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天安門事件から10年たったという。でも、私にとってはつい最近の出来事に思える。あの頃の自分との距離をあまり感じないのだ。あの頃を私の時間に当てはめたら、高校3年生だ。高校の時からずっとつるんでいる友人達と一緒にいるとあの時からの変化が感じられないのだ。でも、ニュースステーション(6月4日放送)で今の天安門の指導者達を見てみるとあの頃と比べ随分老けている。 私はあの頃学生運動にものすごく興味があった。だから、あの運動には自分を駆り立てられる想いを感じていた。社会の先生は、人民解放軍は決して人民に手を出すことは無いと語っていた。それは数ヶ月後見事裏切られた。その頃、共産主義よりもその修正主義の方がいいと感じていた。まさに中国はその方向に進んでいた。その希望が一気に壊れた。 しかし、私はその頃、天安門広場での運動の経緯はよくわかって無かった。その事件の2年後私は中国へ行った。大抵の車は毛沢東のキーホルダーを付けていた。毛沢東の歌のポップス版のカセットがかなり売れていた。なんで体制側の人間がここまでもてはやされているのかと不思議に思っていたが、毛沢東は文化大革命との関連から学生運動のシンボルとして受け入れられいたのかもしれない。その時のトウ小平体制が批判することができない形での、屈折した暗黙の抗議だったのかもしれない。映画で見てわかったことだが、毛沢東の肖像にペンキを塗った人は学生達の手で捕まり、公安に送られたという。また、大学で中国語の講義をしていた先生はあの6月4日に天安門広場にいたという。その群衆の真ん中辺は意外にもそれほど恐ろしい場所でもなく、群衆にそのままついていけば命の危険は無かったらしい。 天安門広場の「司令官」だった柴玲は私より7つ年上だ。会社の仲のいい上司にはそれ位の人が多い。ともかく、私と近い世代でこの事件は起きたのだ。その当時の彼女は23歳、とてもか細い感じの女性だ。映画の中の彼女の声はそんなか細い体で運動を指揮している悲鳴に近いものに聞こえた。「でも(ハンストに)反対するものがいた。彼らは日和見主義者です。」「北京大学の動きに呼応して、学生が戻り始めました。戻るべきか否かの論争に時間を浪費し、私は苛立ちました。」「(天安門広場からの解散決定についての)集会の真の目的は売名だった。」「私たちは民主化を達成し、国民は科学で国を立て直すと信じてたけど、この非人道的政府を倒すまで、この国には何の希望もありません。」「目指すは流血だって誰が言えます。」「(あなたは広場に残りたいかの質問に答えて)いいえ。私は司令官でブラックリストに載っているから。政府に殺されたくはありません。私は生きたい。人は私を自己本位だと言うかもしれない。でも誰かが私に続いてくれる。民主化運動は一人ではできません。」 最初は民主化の要求だけだったものから、運動それ自体が目的となっていく過程が見られる。運動のために趙紫陽らの改革派が失脚していった後でもそうだった。現実に目を向けていた学生指揮者はもうやばくなっていることを感じていた。柴玲が運動の解散を最後まで拒んだ最大の理由は、それが彼女を縛り付けているものであるとともに、か細い彼女を世界とつないでいる、生涯最大のものであったからだと思う。それを失うことが許せなかったのだと思う。そして、東京にいた私も、この運動による世界とのつながりをうらやましく見ていたのだ。 また、人間、自分の力量以上のことが押し迫ると現実を見ることをやめてしまい、ひたすら個の中の、自分のその少しでもつないでいるものに執着するのものだと思う。「開かれた意志決定システムを求めたが、一般学生に意見を表明する方法はなかった。指導部は権力維持しか頭にない。」 この運動が政府を倒すことが成功したとしても、民主的な安定した政権が作れることはまず無かったと思える。エリツィンのロシアのようになっていたか、あるいはそこまでも行けたかどうかわからない。彼らは民主派知識人を結局信用しなかった。柴玲の自分の敵に対する言葉は文革時の江青の言葉のようにも聞こえる。現在、柴玲はインターネット関連の会社をやっているという。当時のか細い面影は無く、顔が随分丸くなっていた。 最後に、この映画やこの映画に対する論評を見ると、亡命先となった欧米諸国の方がこの事件の認識が進んでいることがわかる。日本はこの国のすぐ側なのに蚊帳の外のようだ。 H11.06.04 |