●世界最小の超精密な生物モーター
昨今、生化学や分子生物学が著しく発展してきましたが、それらの成果から得られる最大の知見は、生態や外観といったマクロな面のみでなく、生物の身体を分子レベルや化学的な観点から見た時にも、生物が限りなく合目的的で自律的に出来ているということが明らかとなったということです。
つまるところ、進化論の本質とは、これらのマクロ的にもミクロ的にも合目的的にできている生物の身体や生態を、いかに無目的論的に説明するかにあります。
しかし、最近続々と得られている生化学的な知見は、こうした無目的論的な説明のみをよしとする哲学がもはや通用しなくなりつつあることを端的に証明しています。
生命の身体は、偶然の作用で説明するには、あまりにも合目的的でありすぎるのです。『ダーウィンのブラックボックス』(マイケル・J・ベーエ著 青土社)には、生物が漸進的な偶然の作用によって進化してきたというお決まりの仮説では、生命の起源は何も説明できないことが、様々な事例を挙げてとても興味深く論じられています。
生化学者ベーエは、その著書の中で、生命体の中で起きている生化学的システムが「これ以上単純化できない複雑さ」であることを示し、そのために生命の起源が漸進的で偶然的な作用などではなく、もともと何者かにデザインされたものであることを主張しています。
「これ以上単純化できない複雑さ」とは、その系がお互いに相互作用してよく適合したいくつかの部分から成り立っており、しかも基本的な機能を持つ単一なシステムであるために、その中のどれか一つが欠けても、そのシステムの機能が失われてしまうようなものを意味しています。つまり、「必要不可欠にして、最小限の部品から成り立つ程度の複雑さ」です。
これ以上単純化できない複雑さを持つシステムは、そのシステムを構成している要素がどれか一つでも欠けるとシステム自体が機能しなくなるため、それに先行するもっと単純なシステムは存在しないことになります。そして、それ故に、その先行するシステムにわずかずつ修正を加えることもできません。つまり、これ以上単純化できない複雑さを持つシステムは、漸進的に生み出されるものではなく、最初から一挙に形成されなくてはならないのです。
ベーエは、その身近な例として「ネズミとり」を引用しています。ネズミとりの機能は、もちろんネズミを捕らえることですが、その機能を発揮するために、ネズミとりは、
(1)ネズミを挟むためのハンマー、
(2)ネズミが罠にひっかっかった時にハンマーが勢いよくネズミの身体の一部を捕まえられるように、ハンマーに力をかけておくためのバネ、
(3)わずかな力が加わってもはずれる感度のよい引き金、
(4)罠を仕掛けておく時にバネによって力の加わったハンマーを押し戻しておくための金属棒、
(5)これらを支えるための木製の台
から成り立っています。

<ネズミとりを構成する五つの要素>
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これらの五つの要素は、全てそれぞれ最小の機能しか持っていませんが、それぞれの要素が最小の機能を持って集まることによって、ネズミとりの「本来の機能が初めて働く」ものばかりです。しかも−ここが重要ですが−、これらの五つの要素の内のどれか一つが欠如しても、ネズミとりとしての機能が満たされなくなってしまうものばかりなのです。
あらかじめ上に述べた全ての要素がきちんと揃っていないと、ネズミとりはその本来の機能を果たしません。つまり、上記の五つの要素から成り立つネズミとりは、「これ以上単純化できない複雑さ」を持っていると言えるのです。
そしてもちろん、「これ以上単純化できない複雑さ」を持つネズミとりは、自然にできたものではなくて、誰かがデザインしたものに他なりません。
生命体が持つ生化学システムには、このネズミとりのように、「これ以上単純化できない複雑さ」を持つものが存在します。
ベーエは、その例として、細菌のべん毛、血餅に見られるような血液凝固系、そして細胞内輸送系などの生化学システムを取り上げ、ネズミとりと同様、「ある知性によってデザインされたもの」として結論づける必要があると述べています。
ここでは、それらの中で、べん毛システムについてのみ紹介します。
バクテリアは、1〜2ミクロン(1ミクロンは1000分の1ミリメートル)の菌体と、その約10倍の長さの一本または数本のらせん形のべん毛を持っており、そのべん毛を束にして毎分最高1万5000回転にも達するような高速回転を行って移動することができます。そのべん毛の付け根にあるのが、「べん毛モーター」と呼ばれるものです。それはバクテリアを移動させる動力機関で、生物が作った分子機械であり、生物の中で最も機械を連想させる部位であることが知られています。
その大きさは、直径20ナノメートル(10万分の2ミリメートル)、長さが10ミクロン(100分の1ミリメートル)程度の緩やかならせん状をした繊維であり、いわば「世界最小のモーター」と言えます。
この世界最小のモーターの根元の微細構造は、1971年に出された論文の中で明らかにされたました。
べん毛の根元は、おそらく誰が見ても、まるで機械であるかのような構造をしています。その根元は細胞膜にはめこまれており、各々2枚ずつペアになった4枚のリングが、ロッドで貫かれている形になっています。その根元の外側には、フックと呼ばれるジョイント部があり、その先にべん毛繊維が伸びています。べん毛繊維はフラジュリンという分子量3〜6万のタンパク質が、一周あたり11個でらせん状に積み重なった構造をしており、内部は中空になっています。
べん毛を最もモータらしく見せる根元−基部体−を構成する4つのリングの内、LリングとPリングは、それぞれ外壁を構成する強固な壁にしっかりと固定されており、残り二つのリング−MSリング複合体−は細胞内膜に埋まっています。

<べん毛の根元にある基部体>
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このような構造をしたべん毛を持つバクテリアは、モーターボートによくたとえられます。すなわち、バクテリア自体が船体であり、べん毛を構成するこれらの部位はそれぞれ、べん毛繊維がスクリュー、フックがユニバーサルジョイント、そして根元の基部体がモーターに相当します。
実際、バクテリアのこれらの部位は、モーターボートの各部位と機能的に同じです。そして、これらの三つの部位−スクリュ−、ジョイント、モーター−は、どれか一つが不足しただけでも、モーターボート本来の機能である水上の走行が不可能になり、そのために、三つの部位から成るモーターボートは、「これ以上単純化できない複雑さ」を持っていると言えます。
生化学者たちは、研究を進めてべん毛モーターの構造やその機能を明らかにしていくうちに、見た目はとても簡単な構造をしているべん毛モーターが、実は非常に複雑でありながら、極めて精緻に作られていることを知り、驚嘆したのです。そして、さらに興味深いのは、べん毛モーターの構造や機能そのものに関する研究論文は毎年多数出ているにもかかわらず、進化の概念を用いてその構造や機能を巧みに説明した論文は、未だに出ていないということです。つまり、べん毛モーターの発生については、世界中の誰も全く知らないため、黙秘を続けるしかないのです。
ベーエは他にも、「これ以上単純化できない複雑さ」の事例をいくつか挙げていますが、彼が主張したかったことは明白です。
進化論は漸進的な道筋を前提にしており、それは、今の生物の身体を構成している一つ一つの要素は、突然変異と自然選択を通じて徐々に一つ一つ獲得してきたものであるということです。最初はたった一つの細胞だったものが、一つ一つの要素を徐々に身につけてきたというのです。
しかし、上に見てきたような、生物に見られる「これ以上単純化できない複雑さ」を示す部位やシステムは、最初から要素が全て揃っていないと成り立たず、進化論が前提とする「漸進的な部品集め」と真っ向から対立します。つまり、進化論のような徐々に部品を揃えていくようなやり方だと、こうした「これ以上単純化できない複雑さ」を示すようなシステムは決して成立しないのです。しかし、現実にこのようなシステムは、生物の世界に存在しているのです。生物の身体の中に、「これ以上単純化できない複雑さ」を持った部位やシステムがれっきと存在することは、進化論が完全に機能不全に陥っていることを示しています。だから、進化論は、これらのシステムの起源を何も説明できないで、ただ黙って見送るしか手がないのです。
●究極のシステムとしての生命体
ここで生物をシステムとして表現しましたが、生命体とは、「外部環境との間で、物質やエネルギー、情報を絶えず交換しながら、自己を維持していくシステム」と呼ぶことができます。
「システム」とは、その系を構成するあらゆる要素が、複雑多岐に亘るネットワークを形成しながら、お互いに有機的な相互作用を及ぼしあい、しかも系全体として矛盾なく統一された系を指します。
もしシステムの中で矛盾が生じて、システム全体としてまとまった働きができなくなれば、システムとしての生命体は生きていくことができなくなります。最も原始的な形態をした生命体であっても、物質やエネルギーを代謝して自己増殖する有機的なシステムなのです。
生命体は、器官や細胞、さらにはそれらを構成している分子や原子に分解できますが、これらの要素を集めて機械的に結合させても、生命体は決して形成されません。生命体が形成されるためには、これらの要素がお互いに矛盾なく有機的に結合されなければならないのです。しかも、要素を結合させるための力は、生命体の外に存在するのではなく、生命体自身が持っているのです。
生命体は、様々な要素が有機的に結合して形成されたものですから、そこには当然ながら、生命体を構成する要素を有機的につなげるための設計図が存在しなければなりません。この「生命の設計図」に相当するものが遺伝子であり、生命体を構成するタンパク質は多数の遺伝子の指令に基づいて合成されますが、生命体を成立させる上で最も大事なのは、遺伝子そのものではなく、多数の遺伝子を質的、量的に精緻に発現させて、一つの自己矛盾のないシステムを完成させるための「プログラム」なのです。
そして、そのプログラムも遺伝子自身が持っているのです。つまり、遺伝子は、タンパク質の合成をいつどこで発現させるかを制御する調節機能を持っており、さらにその調節機能は、他の遺伝子の発現と完全に矛盾なく整合的に行われなければならないのです。生命が誕生するには、DNAに含まれている多数の遺伝子同士が、極めて複雑でかつ有機的なネットワークを組んでいる必要があるのです。

システムバイオロジーは、生物をシステムとしてとらえ、分子生物学と情報科学を融合して生命を理解していこうとする新しい試みですが、そうした手法は、このような遺伝子の複雑なネットワークの鍵を解いていく上でも非常に有効であると思います。
極めて複雑で、かつ有機的なプログラムを持っているシステムである生命体は、突然生じた変異体が環境に最もうまく適応する事を条件とする進化思想と相容れることが、全く不可能です。
そもそも突然変異とは、DNAのランダムなコピーミスに他ならず、システムが突然故障してしまうことを意味しています。システムのでたらめな故障がシステムに有利に働くということなど、実質上はまず決して起こり得ません。しかも、システムは、様々な要素が有機的に相互作用し、システム全体として矛盾なく統一されていなくてはならないはずです。
例えば、魚類が両生類に進化するには、ただ単に魚類の鰭が両生類の足に変化するだけでは全く不十分です。そのためには、水中生活から陸上生活へ適応するための体内のあらゆる部位が、その形態や行動の規範、さらには生理的な要求までもが満たされるように体系的に変化することが必要不可欠なのです。しかも、それらを自己の中で矛盾が起こらないように統合する脳の構造自体も、大きく変化する必要があるのです。
しかし、突然変異とは全くランダムな偶然の産物であり、そのようなものがたまたま重なり合って一つの統一されたシステムを新しく形成するなどということは、どう転んでも起こり得るはずなどもなく、もし仮に突然変異によって漸進的に進化が起こっているのであれば、不完全なシステムとしての生物が世界中で頻繁に観察されてもおかしくはありません。
しかし、現実には、そのような中途半端なシステムとしての生物など何も観察されていません。
生物はどんなに単純に見えるものであっても、それらはそれ自身で矛盾なく統一され、極めて複雑で、そして極めて精緻で合目的的なシステムとしての生態を持っているのです。
●生物の環境と合目的性
