Gambetta 1999年 7月24日
インスタレーション 10792512(コウソク)
シャーマニズムのことを考えなくなって、しばらく経つ。大学の頃は、西洋哲学以外の思想を求めるうちに、東洋思想、シャーマニズムへと関心が移っていった。就職してからも仕事がどうしようもなく暇だった頃は、まだ関心があったが、それなりにやりがいを持てる仕事をするようになってからは、考えなくなっていた。シャーマニズムに関心を持つ時は、現状に不満を持っているという時で、世界的に見てもシャーマニズムが現れるのは社会の周辺なのだ。
ロックも社会の周辺から現れた。それがある意味の王道になると、パンクロック等が原点に立ち戻り、周辺の声を叫んだ。それはシャーマニズム的な叫びだった。そこから、さらに周辺に向かう動き、またはそこからさらに逸脱した周辺がシャーマニズムそのものに近づこうとしている。Gambettaというところは、想像以上に「ライブハウス」から逸脱していた。4.8×4.7mというものすごい狭いスペース。床、壁、天井全てコンクリートむき出しのままのただの地下室だった。かって洞窟の中で行われた地下儀式という感じだ。天井からは無数の赤いリボンが垂れ下がり、中央には怪しいオブジェ、線香の臭い、そして、エフェクタやテルミン等の機械。普通のライブハウスのように自分の場所を持つということが限りなく否定される。
そして、山安籠のライブが始まる。以前お経を聞いた時、これはプログレシッブロックだと思ったことがあった。でも、それをライブでやろうとすると、どうもジャポニズムになりがちなのだ。つまり、結局、西洋の視点で日本を見ることになっていまう。ライブは限りなく、連綿と続いてきた日本のアンダーグラウンドに寄り添う。ノイズは日本文化だったのか。いや、すべての形式を否定したノイズこそ、国境の無いものなのかもしれない。次は井内賢吾氏のライブ。ノイズとフォーク。ギター一本でやっている人をバンドに入れてしまうことの悪い面は、その人の持っていた生々しさがリズムにより均一化されてしまうところだ。アンダーグランドのフォークに一番合うのはやはりノイズなのだ。 最後は山安籠と井内賢吾氏が一緒にやった。井内賢吾氏がハーモニカ、山安籠がノイズ。ノイズを入れると、ハーモニカはやたら切なく聞こえた。 ここでのライブでは、ライブハウスでライブを聞くという安心感が否定されてしまった。シャーマニズムそのものと言っておきながら、ライブを聞くという安全なところに逃げていたのかもしれない。でも、シャーマニズムそのものは、ラブ&ピースの幻想と違い、全ての人と手を取り合ってやっていけるやり方では無く、とても危険だということの認識は必要でしょう。せめて、芸術という場所に置いておくのが無難なのだろう。 |