デービット・P・チャンドラー 『ポルポト伝』


(原題"BROTHER NUMBER ONE") 山崎寛訳 株式会社めこん



ポルポトの近況
 昨年(1997年)のカンボジアはとてもたいへんな年でした。おととし(1996年)のイエン・サリのポルポト派離脱から、ポルポトによるソンセン一家粛正、タ・モクによるポルポトの拘束、フン・センによるラナリットの追放・・・・・。なかでもポルポトの拘束はショッキングなニュースでした。ポルポトは独裁者の中でももっとも謎に満ちた人物で、1979年から公の場に姿を現さず、死亡説まで流れていました。そして、20年ぶりにテレビの前に姿を現すことになったのです。しかも、インタビューまで行われました。そのインタビューを私は読んでいません※が、(誰か持っている方がいらしたら、是非コピーさせて下さい。) 新聞によると、粛正はベトナムのスパイのためだったとか、自分はガンジーに影響されたというような内容を語ったそうです。  この『ポルポト伝』は1992年刊行で、この頃はカンボジア内戦終結に向けた選挙が行われたころでした。この当時の著者は、まさかポルポトがこのような形で公の場に姿を現すとは思ってなかったでしょう。
ポルポトの略歴(政権取得前)
 ポルポトは本名をサロト・サルといい、パリへの留学も行った、裕福な生い立ちです。その留学生活の中で共産主義に影響を受けたようです。帰国後は、教師をする傍ら、ベトミンと接触をし、共産勢力の地下活動をしていました。彼らは後に「クメール・ルージュ(赤いクメール)」と呼ばれるようになります。ポルポトはその中で支配的な地位に上っていきました。その活動のために1963年首都プノンペンを脱出し、カンボジア東部や、ベトナムの基地を行き来していました。。この頃の彼に影響を与えたのは、中国訪問と山岳少数民族との接触でした。彼の政権取得時の農本主義は毛沢東の影響だと思われます。山岳少数民族は原始共産制の見本としてうつり、彼らも共産党の誠実さと思いやりに慕っていたし、ポルポトの方も彼らにユートピアを見たようです。後の知識人虐殺はこの影響と思われます。それと同時にベトナムのクメール・ルージュに対する支配的扱いに、ベトナムへの憎悪を積もらせていきました。1970年、ロン・ノルが、カンボジアのカリスマ的指導者であり、国王であるシアヌークをクーデターで追放すると、各地で政府軍と反政府勢力の激戦が行われ、カンボジア内戦が始まりました。クメール・ルージュその反政府勢力として政府軍との戦闘を開始しました。この内戦は捕虜はみな殺しといった凄惨を極めた戦闘であったようで、ポルポト政権の残虐さはこの内戦でも影響をうけたようです。そして、1976年クメール・ルージュはプノンペンを陥落させ、「民主カンプチア」を設立します。プノンペンの市民は彼らを歓迎しましたが、クメール・ルージュの方は、彼らを最後まで政府軍の味方をした奴らであり、新参者の人民という意味の「新人民」と名付けました。彼らはみなプノンペンを追い出され、農村へ移動されました。
民主カンプチア
 ポルポトは政権につくと、過激な農本主義の政策を打ち出しました。「新人民」達は強制移住の中で何千人もの死者をだしました。そして達成不可能な収穫目標をかかげ、それを達成できなければ、「わざとそうしている」ときめつけ、その幹部、または、人民を「革命の裏切り者」として粛正しました。その強引な政策のもとで人々の多数が飢え死に、または、病気で死んでいきました。また、インテリの処刑もポルポト政権の特徴で、彼らは、「革新と称して、情報収集のため革命に侵入した連中」として粛正されていきました。また、ポルポトは政権獲得後、ベトナムとは対決姿勢を打ち出し、何度も国境を侵犯しまいした。そして、ベトナムに関係する者はスパイとして、また、粛正されていきました。それらの粛正はポルポトの友人やクメール・ルージュの幹部にまでおこなわれました。  ポルポトは、公衆の前にほとんど姿を現さず、ただ、"BROTHER NUMBER ONE"と言われていているだけで、自分の素性は(サロト・サルという本名さえも)ほとんど明かしませんでした。それを侵犯するものは容赦なく粛正されました。例えば、ポルポト邸の停電だけでも、その係が粛正されたのです。  その政権も、1979年、度重なる領土侵犯に耐えかねたベトナムの侵攻により倒れました。しかし、ポルポト等クメール・ルージュはタイ国境や、タ・モクが支配してきて、割合支持もあった西南部に逃げ込みました。その後、クメールルージュの勢力は、ベトナムの進出を嫌うタイや、反ベトナムの中国、アメリカの近年までの援助で、今日まで生き延びてきた訳です。
