『ゼブラーマン』 山田玲司 宮藤官九郎(原作) 小学館



 山田玲司氏の最高傑作は『ストリッパー』と言われているが、ゴダールや村上龍が理解できない私には『ストリッパー』は理解できなかった。ゴダールで唯一好きだったのが『ワンプラスワン』で、私の場合どうも政治的になってしまう。私の中では山田玲司氏の最高傑作と言えるのがこの『ゼブラーマン』だ。

 宮藤官九郎氏の映画とのタイアップの作品となっているが原作を追いつつも斬り込み口がまったく違っている。映画ではヒーロー物へのノスタルジーに主眼が置かれているが、漫画では今の時代の現実に対しての斬り込みとなっている。(『蒼天候路』もクロニカル版が出て、李學仁氏の原文が載っているが随分と異なっている。李學仁氏が亡くなっても勢いが落ちないのはそのためか。)

 いい大人が昔のマイナーヒーローオタク。その現実は映画漫画両者とも変わらない。それを映画では笑いとあたたかさで包み込む。だから最後はゼブラーマンは空を飛ぶし、最後の敵は宇宙人だ。漫画版ではゼブラーマンは空を飛ばないし、最後の敵も現実から生まれたものだ。漫画版の主人公を取り囲む環境は恐ろしい程寒々している。娘はプチ家出、それをしかりもせず公然と不倫する妻、いじめに合う息子、主人公が教師をする教室は学級崩壊。映画版でもある程度うだつがあがらない教師というように設定されているがここまでひどくない。主人公のだらしのなさと時代から生まれたこの一つ一つに怪人がいて、そのそれぞれに白黒つけていくという形で物語が進み、主人公の成長を描いていく。

 映画版ではそれぞれの怪人をヒーローらしく倒していくが、漫画版では「間違える人はさびしい人だ」という言葉の元にその怪人の犯罪の背景を包み込み解放していく。映画版では最後の敵は宇宙人グレイ。漫画版では『ストリッパー』の最初の光景でも出てきたグレイ(灰色)の景色だ。本当の自分は別のところにあると信じ、なんの決着もつけずにあいまいにしてきた世界のことだ。全共闘は上の世代で終わり、自分探しからオカルトや宗教ブームがおとずれ、オウム真理教で最後の破滅を見たメルヘンの時代を経験してきた筆者ならではの発想だ。私もその頃「現実は足下にしかない」という詩を書いていた。

 巻数が限定されていたためか最後は突っ走った感じで短くなってしまっていたが、最後の敵は自分の上司、教頭だった。しかもその人はゼブラーマンの話題をネットで共有してきて、主人公が師匠と呼ぶ人だった。つまり、『こことは違う本当の自分』というメルヘンの世界は職場の上司という現実と直結していたのだ。その教頭も対面上は事勿れ主義。しかし裏では全共闘を経て、グレイの世界に幻滅し、快楽、復讐、理想主義の犯罪者を放っていく。主人公は娘、妻、息子という自分の周りを解決していくことでそれを克服していく。そして最後は社会に向き合う。

 孔子は家をおさめ、郷土をおさめ、国をおさめ、そして世界に向き合うことを仁の心だと言った。(重信房子の父も娘の運動をコスモポリタンではだめだとたしなめたという。) 一時期それはマルクス主義的な平等やキリスト教的博愛主義の観点から、封建主義な差別や、癒着の温床といった否定的対象とされた。家族を解体せよと叫ばれた時代もあった。それをやった結果どうだろう。大家族は破壊され、小家族となり、小家族も破壊され、個人はメルヘンの世界での連帯を求めるか、引きこもるしかなくなった。それを短期間にやったのがポルポトだ。ゼブラーマンの最後の敵は教頭だったが、その教頭が最後に起こそうとしたのが子供を裏口入学させようとする親へのテロだった。子供を拉致し、親を脅迫させる映像はザルカウィ一派の脅迫映像のように描かれている。

 少し前に現実に戻ろうという空気になり、それが今の「保守」の空気になっている。私の大学時代でも芸術は破壊だと言われた。戦後は『ポストモダン』という言葉がもてはやされ、ずっと破壊の時代だった。それが建設に変わるのであればいいことだろう。しかし、今の「保守」も直接国にすがろうとするアイデンテティで『こことは違う本当の自分』が形を変えただけに思える。そしてさらに国家単位でのオウム事件を起こす可能性で危険はさらに増しているようだ。グレイの世界を終わらしたいならば孔子まで遡り、そこからアジアの歴史、明治から敗戦、戦後民主主義、全共闘、オウム真理教まで白黒つけていかなければならないだろう。


H17.1.3

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