また、システムが存在するためには、その周りに媒体システムが存在することが必要ですが、生命体システムの場合、媒体システムは環境に相当します。環境とは、「人間または生物をとりまき、それと相互作用を及ぼしあうものとして見た外界」(『広辞苑 第四版』岩波書店)と記されていますが、外界とは温度、湿度、気圧、pH、照度などおおよそあらゆる生命体を取り巻く全ての因子を意味しています。それに対して環境とは、その外界の中で、その生命体が持つ感覚器官によって、認識可能で影響を与える因子を意味しています。つまり、環境は客観的に存在するものではなく、その中に生きる生物にとっては、極めて主観的な世界なのです。
生物は、単純な生物から高等な生物に至るまで、それぞれにふさわしい感覚器官を持ち、それに応じて、外界を構成するあらゆる因子の中から一部を知覚して独自の環境をつくります。そして、生物は、その環境に適応するのにふさわしい作用器官を持ち、感覚器官で取り入れた情報をもとに、自らの作用器官を使って環境に働きかけることにより、環境を作り替え、その生物独自の環境を新たに生み出していくのです。
生物は、それぞれの種独自の環境を所有しています。様々な種が持つ視覚器官は、それぞれの環境に適応しています。原生動物や下等な無脊椎動物は、眼点と呼ばれる小さくて簡単な眼を持ち、ミミズは分散光感覚器官、頭足類はレンズ眼、昆虫は複眼を持ちます。そして、脊椎動物は、カメラによく似た眼を持っています。
また、単細胞生物のミドリムシは、べん毛の付け根に光を感じるセンサーがあり、この部分に光を当てると、ミドリムシは運動の方向を変えます。ミドリムシにとって、このべん毛が感覚器官であるとともに作用器官ですが、同じ場所に棲む他の微生物は、ミドリムシにとって全て敵としか認識されないため、ミドリムシは逃避行動を起こしますが、食糧源であるバクテリアのみに対しては、それを捕食するための行動を積極的に起こすのです。ミドリムシは、べん毛のみでそれ独自の環境を作り上げていますが、ミドリムシの生存には、必要かつ十分に適応しています。
昆虫や甲殻類は、個眼と呼ばれる小さな眼の集合体である複眼を持っています。例えば、ミツバチは5000個もの個眼からなる複眼を持ち、これによってほぼ360度に亘る全視野をカバーすることができ、敵からの攻撃に素早く対応することを可能とさせます。また、複眼を持っているため、ミツバチは、人間には感じることのできない偏光や紫外線を見ることができます。
ミツバチは、そうした偏光視能力を用いて蜜のありかなどを正確に測定するとともに、紫外線を感じることができるために、人間が白としか認識できないような狭い領域の波長をも細かく分析することができ、似たような花の中から、自己生存に適した花を峻別しているのです。
犬の眼が人間よりもかなり視力が悪いことはよく知られていますが、その代わりに、犬は極めて優れた嗅覚を持っており、臭いによってなわばりを作ります。またモグラは眼が見えず、地下に大規模なトンネルを作って生活をしていますが、土を掘り起こすのに適したツメを持っています。鳥類は人間よりも発達した視覚を持っており、鷹は1キロメートル先の獲物を見分けることが可能ですが、これは網膜に、人間よりも8倍も多くの視細胞が密集しているためです。
これらの感覚器官は、単にそれだけで生存に寄与するわけではなく、外部の環境から感覚器官を通して受け取った情報を処理するために、脳内回路も感覚器官に応じた構造をしていなければなりません。
ある種のコウモリは、4種類の超音波を発して獲物を見つけますが、その獲物に近づくにつれて超音波の発信頻度を上げ、その反射音を精密に分析することによって獲物を捕まえます。このコウモリは、超音波を発信する特別な器官を持つだけでなく、脳内に、超音波に特異的に反応するニューロンの回路を持ち合わせているのです。このように、あらゆる生物種がこの地球に生存していますが、同じ世界に住んでいても、それぞれの種によって無数の環境が形成されているわけです。
おそらく私たちの誰にとっても不快な生物にしか映らないであろうダニは、眼がないために視覚を持ちません。ダニは、ほ乳類やあるいは人間の血液を吸って生きており、もともと体長はわずか1〜2ミリメートルしかありませんが、血液を吸うとエンドウ豆ぐらいの大きさに膨れ上がります。この眼を持たないダニは、生きていく上で三つだけの知覚標識があれば十分事が足ります。つまり、酪酸をかぎ取る知覚と、衝撃を感じる知覚と、温度を感じる知覚の三つです。これらの知覚が一定の順序で刺激として感じることによって、ダニは初めて、頭から獲物の皮膚を突き破って血液を吸い取るのです。
ダニは、灌木の枝先にしがみついていますが、その枝の下をほ乳類が通過すると、ほ乳類の皮脂腺から発散されている酪酸の刺激を知覚して、足を放して下に落ちます。落下したダニは、ほ乳類の毛に衝突したという知覚を受け、これによってその上をはい回り、毛の生えていない皮膚にたどり着き、そこが温かいという知覚を受けると、最終的にそこに穴を開けるのです。このように、ダニは、一定の順序で知覚標識を得ることによって、初めて目的である獲物の血液を吸うように仕組まれています。また、枝の上で待ち伏せていても獲物がなかなか現れない場合に備えて、ダニは、長時間何も摂取することがなくても生きていくことができるようになっています。
私たちにとって非常に豊かに見える風景も、ダニにとっては、酪酸の臭いや衝撃や、獲物の体温を感じる程度のたった三つの知覚のみで感じることしかできない世界です。それでもダニは、その環境に見事に適合するよう合目的的にできているのです。
一方私たち人間は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つの感覚を通じて環境と複雑なやりとりを行っていますが、それらの作動メカニズムを知る時、それらが実に巧妙に仕組まれていることに驚嘆するのです。
例えば、視覚は、網膜で受けた2次元情報を多数の詳細な要素に分け、それを神経回路の中で統合することにより、形や色調から質感に至るまでのあらゆる情報を認識して、両眼からの情報を立体的な像として認識する、実に壮大な視覚機構を構築しています。

また、聴覚は、鼓膜で受けた空気の振動を三つの耳小骨を通してリンパ液に満たされた蝸牛に送り込んで、入力された音をリンパ液の振動に変換し、これを高周波から低周波に至るまで連続的に配置されたコルチ器の有毛細胞で蝸牛マイクロホン電位に変換して、大脳に信号を送り込むシステムを構築しています。
様々な感覚器官から多くの情報を集めて自分なりの外界像を構築し、それに対応して自分なりの行動を行うには、脳中枢をはじめとする発達した神経系が必要です。しかし、脳神経系を持たない原始的な生物の場合は、外界からの刺激に対しては、短絡的な化学的な反応を引き起こすだけに限られます。このように、各々の感覚器官が多様な物理化学的信号を分別して感じる仕組みと、その信号を知覚する神経システムには、脳内システムが見事に対応しているのです。
ここでは、ほんの僅かな事例を紹介したに過ぎませんが、生物は、外界に存在するあらゆる要素の中から、自己保存に適したパラメータを選んで、それを感じることができる感覚器官を持ち、しかもその感覚器官を通じて外界から取り入れた情報を自己内で処理する能力を持ち、その処理結果をもとに、外界に働きかけることができる能力を持つ作用器官をも持っています。
生物は、その種独特の感覚器官と作用器官によって環境から情報を取り入れて、自己内でその情報を処理した後に環境に働きかけるプロセスを絶えず繰り返しながら生命を維持していきます。感覚器官と作用器官の間には、見事なまでの密接な関連性が見られ、その生物が生存していく上で非常に合目的的に作られているのです。
また、地球上には、数百万種とも言われるほど多数の生物種が生存していますが、それらの生物の中で最も小さい生き物は、おそらくはマイコプラズマでしょう。マイコプラズマは、人工培地上でそれ自身で生存しながら繁殖できる最小の生物であり、その重さは0.1pg(ピコグラム)、つまり10のマイナス13乗グラムにも満たない重さです。あまりにも小さいため、細胞中で水素イオンがわずか2個以上増えただけで、細胞内のpH(水素イオン濃度)を中性に保つことができなくなるぐらいです。反対に、最も大きな生き物はシロナガスクジラで、その重さは100トン以上、つまり10の8乗グラムもあります。
| 生物種 |
重
さ |
| マイコプラズマ |
100000000000.0000000000001g以下
|
| バクテリア |
100000000000.0000000001g |
| ア メ
ー バ |
100000000000.0001g |
| ミ ツ
バ チ |
100000000000.1g |
| ハムスター |
100000000100g |
| ヒ ト |
100000100000g |
| シロナガスクジラ |
100100000000g |
つまり、地球上に生存する最小の生き物マイコプラズマと、最大の生き物シロナガスクジラの重さには、実に10の21乗もの開きがあるのです。10の21乗倍を実感するのは容易ではないでしょうが、小錦約三人分の体重をマイコプラズマの体重に見立てると、シロナガスクジラの重さが地球の重さに匹敵するぐらいの違いがあるのです。地球上の全ての生物はこの両者の中に含まれるわけですが、周知のようにそれぞれの生物は姿も形も生態も千差万別です。
しかし、実は、細菌、植物や昆虫、は虫類やほ乳類などのあらゆる動植物が、たった四つの塩基のみから成る生命の設計図たるDNAによって形作られていたことが判明したのです。
1944年に米国の細菌学者アヴェリー(1877〜1955)によって、生物の遺伝の本体がタンパク質ではなくてDNAであることが確かめられ、1953年にF・クリック(1916〜)とJ・ワトソン(1928〜)が、その3次元的分子構造モデルを提案しました。
それはデオキシリボースとリン酸から成る主鎖が10残基で一回転するらせんを成し、これが二本でお互いに逆方向を向いて捻りあった二重らせん構造を形成し、その内側にアデニン・チミン、及びグアニン・シトシンという特異的水素結合を持った側鎖間塩基対が存在するという内容でした。二人によって提案されたこのモデルは、1960年にM・ウィルキンスたちのX線解析によって確認されました。
DNAが二重らせん構造をしているというこの立体分子構造モデルは、科学史上最も画期的とも言える発見の一つでした。クリックとワトソンは、このモデルの提唱によって1962二年にノーベル生理医学賞を受賞しています。この一大発見により、地球上の生物は多種多様の生態をしているにもかかわらず、全て共通の化学情報源を有していることが明らかとなったのです。
フランスの分子生物学者J・モノー(1910〜1976 1965年にノーベル生理医学賞受賞)は、「大腸菌での事実は、象でも事実である」という有名な言葉を残しましたが、それは、大腸菌や人間をはじめとする全ての生物が、DNAという共通の遺伝物質で生命が形成されているからに他なりません。
ヒトが持つDNAの構造は、大腸菌やウジ虫と同じ二重らせん構造をしているのです。人間とウジ虫との違いは、粗く言えば、単にDNA上の塩基の配列の仕方、つまり遺伝暗号の並び方が異なるだけです。
DNAは、あらゆる生物の基本的な設計図であり、そこには、その生物が生命活動を営むために必要な情報が満載されていたのです。単細胞生物から我々ヒトに至るまでの地球上に住む無数の生物種は、どれも例外なくDNAという化学的な情報メディアによって形作られていました。遺伝子を持つ情報機械としての生命体と、人工的な情報機械としてのコンピュータは、実は同じ情報を有する組織体だったのです。
生物は、単細胞生物からヒトに至る多細胞生物まで、極めて多種多様な生態を持っているにもかかわらず、それらはたった4つの記号が多様に組み合わさった化学的情報によるコンピュータ制御機構に従っていました。コンピュータは、複雑に配電された回路にパルスを通すことによって動いていますが、生物の脳も、複雑多岐な配線をしている神経網が電気信号と化学物質によって活動しています。
生命科学者たちは、生物に隠された複雑なコンピュータ制御を解明しようとし、情報工学者たちは、コンピュータを生物にできるだけ近づけようと躍起になっています。しかし、現実を見る限りでは、私たちが生物そっくりのコンピュータを完成するまでにはまだまだ時間がかかりそうに思えます。しかし、それは必ずや実現するでしょう。なぜならば、現時点においては、実現できないという合理的な根拠を、私たちは何一つ持ち合わせていないからです。
●自然はなぜ芸術的なのか?