ポルポトの人間的実像
 彼はその政権時代の残虐性から、「まんまる顔の怪物」「大量虐殺マニア」「ヒトラー以上の悪人」と言われてようです。しかし、本書ではこれではポルポトを説明しきれないと述べられています。なぜなら、彼の政権の残虐さを受けた後でも、彼を知る人物は、それととても結び着かない彼の印象を語るからです。子供時代は「心やさしく、落ち着いた子供」、学生時代は「愉快な仲間」、教師の時代は「静かで、自身に満ちて人当たりがよく、信頼できる人物」または、「会ったとたん、彼と生涯の友達になれると思った。」とまで言われていたそうです。実際、私が彼の写真を見ていても、そのような「いい人」の印象が感じられます。特にここでも載せたこの本の表紙の写真は「やさしくて思いやりのありそうな田舎のおじさん」「カスタネダのドン・ファン」という印象で、大量虐殺を行った独裁者にはとても思えません。本書の著者も、これをポルポトの仮面とし、本当の悪魔的素顔を探そうとしたのだが、みつからなかったことを告白しているのです。では、はじめのポルポトはそのような聖人のような人物で、だんだん堕落していったのかという考え方もあります。しかし、私は政権が奪われた時のポルポトの写真も見ましたが、そこでもかれは「憎めない笑顔」をしていたのです。
日常での「いい人」は政治でも「いい人」か
 私はポルポトは政権さえとらなければ、このまま善人として一生を終えた人物だと思います。そして、現実に彼は最後までそのような人物として一貫性を持っていたのだと思います。そのミクロな面の善人性の延長として、この政権の大虐殺が起きたと見るべきなのです。よく犯罪などは、それを起こす前は善人として語られていたのに犯罪を起こした後で、悪魔的面のあら探しが始まります。でも、そのほとんどはみんなが持っている面だと思います。そうしたあら探しでみつかったもので解決してしまうのは、事後処理でしかなく、本当の解決にはならないのです。特にポルポトのような潔癖な人間になるとそれは不可能になるでしょう。
潔癖な理想主義
 ポルポトは最後まで憎めない笑顔に描いたユートピアを追求してきたのだと思います。彼の文明を否定するがごとくの農本主義は、一時期の科学文明批判をするエコロジストの理想と近いと思いませんか。また、知識人の否定は老子の思想にまさに一致するものだと思えます。科学文明を止めて、原始社会に戻ると言うだけなら簡単ですが、実際の政治的現場でそれを断固実行しようとするならば、どのような手段をとればいいのでしょうか。ポルポトが取った方法以外ではたして現実にできるのでしょうか。エコロジストの言うことは犯罪にはならなく、彼らは善人なのです。しかし、それに手段を考え、それを実行するとなると様々な悲劇が起こるでしょう。そして、人々の不満はそれを行った人間に対して向けられるでしょう。しかし、その人間が死んでは、彼のユートピアは実現できないのです。その体制を維持し続けるためには、何が必要でしょうか。妥協して人々の不満を和らげるか、それともその不満を力尽くで抑えるかでしょう。前者は普通のやり方です。でも、ユートピアを現実化はできないでしょう。ユートピアだけしか見えない人間は後者のやり方をとるのです。  ポルポトは、最近の拘束後のインタビューで、自分はけして良心に恥じるようなことはしていないと語ったそうです。そうです。彼の良心の中では、彼のしたことは自分のためではなく、良心に従ってこの虐殺を行ったのです。そして、多くの理想主義者の良心の中でも・・・・

H10.02.08




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