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私は卒論でカスタネダについて書き、『間』という言葉を使用してその世界を分析していった。それに対するゼミの先生からの批判として、マルクス等の唯物論との比較がなされていないことがあげられた。他のゼミでマルクスの『疎外』に関する講義は受け、マルクスの経済学はだめでも哲学としてのマルクスは死んでいないということは教えて頂いていた。結局、私は院に行かずに卒業してしまい、結局資本論については読まないまま今日まできてしまった。しかし、その作業は私がカスタネダを知る契機ともなった中沢新一氏によって進められてきたのだ。 私のカスタネダに対する分析はカスタネダがそうであったようにエスノメソドロジー等の社会学と実存主義の議論だった。集団的リアリティーを表現するのに『間』という言葉を使用した。その集団的リアリティーである『間』の境界線を越えたところ、仏教的に言えばその『間』を塵として振り払ったところにナワール(空)があると論じた。そしてナワール(空)だけでは死の世界であるために自分を作り上げている『間』の集合、トナール(色)が必要だと論じた。ちょうどその頃中沢新一氏は『はじめてのレーニン』(岩波書店)を書いている。レーニンの引き起こしたユートピア実現のために手段を選ばない現象を『無底』から来るものとし、自己や社会の外から来るものをレーニンの唯物論にとっての『物質』とした。それは私の論じたナワールと同じものであり、それ自体の危険性を現すものでもあった。『それでも心をいやしたい人のための精新世界ブックガイド』(太田出版)の対話でそれが広松渉氏の四肢的存立構造がそれもまた観念論でしか無いという批判を示したことが語られている。それは私の論文もまた観念論でしか論じられていないという示唆を与えてくれた。 観念論と唯物論という西洋哲学の議論をまとめ上げたのがカントで、主体−表象−客体という三項図式にまとめ上げられた。広松渉氏はマルクスの物象化という概念をその後の哲学、量子力学、仏教から発展させて四肢的存立構造を提示し、三項図式を批判した。(※1) 広松渉氏はものすごい読書家で彼の著書を理解するにはそのそれぞれも読まなくてはいけなく、とても批判するまでには勉強不足となってしまうが、中沢新一は広松渉が依拠するマルクス主義の立場から批判していく。広松渉が労働の『物象化』それによる『疎外』というところはマルクスから継承し、唯物論自体は切り捨ててしまったが、中沢新一はレーニン主義という哲学自体よりレーニンの起こした革命という現象から、唯物というものを着目したのだ。しかし、『はじめてのレーニン』ではレトリックな表現という域を出ておらず、広松渉批判には足りていなかった。 今回の『緑の資本論』はそこを踏み越えたものだった。広松渉氏の議論はマルクスの時代周辺の哲学およびそれ以降の現代思想の中で展開するものだった。中沢新一氏はそれからさらにさかのぼり、一神教、キリスト教を分析し、その思想背景から現れた資本主義を通し、唯物論であるはずのマルクスがまさにキリスト教の三位一体論に基づいていることを証明した。以前書評を書いた『純粋な自然の贈与』では純粋な自然から現るものが表出する瞬間を新しい想像として肯定的に描きました。しかし、今回は絶対他なる自然を神として一神教的とらえ方をした上で三位一体のように精霊を媒介として現実に立ち現れるもの(『物証化』)とすると、資本の再現ない拡張につながっていくというものでした。語り得ぬものから現れるプシュケ(愛)であることでは両者は共通していても、立ち現れる自然そのものをそのまま享受しているのが純粋なる自然の贈与であり、それを再現なく利潤を拡張できるものとしてしまうと自然からの疎外が起きてしまうという点で異なるのです。それは仏教における空から立ち現れるものを観察してきた中沢氏だからできる資本論の解釈と言えるでしょう。一神教という点で言えば三位一体で精霊による物象化を許すキリスト教に比べ、それを許さないイスラム教は神=自然そのものとなっており、イスラム世界が資本主義を受け入れないことは当然としています。 この本の主題は物象化による疎外についてです。それからは少し話はそれるかもしれませんが、この本から欠けている点をあえて挙げるとすれば、世界の食糧事情という観点です。人間と自然の非対称性が挙げられていますが、ではその中で自然のためなら人間の死を伴う犠牲を払っていいのかという点です。この本ではキリスト教世界とイスラム教世界が描かれていますが、では中国はどうなのか。中国の歴史を見れば疎外化された宮廷による圧倒的な非対称で自然も人間でさえも収奪の対象となっています。一般の人にとっては危機が常にあるので物象化された疎外というものはないかもしれません。しかし、一般の人々も非対称性を持ったらまた収奪するということが中国の歴史です。中国では料理店に入ったら、たくさん品を頼み少しづつ食べてあとは残すのが礼儀です。残さず食べることが礼儀な日本人から見ると驚かされてしまいます。その割には中国自体食料の自給率はあまり高く無いのです。殷の時代には黄河流域には象がいるくらいで、密林地帯だったそうです。しかし、長年による非対称による収奪で今では禿げ山ばかり。また、そのために飢饉や戦乱にはものすごい数の犠牲者が出て自然からの報復も受けるのですが。それをレーニン主義の『無底』に位置づけるのか。あるいは儒教あるいは道教の中で位置づけるのか。是非とも中沢氏にはその点も論じて欲しいです。
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