ここまで、生物とは、環境に実にうまく適合できるように合目的的に形成されたシステムであることを説明してきましたが、生物の形態が合目的的に作られている理由は、全ての生物が持つ根本的な目的である「生命を維持」させるためです。
生物は、自分の周囲から物質やエネルギーを摂取し、自己を構成する物質を合成したり分解したりして、その際に生じたエネルギーを仕事や熱、電気や光などのエネルギーに変換して生命活動を行っています。
植物は、環境から炭酸ガスと光のエネルギーを取り入れて炭水化物を合成し、生成した酸素やエネルギーを環境に放出します。動物は、この植物を摂取し、植物から放出された酸素を取り入れてエネルギーを作りだし、その結果生成される炭酸ガスやエネルギーを環境に放出します。
このように生物は、周囲から取り入れた物質を、その生物にとって必要な物質に作り替え、その過程で摂取された物質や作り替えられた物質を分解し、生命活動のエネルギーを作ります。前者の過程を同化、後者を異化と言いますが、同化の典型例は光合成、異化のそれは呼吸であり、同化と異化は同時に進行しており、この時に起こる一連の化学変化を代謝と言います。代謝は、生命体にとって最も基本的な生命活動です。この代謝に伴って、体内ではエネルギーの変換が起こり、呼吸や発酵などで作られたATP(アデノシリン三リン酸)の化学エネルギーが、電気や熱、光、仕事のエネルギーに変わります。生命体は、そのエネルギーを利用して様々な生命活動を行うのです。
物質代謝やエネルギー代謝は、周囲の環境に対して自己保存する目的で、合目的的に適合する形で行われます。生物の特徴の一つは、外部環境と自己自身との間に明確な境界域を持つことだと言われますが、その反面、生物は、物質代謝やエネルギー代謝を行うことによって、周囲と相互作用を行うために、両者の間に境界はなく、生物とその周囲は密に入り組んだ連続体となります。そして、生物は、代謝を行うことによって自己を維持しようとしますが、その意味で生物は、単に環境から影響を受けるだけでなく、自らも能動的に環境に働きかけています。そして、環境に働きかけたことによって、また新しい関係が環境と生命体の間で構築されます。こうした相互作用が、周囲の環境と生命体との間で延々と続きます。
あらゆる生物は、「自己を維持させる」という極めて強い欲求を満たすために、それ自身の内部で矛盾なく統一された内的活動を絶えず営んでいます。
生命を維持するためには、代謝のようなエネルギー転換能力のみならず、自己調整能力も必要不可欠です。免疫機構はその代表例です。
免疫機構が働くために、生命体は外部から侵入して自己を侵す作用に対しても、あるいは生命体内部で自己を侵す作用に対しても働く生態防衛システムです。単細胞のゾウリムシでさえ、体内の塩分濃度を調整しており、鳥やほ乳類のような高等な動物になれば、自己の体温を一定に調整する機能を持っていますが、このような自己調整能力はホメオスタシス(恒常性)と呼ばれています。
こうした物質代謝や免疫機構、さらには生命を子孫にまでつなげるための生殖機構など、生物の身体の器官や形態は、「生命の維持」という最も基本的な生物の目的を果たすように合目的的に形成されています。
しかし、生物の形態は、必ずしも全てが生命を維持させるために合目的的に出来ているわけではありません。
動植物の形態の中には、植物の花、鳥の羽毛や嘴、熱帯魚の体色や動物の身体を覆っている毛皮の模様など、自分の周りの環境に適合することを目的とせず、環境とは無関係に取得したとしか説明できないものも多く存在します。
例えば、美しい色彩を放つ花は、花粉を運んでくれるミツバチや蝶などの昆虫たちをおびき寄せることだけを目的としているのではありません。
ミツバチや蝶には、花の色彩は認識できないからです。
1950年から1960年にかけて、ミュンヘン大学のフォン・フリッシュたちは、ミツバチの行動実験などの研究を行い、昆虫が見える波長領域が300〜600nm(ナノメートル)で、ヒトが見ることができる波長領域よりも100nmほど短い波長側にずれていることをつきとめました。すなわち、昆虫は、赤色を見る事はできませんが、ヒトには見えない紫外線を見ることができるのです。
蝶も波長の短い光により敏感に反応します。そして、野の花の多くは、多彩な色を呈していますが、その多くは紫外線を良く反射しているのです。
例えば、キクイモ(Helianthus tuberousus)という花は、私たちが見ると全てオレンジ色をした花びらを持っているにしか見えませんが、蝶の視覚を真似て紫外線を通すフィルターを付けた特殊なカメラで見てやると、花の中心部分は紫外線を反射して白く見え、花びらは紫外線を全く通さないので黒く映ります。
すなわち、蝶から見れば、この花の中心部分は白く、その周辺が黒く見えるために、蝶は花の中心部分を確認することができ、蜜のありかを知ることができるのです。

<ヒトと蝶が見たキクイモ> |
また、蝶の多くは蝶翅に含まれている含有色素によって発色していますが、南米のモルフォチョウの仲間の翅は、色素による物体色とは異なり、主に翅膜上に規則的に配列された鱗粉の断面の、クチクラ質のラメラ層と空気層からなる超微細積層構造と青色波長の干渉発色現象により(構造色)、非常に美しい色をかもし出しています。
それは、光の当たる方向により、微妙に色調が美しく変化するため、繊維業界などでは、このモルフォチョウの構造色の原理を製品に利用する開発も進められているほどです。色彩感覚が欠如しているはずの蝶の生態の一体どこに、はたしてこのような高度な発色機能が必要だったのでしょうか。自分がその感覚器官をまるで持ち合わせていないにもかかわらず、生命を維持させるために極めて高度な発色機能を身に着けることの必然性が存在することなど、とうてい考えられません。
また、微妙な色合いをかもし出している二枚貝や巻き貝も、その貝殻の色彩は生存目的とは大きくはずれています。はっとさせるほど美しい様々な熱帯魚の色彩や美しい色のイソギンチャクや海綿、珊瑚も、また同じように、それらの生存目的には必ずしも関係があるとは言えません。
これらの生物の乏しい視覚機能は、自分の周囲の環境や同族たちを視覚的に明白に識別することはできず、あのような繊細で微妙な色彩を身につける必然性は何もありません。むしろ、そのような色彩は、自分自身を危険に陥れることになりかねません。
つまり、それらの生物の形態は、自己保存のための合目的性を遥かに越えたところに存在すると言わざるをえません。
<様々な貝>
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また、鳥たちの羽毛の色彩や模様、くちばしの形や色なども、自己保存という目的から大きく逸脱しています。ホオカザリハチドリは、頬の部分が派手な羽毛で飾られたり、頭を目立った王冠のように飾ったものが存在しますが、それらが、自己保存のためになにがしかの機能を果たしているとは到底思えません。メキシコに棲むツノゼミは、胸部第一体節を過度に発達させて、自分よりも大きな角を生やして自分自身を強調した種類が存在しますが、こうした形態は、自己保存や種族保存という、生物の根本的な目的である生命の維持には、むしろ不利に働くのです。
進化論が唱える進化の原動力は自然選択ですが、生物が自然選択を通して進化したのであれば、自然選択は子孫繁栄に必ず役立ってきたはずであり、そのため、現存するあらゆる生物の形態や機能は、全て子孫繁栄のために合目的的で、役立つものでなくてはなりません。
しかし、上に紹介した生物の形態は、子孫繁栄、つまり生命の維持とは無関係な造形であると言わざるを得ません。植物にせよ、動物にせよ、このような生命の維持を目的とはしない形態は、実に多くの生物に見てとることができます。そして、この事実は、自然選択を進化の第一要因とする進化論を根底から崩壊させてしまうのです。
生物が、生命を維持させるために合目的的な形態と機能を持っている一方で、その目的から大きく逸脱した形態や機能も持ちあわせているこれらの事実は、一体何を物語っているのでしょうか。
