子の粛正は党中央の指示の元、全国の紅軍根拠地で行われており、四川省の張国濤の紅軍においても例外ではなく行われたという。(むしろ、都市型革命理論を持つ張国濤はその後も粛正を続けた。)AB団分子の粛正により崩壊した革命根拠地も多数あるという。そのような極左路線はコミンテルンつまりスターリンの指示でもあったという。富田事件が起こる過程は以下のようになる。

@ 毛沢東、朱徳の拠点だった井岡山の客家と江西省土着民の対立。(しかも、朱徳は客家で、江西省土着民としては気が気でなかった。)
A 党中央が毛沢東の軍の基盤である井岡山の客家の土匪を排除するように言っていたこと。
B Aの理由により毛沢東の留守中に江西省土着派の朱長楷が代わりに来た彭徳懐軍を使い、井岡山の客家の土匪、袁文才、王佐を殺害したこと。
C Bにより井岡山の客家と江西省土着民の対立が抜き差しならないものになり、党中央からのAB団分子の粛正要請で土匪や土着民が粛正され、その過程で江西省土着派の李文林を毛沢東が逮捕したこと。

 土匪が多かった紅軍と土着民の対立と党中央からの極左路線の強要。様々な要素が関係してこの事件は発生している。『実践論』において毛沢東はこのような極左教条主義を批判しており、単純に毛沢東のせいとしている『マオ』の記述はやはり問題がある。(H20.09.15追記)

※2 長征と蒋介石について
 産経新聞の『蒋介石日誌』では、アメリカが公表した蒋介石日誌から、ソ連に留学した息子蒋経国のためにこうしたとするこの説を否定。『マオ』は膨大な資料の提示で信憑性を保証しようとするが、やはりそのまま信じるのは危険で相当慎重に読む必要がある。(H19.08.12追記)
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H18.02.12

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