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原作はひたすら家族は理解することなく、父はわかっていても家庭の幻想を押しつけるしかなく、娘はそして自滅するように死んでいく父にわかっていても涼しい笑顔を送って、悲しみよりも開放感の方が大きかったことを隠せないまま終わり、「ありがとう」という言葉の空虚感を底なしまで掘り下げるものであった。しかし、映画の方は原作を見ている人間に底なしのマイナスとは違った、新たな境地を与えるものとして仕上がっている。 昨日、レンタルビデオ屋に行くと、店長らしき人がバイトに怒っていた。店長は昔いじめられていたか、今もどこかでいじめられていそうな人だった。バイトへの怒りは必要以上のものに見えた。バイトは茶髪の今時の若者だ。でも、一生懸命やっている感じだ。しかし、店長にはバイトを自分をいじめた人間と同じタイプの人間にしか見えないような感じだ。まだ、自分がいじめを受けている。被害者になっているという考えから抜け切れていないようだ。 原作者 山本直樹の漫画には、最新の作品である「ビリーバーズ」も含めて、全ての人に対する猜疑心がうかがえる。そういう人々の目はみんなうつろに描かれる。そんな自分の目こそ、周囲から見ればうつろに見える。父は作者自身なのか、それとも作者の父なのか。妹の方の娘、貴子に彼女自身を理解することなく、押しつける自分がやさしい父親なんだと見せつける目はうつろだ。父は自分が主である家庭の外全てに対する猜疑心とともに、その固く閉ざした理解の中で自分を追いつめ、姉の方の娘 昌子を輪姦した相手に復讐もできない自分を誤魔化す。 映画の方の父は輪姦された昌子としていることを想像してオナニーし、自分の家庭観とのコンプレックスでより、よけい家庭に執着し、娘にしてやろうとすることが裏目にでばかりの点では、原作の父と変わらない。しかし、もう、貴子も自分から去り、家庭から自分が見放されたと思った時、ついに昌子を輪姦したグループのリーダーであるカクマに復讐することになる。その家に乗り込み、娘を犯された代わりに、その母親を犯してやろうとした時、実はカクマは普通の女では勃たず、愛情を押しつけることに反抗してきた母親でしか勃たないことが分かる。すると、カクマに母親とやらせてしまう。カクマは「もうだめだ」とこれ以上は無いというほどの惨めさで言う。父は相手の全てを奪い尽くした。今まで、視線が一点しか見えなかった父は、自分以上に惨めな自分の抑圧者を見て、原作の方の父が見えなかったものが見えるようになる。自分の押しつける「普通の」家庭がどこにも無いこと。その幻想の元で病んでいた人間が自分を抑圧したこと。縛る人間と縛られる人間が同じであることを理解したのだ。 最後、父は死ぬのではなく、ベトナムに出張に行くという設定になっていた。家族も連れていこうとしたが、家族はみんなそれを断ってしまう。一人で寂しくトランクを引きずる父に、原作でも映画でも一番まともだった貴子が、学校を早退して見送りに来た。そこで言う「ありがとう」という言葉は乾いていても、暖かいものだった。お互いを阻んでいた幻想の壁をやっと越えられた言葉だった。 |