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『虹色のトロツキー』 安彦良和 潮出版社 1992-1997
この著作は7年ほど前から私が読みたくてしょうがなかったものだった。でも、なんだかんだと読まず、つい2,3ヶ月前やっと一気に読んでしまった。満州。私のいまだに尊敬する祖父が働いていた場所。大日本帝国の幻想と恥辱の場所。中国人が侵略者を追い出した抗日の場所。そこで繰り広げられる物語。モンゴルと日本の血を引く主人公の葛藤の物語。 この著作を読んで初めて知り、かつ驚かされたのが石原完爾が満州に設立した建国大学にトロツキーとガンジーを教授として招こうとしていた事実だ。ひたすら天皇イデオロギーの下、官憲で支配されていると思われた当時の日本、そして満州においてそんな自由な空気があったことに驚かされた。そして帝国主義の侵略者と思ってきた石原完爾に対する見方が随分変わった。この著作で描かれる石原完爾をそのまま信用できるかどうかはわからないが、共産主義者の理論家で赤軍の設立者であるトロツキーが建国大学の招待リストに入っていた事実は動かせない。そして、満州事変について国際連盟で問題になった時、石原完爾は中国服で行った。新しい国が日本だけのものではないことを示すためだろう。天皇制イデオロギーの枠だけで捉えられない人物だ。 実際、日本が満州でしたきたことは731部隊や平頂山事件をはじめ、残虐の限りだ。兵糧が不足した時、満州人を殺して食べたことまであったとも言われている。しかし、満州国に独善的な天皇イデオロギーとその謀略以外に理想は少ないながらあったと思われる。 この著作で描かれる建国大学馬小屋の学生籠城事件は実際あったという。新天地の希望を持って建国大学に入った学生は、日本人による現地の人々に対する迫害を見て愕然し、建国大学の馬小屋に立て籠もったというものだ。当時の学生運動みたいなものだったのだろう。そこでは、中国人でも朝鮮人でもロシア人でも仲間であったという。満州事変で出征し「侵略」をした後、建国大学の教官になった辻権作はそれに理解をしめしたという。 この理想と現実の狭間はなんだろうか。それは戦後の日本、そして左翼運動にさえつながってくるもののような気がする。そして、毛沢東の大躍進、チベット弾圧にもつながってくる問題のような気がする。 日本の植民地形態を欧米の植民地形態と比較すると以下のようなものが見えてくるという。欧米人は現地の人々を自分達と同じにせず、その風俗、習慣、宗教には干渉せずに搾取のみをするという。それに対して日本人は現地の人々と同じ釜の飯を食おうという態度で望み、現地の人々に日本人化をすすめるのだという。(※1)どちらがいいと言われたら日本人はやはり後者だと今でも思うのではないか。日本は朝鮮半島に学校制度を普及させたが、それとともに日本語と日本人氏名の強要をした。それが朝鮮民族の誇りに傷をつけ怒りを今でも買っている。民族や文化に対する迫害は搾取や差別よりも重かったのだ。そして同じ間違いを中国もまたチベットに対して行っている。 中華人民共和国設立当初、毛沢東も中国共産党も理想に燃えていた。満州国皇帝溥儀は捕まった後、本人もまた処刑されるものとばかり思っていた。しかし、中国共産党はそれを行わず、労働改造所で矯正を行った。皇帝生活で虚栄心ばかり高くなり、自らの人間性を縛っている物がそれであることも気づけなかった溥儀はその矯正によりそれを脱した。釈放後、彼は結婚をし、皇帝生活の中ではうまくいかなかった結婚生活の幸せをかみしめて、新中国に感謝をしていた。日本兵の戦犯達もそうだった。看守達は一日二食だったが、彼らには一日三食与えられた。 人民解放軍は1950年チベットに侵攻し、チベットはその防衛権を中国に渡した。当初の中国共産党の支配は理想があった。誰でも入れる無料の病院を作り、人民解放軍が土地を開墾したりもした。