「そこには、自然に宿る無限の創造意志と自由な創造力が感じられる。・・・自然は偉大な芸術家である。」(傍線引用者『生命と宇宙』小林道憲著 ミネルヴァ書房)
言ってみれば、自然界には、生命維持とは無関係の「遊び−ユーモア」とも思える芸術的要素が多く見られるのです。
生物が生命維持のための形態を持ちながらも、「芸術的なセンス」を併せ持っている理由は、これまでの無目的論的なアプローチでは決して解決することはできません。テントウ虫の斑紋が特定の数しか示さない理由など、一体どうやれば無目的論的な説明が可能だというのでしょうか。
進化論は、こんな単純な疑問に対してでさえ答えることは、ほぼ絶望的に不可能なのです。同じ環境に棲む多くの種類の生物の中で、なぜ特定の種類だけが、そんなに奇抜な形態を持ちうるのか、しかも生命を維持させることに対して明らかに不利だと思われるほどの形態を持つ必然性は一体何だったのか、自然選択では全くお手上げなのです。
地球上に生存する生物は、それがたとえどんなに小さな生物であっても、実に驚くほど複雑で精緻を極めた、合目的的で自律的な組織体です。上述のベーエが著書の中で紹介したような、精密な機械としか言いようがないべん毛モーターや絶妙の調整機能を持つ血液凝固系や細胞内輸送系、ホソクビゴミムシの爆弾装置やカリバチの麻酔注射といった、極めて巧妙で驚異の生態など、それらのいずれもが、生物が人知を遥かに越えた極めて高度な知性が築き上げた絶妙の傑作の結果に他ならないことを示しています。
マクロな面はもちろんのこと、ミクロな面においても、生物の組織を調べれば調べるほど、そこから得られる知識は、生物が極めて高い知性を持つ何者かによってデザインされたに違いないという事を示唆しています。
生命体が何者かによってデザインされたという思想は、今に始まったものではなく、人類の歴史の始めから多くの民族で普遍的に見られてきました。彼らの多くは、生命体のデザイナーを「神」と称してきました。ヘブライ民族の『創世記』に登場するアダムとイブを創造した神は、そのデザイナーたち(複数形であることに注意)に他なりません。
後の自然科学界の思想に甚大な影響を与えたフランシス・ベーコン(1561〜1626)は、動物の身体を「時計」に見立てた最初の人物ですが、生命体がデザインされたことを最もよく言い表したのは、19世紀の英国国教会牧師のウィリアム・ペーリー(1743〜1805)でしょう。
ペーリーは『自然神学−自然の観察から集めた神性の存在と属性の証拠』(1802)と題する論文の中で、「あなたが地面に落ちている時計を見つけたならば、あなたはその時計がどこかの時計職人が製造したに違いないと結論を下すだろう」という有名な寓話を持ち出して、生物の構造や習性、生物の生存に極めて都合よくできている生物同士の相互関係などが神の英知を示していると主張しました。
時計の中身を覗けば、誰しも時計をデザインした何者がいるに違いないと思うはずです。
はたして、それはなぜでしょうか。それは、時計を構成する様々なパーツが、お互いに複雑に絡み合いながら、時を刻むという時計の機能を果たすような仕組みになっていることを知るからです。
ペーリーは、『自然神学』の中で人間の眼の複雑さに触れ、時計が複雑な構造をしているために時計を作った時計職人がいると推定できるように、複雑な眼を作ったデザイナー、つまりはそのような複雑な器官を持つ生物を作ったデザイナーがいるに違いないと述べています。
眼の構造の複雑さについては、創造論者たちが、生物が神によって創造された証拠として好んで取り上げる題材であるとともに、人間の眼の複雑さに関しては、古くからその起源が議論されてきましたが、ダーウィンは『種の起源』の中で、「眼が自然淘汰で作られたと考えることは、正直言って不合理であると思われる」と述べながらも、下等な動物から高等な動物までの様々に異なる眼を比べることで、眼が自然淘汰によって徐々に進化してきたことを述べています。
また、ダーウィンの末裔とでも言えるリチャード・ドーキンスは、著書『ブラインド・ウォッチメーカー』の中で、ペーリーが挙げた眼の複雑さから導かれる時計職人に見立てた生命のデザイナーのたとえ話を、「ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、当時の最良の生物学的知識がこめられている。にもかかわらず、それは間違っている。
みごとなまでに完全に間違っている」と述べて、ペーリーの主張を真っ向から否定しています。 そしてドーキンスは、ペーリーがその存在を主張したデザイナーは、実は自然選択であると述べ、ペーリーにならって自然選択を「盲目の時計職人」と比喩しています。
おそらくきっと、ドーキンスは、ペーリーの用いた比喩を皮肉を込めて使うことによって、自分が間違いなく勝者であると思っているに違いありません。
しかし、ベーエに言わせると、ドーキンスは自分が思っているほどの勝利を収めているわけではありませんでした。いやむしろ、部分的にはペーリーの方が勝者であるかも知れないのです。
ドーキンスは、少しずつ進む漸進的な連続的な系列を通して、眼が少しずつ進化してきたと述べており、その系列は、単細胞生物が持つ感光点から出発し、それが一部の多細胞生物が持つ小さなお碗状の感光細胞に変化し、さらにそのお碗が深くなってレンズのないピンホール・カメラになり、最終的に我々が持つような水晶体に変化すると述べています。
しかし、そもそも単細胞生物が持つ感光点はどこから来たのか、どうして出来たのか、また、お碗状の感光細胞がどうして出来たのかを、ドーキスは一切語っていません。
感光点が機能するためには、ロドプシンやトランスジューシンと呼ばれるタンパク質やビタミンAによく似たレチナールと呼ばれる色素、ホスホジエステラーゼと呼ばれる酵素やサイクリックグアノシン3′、5′−一リン酸という分子などが必要であり、これらは、視細胞で光の信号を電気信号に変換するために必要不可欠な「これ以上単純化できない複雑さ」を持っています。
つまり、漸進的な変化では、これらの要素が存在していることの説明は不可能なのですが、ドーキンスは、これらの要素がなぜ存在しているのかについては、結局何も言及していないのです。
またドーキンスは、この事例と似たような言葉遣いで問題の本質を回避しています。
『ブラインド・ウォッチメーカー』(早川書房)の中で彼は、私たちが視覚を用いるのと同じ目的でコウモリは超音波を用いていますが、それは進化の過程でデザインされたのだと説いています。
彼は次のように述べています。
「コウモリも我々も、三次元空間における物体の位置を表すためには同じ種類の内部モデルを必要としている。自分たちの内部モデルを組み立てるのに、コウモリはエコーの助けを借り、一方我々は光の助けを借りているという事実は、このさいどうでもよい。いずれにせよ、そうした外部の情報は脳へいたる途中で同じような神経インパルスに翻訳されるのである。」
しかし、あろうことかドーキンスは、最も問題としなければならないはずのところを「このさいどうでもよい」という言葉で簡単に片づけているのです!!
根本的な問題は、なぜコウモリは超音波を使って情報を集めるように設計されているにもかかわらず、私たち光を使って情報を集めるように設計されているのかなのです。しかし彼は、この問題に対して全く何も答えていないのです。
これまで生命体は、その時代に最も流行っている工学の世界から借用されたメタファーを用いて表現されてきました。当時の最も精巧な機械と言えば、おそらく時計だったために、ペーリーは、生命体を緻密にデザインされたものの代表例として時計を挙げたのでしょう。
しかし、現代社会においては、最も精巧な機械と言えば、おそらく誰もがコンピュータを思い描くはずです。20世紀後半に著しく発達した生命科学が明らかにした最も驚くべき事実は、地球上のあらゆる生命体はコンピュータにとてもよく似た特性を持っているという事でした。
●AIBOはなぜ「生き物」ではないのか?
