重信メイさんの小学校授業について



 先月(2001年12月)、神奈川県藤沢市の小学校で元日本赤軍リーダー重信房子の長女、重信メイさんが同校の教諭に呼ばれ授業が行われた。それに対してイスラエル大使館が今月23日同校校長に抗議し、市教委は校長とその教諭に処分を検討、市議や県議でも追及すると1月23日産経新聞は報じた。

 イスラエル大使館の抗議文は「当事者を愚弄する間違った教え方で、(重信メイさんの)日ごろの言動や政治性から慎重に対処すべきだった。甚だ遺憾」とのこと(産経新聞から引用)。教育の場への最近の他国からの抗議としては日本の教科書に対する韓国、中国からの抗議がある。修正要求の箇所はたしかに変なところもあったが、近現代史に関しての要求は正しいものであったと思う。これは抗議を受けたからとか修正要求に則って修正するのではなく、日本人自身で修正すべきところは修正すべきであったと思う。さて、今回の抗議ですが、パレスチナ側から見たパレスチナ問題というものは教育の場にも必要である。いったい何人のパレスチナ人がイスラエルに虐殺されたことか。もちろん、これはチベット、新疆ウイグル自治区、台湾の問題にも同様に言えることだ。これはなんとも傲慢な抗議だが、イスラエルの立場からすればそれはそれで仕方がないことかもしれない。問題はそれに対する日本の対応だ。

 これは授業後の市民の抗議から発覚したらしい。最近のなんとも保守的風潮がうかがえるがそれはそれでいい。意見があるのはいいことだ。それがイスラエルの抗議があると血相変えて、市教委から市議、県議まで押さえ込もうとすることはどういうことだろうか。何故、教科書問題の時のように日本の教育の主張を言わないのだろうか。  日本赤軍の功罪については別に書いたのでここではあえて論じない。しかし、重信メイさんは娘であり、日本赤軍の罪の部分を負わせることはできない。言動に問題がるというがそれは一つの市民の主張である。それを日本側まで押さえ込もうとするのはいったいどういうことだろう。

 「言論表現の自由」という言葉は私はあまり好きな言葉では無い。ポルノや人のプライバシーをなんとも思わない人々がよく使う言葉だからだ。このような愚民的な主張ばかりに「言論表現の自由」が持ち上げられる。そして、その道徳はどんどん切り崩されてきた。道徳が無ければ対概念としてのサブカルチャーも無いし、気概のある言動も光らないというのに。それに目をつむっておきながら、激しい世界の中で生きてきた重信メイさんの主張を教育の場に入れることを拒むとはどういうことだろうか。オスロ合意に応じたラビン首相がイスラエル右派に殺害されてから、泥沼に入り込んだパレスチナ問題。それに教育の場で目を向けることが何が悪いのか。

 全ては道徳が崩壊し、何もかもが骨抜きにされている日本の現状が見えてくる。その中で重信メイさんを呼んだ教諭はその年齢ゆえか気概がある。イギリスやアメリカでさえ、パレスチナ問題には目を向けている。日本はいったいどういうことだろう。アメリカのテロ事件からアフガニスタン空爆までの間、アメリカはかって敵対していたイランとの関係修復に乗り出した。イランに窓口を多く持つ日本政府としては国際的に活躍する絶好のチャンスだったのに結局御破算になってしまった。日本を問う問題として、この騒ぎで起こった事は風化さえてはならないだろう。

H14.01.24

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