兵士達も仏教徒達に敬意をしめした。孤児を引き取り、食料の配給もした。ダライ・ラマは当時の中国とチベットは現在の中国と香港のように一国二制度の関係にあった語っている。しかし、その中には気持ちの行き違いもあった。中国人はチベット人の伝統食物である大麦を嫌い米を配給で送ってきた。そして共産主義の無階級社会のイデオロギーと、仏教国であり僧侶を崇拝する社会の間では亀裂があった。それでも、中国共産党は無理にその社会を破壊しようとせず、毛沢東もゆっくりやればいいと言った。それが変わってきたのが1956年の反右派運動が起こってきたあたりだ。支配階級である僧侶が弾圧され、農業の集団化が進められた。それに伴い暴動が起きた。無料の病院は人民解放軍用の病院へと変わった。多くのチベット人が労働改造所に送られた。寺院の解体によりその財宝は接収された。そして1959年の大躍進政策が失敗し、全中国で大飢饉が起きた。チベットの労働改造所にはほとんど食料が回らず、残虐な収容所へと変わった。民族自治という理想は地に落ちたのだ。(※2) このように日本が犯した間違いを中国も犯している。それでも平等という理想は中国共産党の方が強かった。日本の方が侵略の野心が強かった。それでも、失敗してしまうのだ。日本人は善意は強いが、他文化に対する理解というものが欠けている。島国で自分達以外出会わないために、自分達のなあなあの考え方が世界にも通用すると思っている。それは今でも変わらない。中国共産党の場合は異文化に対する理解はあったが、イデオロギーがそれを邪魔をした。どちらにしても、その亀裂が恐ろしい残虐さを生み出すのだ。特にまじめで従順な人々ほど一度壊れるとたちが悪い。その亀裂を新しい解釈の源と考えず憎悪で置き換えてしまうからだ。そういう意味では石原完爾は頭が良かった。しかし、日本人はそういう人々が主流ではなく、島国根性により集まる人々が多かったのだ。 戦後、吉本隆明をはじめ、軍国少年だった人々は左翼運動に身を投じる。戦前の反動といえばそれまでだが、私にはそこには一本に通じた道があるように思える。戦前もまた理想や善意はあったのであり、大日本帝国崩壊によりそれが左翼運動に形を変えただけなのだろうと思う。学生運動は高い理想を掲げたが、内ゲバがはじまり自滅していった。それは島国根性の理想であった。それであればまだ民族主義の方が良かったかもしれない。しかし、戦いの場をアラブに移した日本赤軍は新しいものを発見した。アラブでは日常生活の中に戦いがある。日本にように大学という日常社会とは離れた場所ではなかった。そして、自らの文化の中で生きることの大切さを学んだ。自分達ではあたりまえの世界は他の世界でも当たり前では無い。自分達の文化だけで作られた客観的なものは自分達の世界だけで客観的であって、必ずしもすべての世界でも客観的ではない。自分達の善意は異文化では迫害となってしまうこともある。『虹色のトロツキー』の最後の方で、野田少尉の無情さに主人公が怒りを覚え銃に手をかける。結局引き金は引かなかったが、その後野田少尉が負傷し運ばれる中で主人公に語りかける。その銃に手をかけた時のことを「おまえも日本人だな。しかしそれは大陸では通用しない。」 気持ちもまた、すべての異文化で通じるわけではない。特に異文化が隣り合って常にぶつかっている大陸ではそうだ。時には非情が必要となるときもある。(この部分はフィクションなのでここで野田少尉を評することはできない) 以前のTBS「ここがへんだよ日本人」で私は知識がなくても笑顔だけで世界に通用する、もう過去のこと言うのはよそう、未来だけを見ようという若者の発言があったが、日本人は結局まだ変わっていないのだ。それでも日本だけでやっていけるのならいいのだが。戸締まりをしなくても泥棒が入らなかった時代に郷愁を感じる声があるが、それなら日本はまだ世界に出ない方がいい。 |