1999年6月1日午前9時20分、ソニーは、民生用として子犬に見える四本足歩行のエンターテイメントロボット「ESR−110」(愛称「AIBO」)をインターネットを使って予約販売を開始しました。これまでに全くなかった新しい「ペット」の誕生です。
AIBOは、一体(一匹?)25万円という価格ながら、国内向けの3000台が発売開始後わずか20分で売り切れ、米国でも2000台を4日間で完売しました。その後、いくつかのバージョンのAIBOが世に送り込まれています。
初代AIBOは身体の高さが約30センチメートルと、室内で飼う小型犬程度の大きさで、見た目は金属的な感じは拭えませんが、頭を撫でると尻尾を振って喜んだり、ボールを追いかけて疲れるとその場で眠り込んでしまいます。しかも、眠り込んでいるAIBOの頭をポンと叩くと、驚いて跳ね起きることまでやってしまうのです。
私たちは、AIBOがロボットであり、自分たちと同じ生物ではないことを百も承知ですが、AIBOのこうした仕草が「生物らしく」感じられるところが爆発的な人気の秘密なのでしょう。「生物らしく」見えるAIBOのようなロボットは自律型ロボットといい、工場で働く産業用ロボットのような人間の指示のみに従って動くロボットとは異なり、自分独自の判断で動くロボットです。
こうした自律型ロボットには、外部環境を検知して、そこから入手した情報を分析し、分析結果に応じて動作を起こす機能が必要不可欠ですが、AIBOには、圧力センサー、眼に相当するCCDカメラ、身体の傾きや姿勢を検知する加速度センサーとジャイロセンサー、障害物との距離を測定する赤外線方式の測距センサーなど、いくつものセンサーを持ち、それらのセンサーが検知して得た情報を64ビットの高性能な超小型演算処理装置(MPU)で処理できるようになっています。そして、処理した結果をもとに、首、口、手、足の関節に設けられた18個の小型モーターを協調させて滑らかに身体を動かすのです。AIBOはこのような機能を持つため,人工知能のAI、眼(アイ)を備えたロボットで、人間の良き相棒(あいぼう)という意味を込めて付けられた名前だと言います。
AIBOは学習しながら人間とコミュニケーションを取れるようになるのですが、実際には学習しているように見えるだけであり、悲しんだり喜んだりする仕草をとったとしても、本当にAIBOがその感情を持っているわけではありません。(私たち人間の中にも反省したそぶりを見せるだけの人も多くいますが・・・笑)
初代AIBOは、外観が金属色なため「それらしく」は見えませんが、外観を本物そっくりの毛並みにしてやれば、もっと本物の子犬らしく見えるようになるでしょう。あるいは、肌触りも実際の犬と同じような感触を持たせる材質で皮膚を作れば、本物の子犬にもっと近づくに違いありません。
しかし、どんなにAIBOが「本物」に近づいたとしても、私たちはAIBOを生物とは見なさず、人工物であると考えるはずです。
それは一体なぜなのでしょうか。
ゼンマイ仕掛けのおもちゃの子犬とAIBOを見比べた場合、AIBOの方がより生物らしく見えるはずです。しかし、やはりAIBOは生物ではないと考えるでしょう。
では、私たちはいったい何を基準として生物であるかないかを判断しているのでしょうか。
なぜ、ゼンマイ仕掛けの子犬のおもちゃは、AIBOよりも生物らしく見えないのでしょうか。そもそも生物と私たちが作った人工物との違いは一体どこにあるのでしょうか。また、もしその違いが分かって、それらを科学技術によって克服することが可能だとすれば、生物と人工物の間に単純に境界を設けること自体が不可能になるのではないでしょうか。つまり、ある存在をさして、それを「生物」と呼ぶか「人工物」と呼ぶかは本質的な違いではなく、単なる呼び方の好みに過ぎなくなるのではないでしょうか。
そして、何よりも興味をそそる問題は、生物と人工物との境界が明確でなくなる日がはたして実際にやってくるのかどうかという事です。
●生気論という見方
生命に対する基本的な見方には、古来大きく二通りが存在しました。一つは、アニミズム的な見方であり、それは魂や心といった,眼には見えないが生物を操る生物の本質を構成しているとみなします。もう一つは、生物は精緻で巧妙な機械であるという見方です。
前者の見方は、伝統的な道徳観や人間の救済、さらには神の恩寵に見られる宗教上の教義などに深く関連しており、一般的に魂は肉体よりも優れたものとして位置づけられ、不浄で忌むべき肉体は滅びても、崇高な魂は永遠の存在であり得るという普遍的に見られる考え方を提唱します。古代ギリシアの哲学者プラトンは霊魂不滅を主張しており、彼の弟子であったアリストテレスは、生を営む存在に宿る生命の原理としての霊魂に関して詳細な理論を打ち立てました。
彼によると、植物や動物にはそれぞれ霊魂が存在し、人間の霊魂には、これらに加えて理性という特別の機能が備わっており、それは「外から来る」ものでした。キリスト教神学者たちは、アリストテレスのこの考え方を「人間は他の動物と異なり、神によって特別に創造された」という聖書の言葉と容易に結びつけたため、キリスト教化されたアリストテレスの考え方は、広く西洋に広く広がることとなったのです。今でも、この考え方に従っている人たちが世界中に多く存在しています。
●人間=機械論
生命に対するもう一つの見方、生物は精緻で巧妙は機械システムであるという見方については、少し説明が必要です。
近世最大の哲学者の一人である17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルト(1596−1650)は、自然を数式で表現できる完全な機械と見なし、『方法序説』(1637)や『人間論』(1664)の中で、動物も植物も生物は全て精巧な自動機械だと見なす「動物機械論」を説きました。
また、18世紀には、フランスの医師だったラ・メトリ(1709−1751)が1747年に、人間を完全な機械システムとして描いた『人間機械論』を出版しました。彼は、肉体と魂を分離したデカルトの二元論には承伏せず、心の問題を肉体の問題としてとらえて、人間を完全な機械的存在と見なしました。
上述のようにデカルトは、人間以外の動物を単なる自動機械(オートマン)と見なしましたが、ラ・メトリは、人間もまた完全な機械システムであり、心の問題を基本的に肉体の問題として取り上げ、人間を理解するには形而上学など必要ではないことを論証しようとしたのです。当時は、人間も含めた動物に関する科学的な知識はほとんどないため、ラ・メトリは身体の機械論を展開するために機械学を用いました。
彼は人間を次のように表現しています。
「人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である。・・・全世界には種々雑多な様相化の与えられたただ一つの物質が存在するのみである。」(『人間機械論』ド・ラ・メトリ著 杉捷夫訳 岩波文庫)
まだこの頃は「細胞」という概念さえ存在しなかったため、ラ・メトリは細胞には言及していません。確かにラ・メトリよりも前の17世紀には、英国の科学者ロバート・フック(1635−1703)が顕微鏡で観察した薄く輪切りにしたコルクから「細胞」という言葉を作っていましたが、細胞が生命の基本的な構成単位であることを示したのは、フックよりも約200年後、ラ・メトリよりも約100年後の1830年代終わりに、ドイツの植物学者マシアス・シュライデンと動物学者テオドール・シュヴァンたちが「細胞理論」を提出した時でした。彼らは、生命の基本的な構成単位は体内の器官ではなく、それらを構成している微細な細胞であり、それらの中に生命の秘密が隠されていると唱えたのです。
細胞理論はその後も進展を続け、1850年代には、ドイツの病理学者ルドルフ・フィルヒョウ(1821−1902)が、生命は本質的に機械的なプロセスであり、物理と化学の法則によって全てが説明できると提唱し、1912年には、ドイツの生物学者ジャック・ローブが、ウニから提出した卵子にウニの精子の代わりにある化学物質をふりかけることによって、卵子はあたかもあたかも精子によって受精したかのように分割を始めて一個の生命体が発育することを観察し、これによって機械論的な概念を生命体に持つことの正当性を主張しました。
さらに彼は、いずれ生命体を実験室で人工的に創造できることを確信していたのです。このこと自体は、ローブが卓越した先見の明を持っていたと言わざるを得ません。
●生気論と機械論を右往左往する人々
また、第二次世界大戦が終了した1945年には、天才数学者フォン・ノイマンによりコンピュータのアイデアが提出され、1948年にはノーバート・ウィーナーが「サイバネティクス」という新しい思想を提唱し、生物と機械の制御の類似性を論じました。彼はその年に、「動物と機械における制御と通信の共通性を取り扱う科学」をサイバネティクスと命名しました。
サイバネティクスには「舵取り」という意味が含まれますが、これは、生体内で行われているホメオスタシス(恒常性)に見られるフィードバック制御機能と深い関係があります。
ホメオスタシスは、生物が外的及び内的な様々な変化に対応して自らの身体を安定な状態に保ち、個体としての生存を維持する性質のことであり、生命体が持つ基本的な特徴の一つです。
サイバネティクスのような、生物と機械の制御に必要なものは「情報」であり、サイバネティクスは情報処理システムの枠組みの中で、「フィードバック制御」により情報の検出や伝達、変換、制御などの一連のプロセスを経ます。情報とフィードバックは、生物を機械とみなすサイバネティクスにおいては、その活動が還元される二つの基本的な構成要素です。ウィーナーにとっては、生物のあらゆる意図的な行動は、生物が持つ感覚器官から取り入れた情報の処理結果に還元されるべきものなのです。
第二次世界大戦以降、コンピュータが発達して単なる演算装置から制御装置として用いられるようになってから、機械はコンピュータにプログラミングされた形として登場するようになりました。
そのため、情報通信分野が著しく発展した現代においては、生命体−人間−を機械として表現するのに最も適した言葉は「コンピュータ」なのではないでしょうか。コンピュータは単なる数値計算機としてではなく、高性能の情報処理機としての制御機能を持ちます。
生命体は、巧みに配置されて結合された感覚器官や内的な処理機構を持ち、周囲の環境から内部に取り入れたあらゆる情報をフィードバックしながら処理を行う「生物コンピュータ」と言えるのです。
実際、生命体は情報処理装置そのものです。生命体の基本的設計図とも言える遺伝子の本質はDNAですが、DNAは4種類の塩基の配置の仕方によって生命体を形成するために必要な無数とも言える情報を提供します。
今や生物学は、生物を精緻なコンピュータだと見なさなくては何一つ新しい知見を得ることができなくなっています。脳や細胞やあらゆる器官、それらをつなぐ免疫系や神経系などを理解するためには、これらが極めて複雑な情報処理システムであることを見なすことが必要不可欠なのです。
約30億個の塩基の並びからなる人間の全DNA配列を読みとって、その働きを明らかにしようするヒトゲノム解析計画は、2001年にほぼ解読を終えましたが、DNAの配列を解読するのに必要不可欠な道具が、極めて高い演算能力を有するスーパーコンピュータでした。コンピュータを用いてDNAの配列を決定することが可能だということは、ヒトゲノム解析とは、要するに情報処理の世界であり、このことはすなわち、人間の本質が情報によって形成されていることを如実に表しています。その情報の大きさは、ヒトのDNAは30億対の塩基から成り立ち、一対あたり2ビットであるから、全部で0.75ギガバイトの情報量を持つことになります。
バイオテクノロジーや遺伝子操作は、言ってみれば、これらの情報の再編集作業とも言えるでしょう。
人間は、基本的にはコンピュータと同じ情報処理システムなのであり、思考や言語や情緒などは、脳内に張り巡らされた神経網の演算活動の結果に他なりません。そのため、それらの活動能力が低下した場合は、外部の情報処理装置と組み合わせることによって情報処理能力の低下を防ぐことが可能となります。既に、脳の情報処理能力の低下を防ぐために、コンピュータ部品を体内に埋め込んで、ある特定の情報処理を脳の代わりに行わせる医療技術が進んでいます。
例えば、パーキンソン病や多発性硬化症による震えなどの症状を緩和させるために、脳内にコンピュータを埋め込むニューラル・イントラネットや、完全に視力を失った人たちに視覚を持たせるために、埋め込み式の人工網膜が用いられています。
視覚は、外界から眼球に入ってきた光信号が網膜で電気信号に変換され、その信号が視神経を通して外側膝状体や、さらには高次の視覚情報処理を行っている大脳視覚野で処理される知覚ですが、脳の情報処理経路の一部を人工の情報処理装置に置き換えるのです。
西暦2000年初めには、ニューヨークにある医療機器などの民間研究機関ドーベル研究所が、全盲の人の脳に直接電極を埋め込んで、物を見られるようにすることに成功したと報じています。その報告によると、メガネにテレビカメラと超音波距離センサーを取りつけ、腰に装着したコンピューターにデータを転送し、物体の輪郭を処理するアルゴリズムを使ってデータ処理を行い、処理後のデータを、その人物の脳の視覚をつかさどる皮質に埋めこんだ電極に信号として送りこみ、見えるようにすることができました。
