シュウシュウの季節

1998/アメリカ/監督:陳冲(ジョアン・チェン)


 中国映画かと思ったら制作はアメリカ。映画は80年代以前の中国映画の空気が濃い。しかし、制作は90年代末だ。80年代の中国映画に当時の中国では描けなかった惨たらしい売春シーンが描かれるといった感じだ。監督は『ラストエンペラー』の皇后役、陳冲。アメリカ映画の臭いを一切消し去り、中国の空気の中で中国のタブーをここまで描けたことがものすごい。

 舞台は文革末期の紅衛兵の下放が行われた時代。四川省の省都、成都に住む文秀(シュウシュウ)は下放でチベットに送られる。そこからさらに、大草原の人里離れた所で放牧を行う老金(ラオジン)という一人者のチベット人のところに行かされる。半年後に戻れる約束だったが、使いは来ない。成都に帰りたい一心から、男に触れることさえ嫌がる潔癖な少女が、行商人に騙され、帰る許可証を得るために次々と男に抱かれていく。

 文秀を演じるのは李小路("路"は辺に王が付くがコードがないので"路"にします。)。彼女は『関於愛 アバウト・ラブ』(2005年 中国)に出演していて、その清純さにすっかり魅了されてしまっていた。それがさらに幼い少女の彼女がここまでされてしまい、妖しい眼光を放つ女に変わっていく姿には度肝を抜かれてしまった。

 成都や中国の様子は私が92年に訪れた成都の空気をよく出していた。赤い顔した少女達、くたびれても素朴に楽しもうとする男達。それは私が中国で見た景色だ。美化やハリウッド映画にありがちな作られた感じがしなかった。まあ、私が行った時でさえ、駅前に布団を持ち込んで寝て列車を待つ貧しい家族、列車の下をくぐって列車に乗り込む人々、弁当の発泡スチロールを拾い集め生活の足しにする人々、等、視点を変えればむごい光景が広がっていた。文革末期の時代はもっとひどかったのだろう。共産党のスローガンの下、いくら精神を鍛えていったところで、欲求不満の掃溜めは醜い方向に流れていく。むしろ、行われた下放のような政策に掃溜めは巣食らう。いいかげんな下放された若者達の管理、そこに巣食らう利権。共産党の説く倫理観の下で抑圧された掃溜めはやはり妖しい色で光っていた。

 ここで思い出したのがアフガン戦争の時、週刊新潮で掲載された『私は北部同盟の慰安婦として強制連行された』(平成13年12月27日号 インド人ジャーナリスト ウマラ・アジズ氏が取材)という記事だ。アフガン北部マジャリシャリフ(ウズベク人の拠点)に住むパシュトゥン人女性がソ連軍撤退後の軍閥の群雄割拠状態の時代に後に北部同盟を形成した一派ドスダム派(ウズベク人系)の兵士に拉致され、レイプされて人生を変えられてしまったというものだ。彼女は大学生で、イスラム社会の中ではジーンズ、ハイヒールを履いた先進国的な生活をしていた。それがこの事件の後、今度はハザラ人系のイスラム統一党の司令官に捕まりレイプされ、慰安婦生活を送り、解放された後も生活のため、売春婦になるしかなかったという。禁欲的なイメージに見えるムジャヒディン達も裏を返せばこの現状だ。パシュトゥン人である彼女は、タリバンはレイプをしたという話はほとんど聞かないと語っていたが、現状は老子の言うとおり「大道廃れて仁義あり」であり、大義や仁義を説けば説くほど、そこには道に外れた裏の部分が隠れている。

 女性監督である陳冲はいったいこの現状をどう見ているのか。女としての目覚めの仕方と見るのか。私にとっても、文秀が抱かれるシーンは、やりきれなさとともに快楽が同居している。その現状を正そうと思えば思うほど、フェティシズムは妖しい色を放つのだ。最後、妊娠して許可証のために体を許していたことがばれてしまった文秀と、文秀に男女としてでは無く純粋さで接していた老金は死を選ぶ。その時、文秀は女として解き放たれた髪を結い、首に赤いスカーフをまく。陳冲としても女としての目覚めとむごたしい現状とそれがある上での純潔、全てにおいて佇んでいるのだろう。

H18.06.18

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