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気になってはいたのですが結局映画館では見ませんでした。今回、レンタルDVDで見て映画館で見なかったことを後悔しました。これはすごすぎる。
予告通り村の間取を線でひかれただけのコンクリートで撮影される。この村はロッキー山脈の麓の隔離された村という設定。いつになったら線で引かれただけという舞台が変わるのかとも思ったが最後までそのまま。意外に山に住む人って山には登らないものなのです。山に住む人は山は閉塞の象徴。登山者というものは意外と都会から来るものなのです。そこの閉塞された人間関係を描くにはこの撮影技法は合っているかもしれない。演劇論の「異化」とかではなく、ここでロッキー山脈の「素晴らしい自然」とか見せてしまうと閉塞感は伝わってこないだろう。それは都会からの目としてあるからだ。ラース・フォン・トリアー監督の前作「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の振動するカメラワークは見ていて疲れてしまったが、今回は最初違和感を感じたものの入り込んでしまった。 この閉塞した村に贈り物のような都会の美女がやってくる。彼女は今までの環境と違うこの地を理想郷のように受け止め、聖女のように村の人々に触れる。村の人々は閉塞した村への贈り物の恩恵を最初は喜び受け止める。最初は全てがうまく回っていくかのように見えたが、彼女は村の閉塞社会の穴でもあった。閉塞して素朴に回っていた村の歯車は彼女が聖女であるが故にもつれていき、欲望に対して抵抗力の無い村人の弱さを暴いていく。そしてより醜くく回っていく。そしてここは彼女の牢獄と化していく。 この作品はアメリカを描いた作品とされているが、私が思い描いたのがポルポトや連合赤軍、女子高生コンクリ殺人事件、コロンブスとインディアンだった。閉塞して弱い社会は一見素朴な理想郷のように見えるが、中身は都会の社会から見るとドロドロの人間関係だったりする。都会の社会ならばいやならば止めることができるがこのような社会ではそれができない。全ては知っている人だけの社会だからだ。そういう社会では何か一つ歯車が狂うとその社会全体がおかしくなってしまうことがる。人は弱い。表面的なつきあいだけならば自分のいいところだけを見せれるだろう。しかし、いつかは弱い部分も見せなくてはならない。そこまでを共有できるならば真実の友情や愛と言えるだろう。そこまで耐えられるならばそれはそれで強いと言えるだろう。しかし、知っている人だけの閉塞された社会の中では表と裏が無い。弱い部分はごく親しい人だけで共有していればいいかもしれない。しかしながらそのような社会ではそれも表に出てしまう。閉塞された社会の中では表と裏が無いだけ弱さも社会を回す歯車となる。弱さで回った歯車はどんなに醜く回ることも、どんなに残酷に回ることもできるのだ。子供という弱い生き物は表も裏も無い。だからいじめは起きる。大人は表と裏がある。だから表だけでも生きれる。しかし、裏も隠し持っているだけで環境によってはその裏も社会と成りえてしまうのだ。それ故に理想社会は過去の伝承にしかなく、理想は社会を回転させる歯車ではあるがそれが絶対的なものになった試しはない。 最後に彼女はギャングの娘であることが分かる。詳細はわからないが父の権力に嫌気がさしたらしい。しかし、最後彼女は聖女の贈り物を授けたのに自分を組織的に陵辱した醜く弱き村を消し去る。最後まで自分のことしか考えないおびえて苔むした目だった。最初はこの弱き目に愛を授けようと思ったが、村自体が苔むしているので自分までそうなってしまう。彼女はそう思った。ここにいても弱い人間を増やしてしまうだけになってしまう。彼女は彼女の父が言うように傲慢だった。ここにいることによって自分に芽生えた弱さを殺すために彼女は村人に復讐をした。 この映画は私の一番弱かった部分を突き刺した。そして人の弱さを浴び続け、自分もその弱さそのものになるという経験をなぞらえ、そして彼女の傲慢を憎んだ。それはこの閉塞した村と反比例して私の弱さの清涼剤だった。私の一番弱かった部分、それを中心に醜く回っていた痛みが少し和らいだ。彼女に殺された彼女を裏切った恋人ビルのように結論が出るのは遅すぎたかもしれない。しかし、行動をしなければ結論は出ないし、抱え持っている弱さは克服できないだろう。社会の裏側の弱い掃除屋達は醜さを醜く掃除していく。日本が不況でありながらもなおも先進国でいられるのは掃除屋がいるからだ。それゆえに他の国ではありえないほどの自殺者がいる。いっそのこと全てをやめてしまうか。社会主義になり醜く閉塞的に回り続けるか。それは日本の国粋主義者が許さないだろう。それゆえに日本はむしろ血を渇望して鮮血の先進国であり続ける。帝国主義はその鮮血を国外に吐くことだ。 |