この実験には、36歳の時に外傷により視力を失った62歳の全盲の男性が協力し、この人工視力システムを使うことによって、見える視野は狭いものの、高さ約5センチメートルの文字を150センチメートル離れた場所から読み取る事ができるようになりました。また、ニューヨークの地下鉄など、不慣れな場所を歩くこともできたといいます。
もともと、網膜は単なる感光器ではありません。光は、神経節細胞、アマクリン細胞、双極細胞、水平細胞の順序で通過し、網膜の一番奥にある視細胞に達します。網膜は、このような層状構造を成している、とても精巧な多層データ処理システムなのです。
視細胞層に到達した光信号は、光化学反応過程を通して電気信号に変換され、入ってきた光の方向とは逆の順序で網膜の奥から表面に流れます。視細胞には、錘体と杵体の2種類があり、その個数は片眼でそれぞれ約700万個、約1億3000万個存在します。また、眼球から出て脳内に向かう視神経線維は、片眼で約100万本であり、平均して約100個の視細胞の出力が一本の視神経線維にまとめられており、実に巧妙な情報圧縮処理が行われていることが分かります。
こうして私たちの知覚処理が人工的な情報処理装置によって置き換えられるということは、私たち自身がこのような情報処理装置が無数に集まってできた一つの精緻な情報処理システムであると言えるのではないでしょうか。
このほか、ここ20〜30年の間に得られた生化学や神経生理学、コンピュータサイエンスにシステム理論、サイバネティクスなどの分野における極めて膨大な知見は、生命とは、純粋な電気化学反応によって引き起こされた現象そのものであり、決して神秘的なものではないことを明らかにしてきました。そして、人間を含む生物は、機械、あるいはコンピュータと同じように、『外部から得られた情報を自己内部で処理して、その結果に基づいて外部に反応を示している、地球上に存在する100余りの種類の元素の一部から構成された完全に物理化学的な存在』であることを示しています。
生物の内部で繰り広げられる化学反応や情報処理は、確かに極めて複雑で、私たちの理解を超えてはいますが、それでもそれらは極めて論理的であり、私たちがさらに多くの知見を得ることにより、それらの反応機構や処理機構を完全に理解することも可能になっていくに違いありません。
従って、現時点で生命を克明に捉えるのは困難ではあっても、だからといって生命を説明するのに非物質的な要因を持ち込む必要性はまるでありません。
しかしながら、私たちが持つ生命観には、アニミズム的な生気論と物理化学的な説明を試みる機械論が、どうも非常に複雑に入り組んでいるように思えるのです。
臓器移植や胎児組織の移植、生殖技術や遺伝子操作などが行われる背景には、人間を機械と見なし、機械のパーツの交換を行うのと同じように細胞や遺伝子を機械部品としか見なしていないという意見がよくマスコミに取り上げられる反面、人が死ぬと、生前その人と懇意にしていた人たちは、その人の魂が無事立派に昇天して、「あの世」で平和に暮らすことを願ったりします。
明らかに前者は機械論的な生命観に基づき、後者はアニミズムに基づいています。
多くの人々は、「人間は機械だ!」と断定もできない代わりに、見たこともない魂の存在を心底信じることもできず−中にはその存在を信じて疑わない人たちもいますが−、結局煮え切らないままに、両者の言い分の半分ずつを適当に自分の都合のよいように補いながら−要するに自分をごまかしながら−やりくりをしているのが実状ではないでしょうか。
●機械的概念を見直す
上で私は、人間は情報処理装置としてのコンピュータであると述べました。この「人間コンピュータ説」には、少なからず不快感を示す人たちがいると思われます。彼らは、人間をコンピュータや機械と見なすことに対して、「人間が単なる機械(コンピュータ)に過ぎないなんて・・」と言って嫌悪感を露に表します。
しかし、この言葉を冷静に受け止めるならば、「単なる」や「過ぎない」という言葉に大した意味などほとんどないことに注意すべきであり、問題の本質は、「人間ははたして機械なのかどうか」ということだけです。そのために、そもそも機械とは一体何なのかを、ここで明確にしておく必要があるでしょう。
前述のように、デカルトは、人間以外の生物を「自動機械」だと述べましたが、人間もまた生物である以上、自動機械としての側面を持っていることになります。彼は『方法序説』の中で、人間の身体に似ていて、自分たちの行為を実際に模倣できる機械があったとしても、その機械が本物の人間でないことを知る方法があるとして、その判断基準は、その機械が自覚や自由意志を持つかどうかであると述べています。自覚や自由意志というは、いわゆる「心」の範疇であることに異論はないでしょう。
ならば、心を持った機械が存在するならば、それを人間と見なしてもよいのでしょうか。
「機械」という言葉からイメージするものは、人それぞれに異なるでしょう。ぜんまい仕掛けのからくり人形や電池で動く金属製のおもちゃを連想する場合もあれば、産業用ロボットのように巨大なアームを連想する場合もあるでしょう。あるいは、SF漫画や映画に登場するような、未来社会で活躍する人間の能力をはるかに越えたスーパーロボットのようなものを連想する場合もあるでしょう。
そのようなある言葉から連想される特定のイメージは、その本質が世間に広く受け入れられるか否かに極めて大きな影響を与えます。例えば、「ロボット」がその例として挙げられます。
日本では、ロボットと聞いてまず真っ先に思い出すのは、おそらく手塚治虫氏が描いた『鉄腕アトム』ではないでしょうか。鉄腕アトムは、最初に『アトム大使』として1948年に登場した後、1952年に『少年』という雑誌に「鉄腕アトム」として登場し、1963年からはアニメ番組としてテレビ放映されるようになり、高度成長時代の日本人に明るい未来をもたらす国民的英雄になったのです。アトムは、その後の日本人のロボットに対するイメージに決定的な役割を果たしたと言っても過言ではないでしょう。
アトムは、「心と意識」と人間の能力を遥かに越える七つの威力を持ったヒューマノイド型ロボットです。その七つの威力とは、「宇宙の寄生虫の巻」(『手塚治虫漫画全集』10 講談社)によると、
(1)どんな計算も一秒でできる
(2)目がライトになる
(3)空を飛べる
(4)60カ国語を話せる
(5)耳が良く聞こえる
(6)人の善し悪しを見分ける
(7)10万馬力の力を持つ
となっています。(7番目の10万馬力は、宿敵ブルートゥと戦うために天馬博士によって100万馬力にまで増強されています。)アトムは、これらの卓越した能力を、人類の利益のために使い、人類に献身するのです。
アトムが放映された当時、大人も子供もアトムに夢中になり、アトムを見て、ロボット研究の道に入った研究者も多いと聞きます。事実、1980年時点では、世界のロボット総数の60パーセント以上を日本が所有しており、日本は世界の中でも「ロボット王国」と言えるのです。
日本ではとても友好的に見られるロボットですが、西洋では、ロボットに対して日本とは正反対のイメージを持たれているようです。そもそもロボットは、おそらく最も古くは、紀元前8世紀のホメロスが著した一大叙事詩『イリアス』の中に登場する、鍛冶の神ヘパイストスの助手の黄金の少女に始まるのかも知れません。ヘパイストスは身体が不自由なため、黄金の少女は彼に付き添って身の回りの世話をするのです。そして、ヘパイストスが20台の特殊ロボットに仕事を命じると、それらは協同して兜や鎧を作るのです。それは人間の命令に従い、人間に仕える存在として描かれていました。
「ロボット」という言葉自体は、チェコスロバキアの作家カレル・チャペック(1890−1938)の『ルー:ロッサム万能ロボット』(1920)という戯曲の中に初めて登場しています。

このロボットは、強制労働を意味するチェコ語のrobotaと、労働者を意味するスロバキア語のrobotonikからなる造語であり、「労働者」、「奴隷働き」という意味を持ち、この作品に登場するロボットは、最初は人間の代わりに労働して人間に奉仕していましたが、成長するにつれて人間に危害を加えて駆逐してしまう凶暴な存在として描かれており、このため西洋では、ロボットに対してなかなか肯定的なイメージが得られないと言われています。
また、キリスト教社会である西洋では、ロボットを作る行為は人間を作ることであり、人間をつくることができるのはキリスト教の神のみであると聖書に描かれているため、ロボットを作る行為は神への冒涜であると見なされるのです。 今でもフィクションの世界では、ロボットと言えば、アルミ合金で出来た身体を持ったアンドロイドタイプのものや、ぜんまい仕掛けのような非常にぎこちない動きをするロボットが多く登場します。それらは、例えば『スターウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督 1977- 米)に登場する、ロボットC−3POやR2−D2を思い起こせば十分でしょう。
C−3POは、『メトロポリス』(フリッツ・ラング監獄 1926 独)に登場したマリアに、そしてR2−D2は、『禁断の惑星』(フレデリック・M・ウィルコックス監督 1956 米)のロビーにその原型を見ることが可能です。実際、マリアやロビーは、その後のロボットに対する人々のイメージを決定づけた感があるのです。私たちが思い起こすロボットのイメージ像が、大なり小なり両者の影響を受けていることは明白です
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また、近年著しく発展している生命科学に対する社会一般のイメージ造りには、イギリスの小説家メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818)が極めて大きな陰を落としていることは間違いありません。
もともとフランケンシュタインは、生命創造の神秘の究明に身を捧げる科学者ヴィクトル・フランケンシュタイン博士を指していました。そのフランケンシュタイン博士は、生命の秘密を解明し、死体の断片から人造人間を造る事に成功したが、出来上がった人間は、身長が2メートル44センチメートルもある恐ろしい醜悪な怪物でした。
私たちは、その怪物に対して実に恐ろしいイメージを持っていますが、怪物は人間の言葉を話したり本を読むこともでき、人間と変わらない優しい気持ちも持っているのです。小説では、怪物は、文豪ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んで、ウェルテルに共感するような豊かな感受性の持ち主として描かれています。しかし、醜い姿の為に人々から誤解されたり嫌われ、人々から受ける度重なる迫害のため、やがて怪物は全人類に対して、特に自分を創造したフランケンシュタイン博士に対して憎悪と復讐心を持つようになってしまうのです。
この小説に基づいて、1931年に映画『フランケンシュタイン』が作られましたが、イギリス生まれのアメリカの映画俳優ボリス・カーロフ(1887−1969)が美しい心を持ちながら醜い姿をした怪物の悲哀を好演したため、その後フランケンシュタインと言えば、その怪物を指すようになってしまいました。
こうして、怪物としてのフランケンシュタインは、人間が踏み越えてはならない神の領域を侵そうとする時にその報いとして人間にふりかかる災いのシンボルとなったのです。このため、生命の神秘を解き明かそうとする生命科学者たちは、しばしば得体の知れない怪物を産み出そうとするマッドサイエンティストとして単純にイメージされ、お門違いの批判を受ける羽目に陥ることがしばしば起こるわけです。
例えばイギリスでは、1999年の始め、遺伝子組み替え食品の安全性の論議の際に、反対派が遺伝子組み替え食品を「フランケンシュタインの食物」と批判しており、英国のチャールズ皇太子も、遺伝子組み替え技術を批判して、「植物や人の遺伝子を操作することは、人類が神の領域に足を踏み入れようとしていることだ」と、フランケンシュタインのイメージそのままの言葉を述べています。
また、ドイツの有名雑誌『シュピーゲル』は、ヒトのDNA情報の解読を手がける国際プロジェクト・ヒトゲノム解析計画よりもいち早くヒトゲノムを解読しようとしているクレイグ・ヴェンター氏を、「フランケンシュタイン博士」と呼びました。1999年1月に開かれたアメリカ科学振興協会で、ヴェンターは、世界最小の生物であるマイコプラズマの遺伝子を利用して人工生命を作ることを論じましたが、マスメディアは、その創造物を「フランケン細胞」と扇情的な言葉で呼んだのです。
このように、ロボット工学にせよ生命科学にせよ、ある科学技術に対して一定のイメージがひとたび出来上がってしまうと、人々はその技術そのものの科学的な論議よりも、自分たちが抱いているイメージ像に基づいて判断を下そうとします。生命倫理に対しては、特にその傾向が強いように思えます。
こうしたある技術に対して抱かれている特定のイメージは、議論の本質を非常に単純化してしまうとともに、ある特定の意図する方向へ議論の矛先を向けさせるために用いられるため、誤った判断を下す危険性を孕んでいます。
人間を機械あるいはコンピュータと見なすことについても、ロボットやフランケンシュタインのケースと同じ事が言えます。人間を機械ととらえる見方に対しては、ぜんまい式時計に代表される線形的な機械、あるいはC−3POやR2−D2などのような特定の機械のイメージに基づいてその是非を議論すべきではありません。
●退屈した脳は、人間を死に至らしめる?
『機械用語大辞典』(社団法人実践教育訓練研究協会編 日刊工業新聞社)によると、機械とは「物質、エネルギー、情報を加工し、より望ましい
形態に変える装置」であると定義しています。
人間は生きていく上で、他の生物と同じように物質、エネルギーが必要不可欠であることは全く明らかでしょう。私たちは物を摂取し、それを体内でエネルギーに変換して、そのエネルギーによって一切の生命活動を行っています。物質、エネルギーは生きていく上で必要不可欠であり、生を営むあらゆる存在は、体内でこれらを自分たちの生態系に応じた形態に変換して使用しています。
では、情報は生きていく上で必要でしょうか。
情報を外部から入手することを全く遮断された世界でも、食物さえあれば生きていけるのではないでしょうか。日常生活においては、全く自分が身体を動かさない状態に置かれていたとしても、聴覚や視覚、嗅覚などを通じて某かの情報が入ってきます。こうした情報も遮断してしまった生活を送ったとしても、食物さえあれば、生きていけるのではないでしょうか。
しかし、それは不可能なのです。私たちが生きていく上においては、物質やエネルギーと同様に、情報もまた必要不可欠であり、私たちは、情報を外部から取り入れ、それを自己内で加工して外部に出さないと生きていけないシステムなのです。

感覚器を通じて得られる外部からの情報を遮断されると、脳が異常な働きを行うことが臨死体験に関係する研究からよく知られています。
また、米テキサス大学の精神性理学者オーガスティン・デラペナは、脳に提供される情報が少なすぎた場合、脳は自ら体内の器官にガンをつくるように指令するという仮説を唱えています。
彼によると、私たちは起きている間、常に様々な感覚器を通じて周囲から大量の情報を入力し、それを脳内で活発に処理しています。
しかし、外部からの情報が遮断され、新しい情報が入って来ない状態が続いた場合、脳は活発に活動するための情報源が入ってこないために耐えられなくなり、自ら新しい情報を作り出そうとします。例えば、体内の器官を構成する組織に化学物質のでたらめなメッセージを送り込ませて、組織にそのメッセージを新しい情報源として、ガンのような病気の原因となる物質を作らせるように仕向けるのです。すると、脳は、ある時点から体内の異常に関する情報を受け取るため、脳はそれらの新しい情報を手に入れて、再び活発に活動を開始すると言うのです。
かつてドイツのフレデリックU世は、乳児の言葉は学習で獲得されるのではなく、生まれつきの生得的なものであると唱えました。彼は、この自説を検証するために、乳児をたくさん集めて、生理的な欲求は全て満たすようにするが、できるだけ乳児と接触を避け、しかも無言で乳児たちに話しかけないように仕向けました。その結果、乳児たちは、声を発するどころか、なんと全員が死んでしまったのです。
これもまた、脳に送り込まれる情報が極めて少ないため、この場合は特に脳を活性化させるために最も必要な「情動系」−後述−を活性化させる情報が極めて枯渇していたために、脳の活性化が落ちて脳の発達が極めて遅れ、その結果免疫活性も下がり、様々な病気を引き起こしたのです。
私たち人間は、脳を活性化させる情報を持たずしては生きていくことはできないのです。これらのことからも、私たちは、「物質、エネルギー、そして情報を常に入手して、自己内で新しい情報に処理するシステム」なのであり、その意味においてまぎれもなく「機械」であると言えないでしょうか。
●アルツハイマー病とフィネアス・ゲージ
それでも、「人間は他の生物とは異なり心や意識を持っているので、機械ではない」と主張する人たちも少なくないようです。
しかし、最新の科学の諸分野から得られる膨大な知見は、そうした主張が根拠を持たない全くの独りよがりであることを示しています。要するに、「人間は心や意識を持っているから機械ではないのだ」というはかない主張には、それを支持する合理的な根拠が何もないのです。
この問いは、古今東西を問わず、多くの哲学者の知的意欲を大いに駆り立ててきました。6000年前のエジプト王朝では、心の座は心臓にあると考えられており、脳は、ミイラを作る時に鼻腔から掻き出されていました。心と脳の哲学的解釈としてその後の人々に大きな影響を与えたデカルトは、心や意志の根源を、脳の中の視床上部にある球状をした小さな器官、松果体に求めました。彼は、左右一対になっている脳組織の中で松果体が一個しかなく、精気と考えられていた髄液に囲まれていることから、松果体こそが心や意識の源であると考えたのです。もっとも、脳下垂体のように中央に一つしかないのは、松果体以外にも存在しますし、デカルトが心を持っていないと考えていたヒツジのような動物の方が、人間よりも大きな松果体を持っていることが既に分かっており、デカルトよりも100年前のヴェサリウス(1514−1564)は、心と松果体の関係を否定していました。
心の正体を松果体に求めるデカルトの主張は全くの見当違いでしたが、デカルトが主張した、物質と精神が別物であるとする「心身二元論」の考え方は、当時の哲学者たちの一般的な考え方でした。しかし、近年の脳科学における多くの研究結果は、「心や意識は脳活動のプロセスであり、脳活動を制御するのも脳活動である」ということを示しています。つまり、心や意識を追求するために、脳活動以外の何か特別な代物−その代表例が魂でしょう−など取り扱う必要などないのです。
現代の脳科学は、心身二元論を真っ向から否定し、心身一元論を支持しています。もっとも、全ての脳科学者たちが心身一元論を支持しているのではなく、一部には心身二元論を支持する脳科学者たちもいます。例えば、神経細胞間の刺激の化学的方法の発見により1963年にノーベル生理医学賞を受賞したオーストラリアの生理学者、J・C・エックルス(1903−)もその一人です。
また、人間の脳の働きを臨床医学の立場から追求し、多くの知見を与えたことで広く知られる脳外科医、ワイルダー・ペンフィールド(1891−1976)も心身二元論を支持していました。彼は、『The
Mystery of The Mind』(邦訳『脳と心の正体』 法政大学出版局)の中で、てんかん患者の脳の電気刺激に対する反応などを調べて、「人間の脳には、複雑な仕事を自動的にやってのける一種のコンピュータ装置が内蔵されている」としながらも、心と脳の関係について、下記のように喝破しています。
「脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だと私には思える。・・・さらに、コンピュータ(脳もその一種である)というものは、独自の理解力を有する外部の何者かによってプログラムを与えられ、操作されなければならない。以上の理由から、私は、人間は二つの基本要素から成るという説を選択せざるをえないのである。」
ペンフィールドのこの言葉は、彼が明確な心身二元論者であることを示しています。しかし、ペンフィールドの誤りは、神経作用で脳活動が説明不可能であると信じていたことと、脳を自己言及的で創出性のあるコンピュータと考えなかったことにあると思われます。
デカルトやエックルス、ペンフィールドたちは、心や意識を「実体」ととらえていましたが、心や意識は実体ではなく、プロセスなのです。ここに心身二元論の大きな誤りがあります。
アルツハイマー病という病気があります。これは、今から約100年前、ドイツのアロイツ・アルツハイマーが、強い記憶障害を持ち、自分がどこにいて何をしているのかさえ分からない状態にある51歳の女性を、彼女が死ぬまでの5年間詳細に観察し、その結果を報告したことで知られるようになりました。
アルツハイマー病にかかると、知覚や感情から熟慮に関する機能に至るまでほとんど全ての認知機能が衰えていき、ついにはほぼ完全に消失してしまいます。この病気の患者の死後に脳を解剖してみると、患者の脳は、神経細胞があらゆるところで癒着や混線を引き起こしており、ニューロンの壊死とシナプスの破壊が広範囲に亘って起こっているのです。
このような病状を示すアルツハイマー病は痴呆の典型的な病気で、この病名を表す言葉は、「痴呆は心の崩壊である」ことを表しているのです。この「心の崩壊」と表現されるアルツハイマー病の原因は、従来は大脳の萎縮によるものと考えられていましたが、近年、核磁気共鳴装置(MR)や陽電子断層撮影法(ポジトロン断層装置:PET)を使うことによって、アルツハイマー病は、海馬、扁桃核、腹側線条体の崩壊により、これらによって制御されている大脳の連合野が機能障害を起こすために発病することが明らかとなったのです。
また、1848年に起こったフィネアス・ゲージの事件は、脳と心の関係を明確に示す事件としてつとに有名です。当時、アメリカのバーモント州で工事現場の監督をしていた25歳のフィネアス・ゲージという青年が、工事現場で作業員のミスによる火薬爆発事故に遭い、太さ3センチメートル、長さ109センチメートル、重さ6.2キログラムの鉄棒に頭を突き抜かれてしまったのです。
鉄棒は、彼の左の頬から頭頂部にかけて突き抜けましたが、幸い彼は一命をとりとめることができました。しかも、彼は事故後、歩くこともできたし、非常にしっかりとした口調で事故の様子を語ることもできたのです。この事故は当時、さまざまなジャーナリストが取り上げて話題にもなりました。
ゲージは、その大惨事が起こって脳の一部を失ったにもかかわらず、左視力は失われていましたが見ることもできるし、聴くことや両手を使って会話をする事もでき、一見普通に見え、問題は見あたりませんでした。ただ一つの事を除いては。
それは、人格と理性の崩壊でした。
事故前のゲージは、将来を嘱望されるような非常に有能で、性格や知性や外観までも何をとっても周囲に認められるほどの優れた逸材でしたが、事故が起こってからしばらく経った後、ゲージは刹那的で、優柔不断で、暴力的、動物的であり、著しく品位に欠ける言葉を終始吐き、あたかも獣のような人間になってしまったといいます。
そのため事故後のゲージは職を失い、各地をさまよったあげく、ニューヨークのサーカスの見せ物小屋で、頭の傷口と自分の頭を貫いた鉄棒を見せ物として生活していました。その後は母親や妹と暮らした時期もありましたが、最後はてんかん発作を起こして1861年5月に息を引き取ったのです。
この「おぞましい出来事」−当時のジャーナリズムがこの事件につけたタイトル−の前後でゲージの運動能力は変化こそしなかったものの、性格や知的活動の変化は劇的でした。
この性格や知的活動の変化が、奪われた脳に原因があることは確実でしたが、あれから約120年後、神経科医のハナ・ダマシオがゲージの頭蓋を基にしてシミュレーションを行いながら、ゲージの脳を再構築することに成功しました。これによって、ゲージの知的活動能力に劇的な変化をもたらしたのが、彼の脳の前頭前皮質の損傷によるものであることを確認したのです。
これらの事例からも、心が脳の活動と対応しているのはまず間違いありません。他にも心と脳の活動の対応を裏付ける事例はいくらでも報告されています。心が脳の活動とどのように対応しているのかについてはどんどん明らかになりつつありますが、まだ完全に解明されるには至っておらず、まだまだ道のりは遠いと思われます。
しかしそれでも、これまで明らかになっている知見から言えることは、心は脳と切り離した特別な存在などではないということです。
●生物コンピュータとしてのヒト
外界からの情報を受ける事により、生物は様々な行動を起こします。原核生物である細菌は、べん毛を動かして特定の化学物質の方向へ移動し、アメーバは針でつつくと反対の方向へ逃げます。多細胞生物は、受容する細胞と行動する細胞の分化が始まり、両者は神経系によって連結されます。
最も原始的な神経系はヒドラやイソギンチャクなどに見られ、ニューロンは体内の各部に分布しています。プラナリアのような扁形動物では、ニューロンは集中化し、頭部に神経節と呼ばれる一対のニューロンの塊が存在します。これが脳の前段階だと考えられています。
この神経節から後方に2本の神経策が伸びており、この神経策のニューロンがさらに横に連なって神経系となっています。さらにミミズのような環形動物になると、ニューロンの集まりである神経節が体節ごとに存在します。その中でも特に咽頭下神経節は大きく、その神経節から神経策が伸びて咽頭上神経節、すなわち脳につながっています。
つまり、脳と呼ばれるものは、ミミズのような環形動物から存在することになります。
また、魚類、は虫類、ほ乳類などの脊髄動物になると、神経系は脊髄と脊髄の先端部が膨らんだ脳とに分かれ、脳と脊髄の重量比は、は虫類ではほぼ1対1ですが、ウマでは3対2、ゴリラでは16対1、そしてヒトでは49対1となり、ヒトでは脳が著しく拡大していることが分かります。
さらに脳は霊長類でさらに著しく拡大しますが、それは脳自体が大きくなっているのではなく、大脳新皮質の著しい発達によります。脳に占める大脳新皮質の割合は、原始的なほ乳類では10〜15%程度ですが、サルでは約70%、ヒトでは実に80%にも及びます。この大脳新皮質で、知覚や認識、記憶や言語、思考などの高次の知的作用が行われるのです。
ヒトの 脳は極めて特異な情報処理システムですが、同じ情報処理として、私たちはすぐに情報処理システムであるコンピュータを連想することができます。
確かに人間の脳をコンピュータにたとえる学者も多いですが、逆に人間の脳はコンピュータには決してまねできないと主張する学者もいます。それは、脳とコンピュータは情報処理という点では同じであっても、両者の機構があまりにも違うためです。
現在、私たちが用いているコンピュータ−古典的なコンピュータ−はノイマン型コンピュータですが、このコンピュータは通常、コンピュータ一台に1個のCPU(中央演算装置)を持ち、全ての命令を順序立てて一つ一つ逐次的にこなしていく手順をふみます。このような処理を「直列処理」と呼びますが、人間の脳は明らかに「並列処理」です。
確かに、脳に入ってくる情報は、例えば視覚情報の場合、網膜から第一次視覚野、第二次視覚野・・・と逐次的により高次な処理がなされるので、その意味では直列処理ですが、それらの情報は多岐に分かれて、それぞれが並列で処理されていきます。さらに、各々の視覚野では、1億個ものニューロンが情報を受け取っては、それぞれが演算処理を行っていくのです。つまり、脳に入ってきた情報は、脳の各分野で直列的かつ同時に超並列的に処理されるわけです。
このような、生物の脳に見られる並列分散処理は、常に変化している環境に生物がうまく適応するためには、必要不可欠なメカニズムなのです。なぜならば、生物の脳が直列処理であれば、環境に適応するための情報処理を逐次行っていかねばならず、その処理は非常に面倒で、かつ長時間を費やす必要がありますが、脳が並列処理であれば、無数の情報処理を同時に実行することが可能であり、環境の変化に対して迅速な対応が可能となるためです。それは、脳が複雑になり、情報処理量が多くなればなるほど深刻な問題となります。
しかし、おそらくより根本的かつ致命的な理由は、脳が直列処理型コンピュータであれば、途中の結線がほんの一つでも切れるようなことになれば、間違いなくその生物は深刻な状態に陥るでしょう。それに対して、脳が並列処理型コンピュータであれば、多少の結線−脳内のシナプス結合−が切れていても−実際にそれは我々の脳内でも日常茶飯事で起こっていますが−そのために脳の機能が深刻な低下あるいは停止を見せるようなことはほとんどありません。従って、生物の脳の処理システムは、必然的に並列型処理なのです。
また、現在のコンピュータは、計算装置であるCPUとは別に記憶装置を持っています。それが多数のCPUからなる超並列コンピュータであったとしても、データはそのプログラムも含めて特定の記憶装置に納められ、その記憶装置からデータをCPUに逐次呼び出して処理します。
それに対して脳は、主にニューロンと、それを支えて養うグリア細胞から成り立っています。グリア細胞は、ニューロンを成長させたり維持したりするための様々な因子を分泌するとともに、ニューロンとニューロンの間の電気絶縁性を保つ役割をしています。
グリア細胞によって支えられた無数のニューロンは、お互いに極めて複雑につながりあうことによって、非常に精巧な神経回路網を形成しています。脳内の情報処理は、これらのニューロンから形成された極めて複雑で精密な回路網によって行われています。そして、脳内の無数のニューロンは、各々がCPUと記憶装置の機能を持ち、無数の記憶装置の中から情報を引き出して一つの統一された情報を出力します。一つのニューロンは1万個以上のシナプスを持っており、そこで他のニューロンから信号の入力を行います。
そのようなシナプスが、大脳皮質のわずか1ミリメートル立方内に約10万個存在し、それらが10〜15キロメートルにも及ぶ軸策突起を延ばして、10億個ものシナプスを介して結合しあい、超精密な集積回路である脳を形成しているのです。
ニューロンは情報処理の基本素子ですが、それは1万個以上の端子から入力を受け取り、ただ一つの端子から出力を果たします。
つまり、ニューロンは、超多入力一出力素子なのです。
このため、入力は樹状突起のような多くの突起を用いて行い、遠くの出力端子までも減衰せずに情報を送れるように軸策を通っています。軸策は髄鞘と呼ばれる絶縁性の鞘に覆われ、情報を高速で送ることを可能にしています。その速度は、髄鞘のない無髄神経では毎秒1メートル程度ですが、髄鞘神経では毎秒100メートルにまで達します。しかも各々1個のニューロンは演算機能と記憶機能を持っており、いわば一つのニューロン自体がコンピュータなのです。

(『応用物理』第68巻第8号(1999)より改写)
<情報処理システムとしての脳とコンピュータの比較>
| |
脳 |
コンピュータ |
| 目
的 |
アルゴリズムの獲得 |
出力 |
| アーキテクチャ |
メモリーベース |
プロセッサベース |
| 出力時間 |
入力に最も適合するアルゴリズムを検索するのに要する時間 |
処理ステップと基本素子(プロセッサ及びメモリースピードの積) |
| 情報処理の特徴 |
ソフト
脳が入力を得て出力することが必要であると判断する時に出力 |
ハード
入力を処理するプログラムが予め与えられている時に出力する。プログラムがないと、何もできない。 |
| 大規模問題への対応の仕方 |
追加学習能力によりアルゴリズムを階層構造化することで対処 |
ソフトウェア(プログラム)開発とそれを支援するハードウェアの発展によって対処 |
| 基本素子 |
基本的には単一基本素子 |
処理の特異性に応じた各種プロセッサが必要 |
| エネルギー消費 |
極めて低い(数〜数十ワット) |
計算処理能力とスピードの向上に伴い増大 |
|
すなわち、1000億個以上のニューロンが存在する脳とは、1000億個以上のコンピュータが並列配列された超並列コンピュータに相当するわけです。しかも、それらのコンピュータは、各々が常に臨機応変につながる相手を代えていきます。まさに、脳は、極めて複雑で精密な超巨大情報処理システムであると言えるのです。
さらに、コンピュータはソフト面としての情報処理の方法だけでなく、ハード面でも脳と異なります。現在のコンピュータは、CPUと記憶装置の配線は固定されており、人間が外から手を加えない限りその配線は変わることはなく、しかもプログラム稼働であるため、プログラムされている処理は実行できても、プログラムされていない処理は全く行うことができません。コンピュータに演算処理を行わせるためのプログラムは、コンピュータ自身が作るのではなく、人間が作ってインプットしてやらなくてはなりません。
しかし、脳は、外から入ってきた情報によってニューロン同士の結合の仕方がダイナミックに変わり、ハード面が容易に変化します。ニューロンとその回路網は、常に変化しています。そして、各々のニューロンの働きは、他のニューロンとの関係の中で決められるため、新しく作られたニューロンの回路網は、その中に含まれるニューロンの働きをさらに変化させます。
こうして、脳という情報処理装置は、常に新しく入ってくる情報を処理することにより、常に回路網の構造を変化させ、しかも回路網の変化がさらに情報処理を変化させていくのです。また、コンピュータが外部からプログラムをインプットされるのに対し、脳は自分で自分自身をプログラミングします。すなわち、脳は、問題意識や問題設定を自ら作り上げているのです。
こうしたニューロンのネットワークの性質は、他のところで述べた、生命の本質である自己創出性そのものです。
生命は、常に自らが自己を創出しなければ生きてはいけません。
生命体を取り巻く環境は、瞬間瞬間常に変化しており、生命体は常に新しく経験する環境に瞬時に適切に対応していく必要があるからです。中には、予測を越える環境の変化も起こり得ます。
そのような予測を越える環境変化の中で、新しい環境条件にうまく適合していくためには、常にプログラムを自ら作り出していかなくてはなりません。プログラムが固定されていると、応答の変化が一定となり、環境の変化には対応できなくなるからです。 |