生命のデザイナーたち(下)

●生物の進化の正体は「創造技術の進歩」
●「鳥にも人間に似た美的な感性があるのだろうか?」
●自然選択は数学者を産むか?
●サルに言語能力を付加して創られたヒト
●大脳新皮質のコラム構造と「神のプログラム」
●ヒトは「快楽」を求めるようにつくられている


「ヒトの全てが分かると、
 ヒトがつくられたものであるということが分かってしまう」
  (ルネ・デカルト)

●生物の進化の正体は「創造技術の進歩」
 新しい自然観は、新しい社会的な秩序をつくり出す一つの大きな要因です。キリスト教社会であった西洋社会は、長い間神が全ての自然や社会的な課題における唯一の判断基準でした。しかし、19世紀後半に世に送り込まれたダーウィンの『種の起源』は、科学界を進化論へと改宗させ、その後の人々の世界観に決定的な影響を及ぼし、今では、自然や人間性、社会的秩序に対する考え方にも進化論の影響が著しく反映されており、私たちは、人類が直面している様々な問題に対しても、進化という自然観を基準にして考えています


 20世紀に現れ、多くの人々に大きな影響を与えた種々の優れた論考も、その内容がいかなるものであっても、その考え方や見方が進化という自然観から逃れることは一切あり得ませんでした。人類はこの一世紀半もの間、「進化」という自然観に従って、科学的秩序、社会的・文化的秩序などあらゆる人類の指針を決めてきたのです。進化論は人類のあらゆる営みの隅々にまで非常に深く浸透しているため、人々は、自分たちの指針が自然の秩序を反映したものであり、そのために十分に正当化でき、かつ必然的なものであるととらえることができたのです。

 他のところでも述べたように、科学の世界でも、ある特定の専門分野の中にパラダイムが出来上がると、そのパラダイムに従った自然界の姿しか見えてきませんが、一般社会においては、その傾向はより強く現れ、いったん新しい自然観が幅広く受け入れられてしまうと、社会や経済、文化の諸問題を巡ってより深い考慮を行う可能性はほとんど全くなくなってしまい、社会全体がその自然観を、あたかも一つの信仰体系のように無批判的に受け入れてしまうようになります


 従って、新しい自然観が人々に受け入れられるかどうかは、その新しい自然観が、その時代や社会、文化の中で生きる人々が自分たちの行動を、旧来の自然観よりもより一層強く正当化してくれるようなものでなければなりません。

 私たちは、今でも、DNA遺伝学さえも知らなかった、私たちから見ればとても原始的な社会の一員であった一人の博物学者が唱えた仮説に、骨の髄まで翻弄されています。この仮説は、それまでの農業社会から産業革命によってようやく工業社会へと突入した時代背景が大きく影響しており、その後常に右肩上がりで歩んできた世界に住む人々にとっては、とても親近感が持てるものであったに違いありません。

 進化論は、「進歩を発明した」(ピーター・J・ボウラー)ヴィクトリア朝時代のイギリスにおいて誕生した一つの価値観でしたが、現代社会に生きる私たちは、今のこの時代背景が、進化論が提唱された時代のものとことごとく異なっていることに気づく必要があります。

 当時は、親から子供へどのようにして特質が遺伝するかも分かっていませんでした。当然ながら、遺伝物質の本体がDNAであることも知らず、進化という仮説を説明できそうなものとして、僅かながらの不完全極まる化石しか持ち合わせていませんでした。今から見れば、生命の起源を追求するには、知識も情報量も極めてお粗末としか言い様のない状況の中で、進化論が作り出されたのです。


 ダーウィンは、当時はとても斬新なアイデアだったに違いない自然選択を人々に納得させるために、『種の起源』の「飼育栽培下における変異」と名付けた第1章で、栽培植物や家畜の変異と人為選択における成功事例を紹介しました。

 人為選択を彼が紹介したのは、飼育栽培などで行われているように人工的に変異をつくることができるのであれば、人間の手を経ない自然の世界の中でも、状況に応じては選択が働いて変異が生まれるはずだという事を、間接的に証明しようとしたからです。もちろん自然の中では、人工的な飼育栽培のような選択が働いて変異ができる確率はずっと少ないでしょうが、その確率の低さは、長い時間をかけて行われると考えることによって補強することができたのです。


 第1章にこの話題を持ってくることにより、『種の起源』の読者はまず最初に、人工的に選択を働かせて変異をつくることができるのであれば、自然界では、たとえその確率が小さくても、長い時間をかければ変異ができ、いずれはもとの種とは異なった新しい種が生まれる可能性もあるだろうと認めざるを得なくなります。ダーウィンは、当時既に行われていた人工的な選択とのアナロジーによって、自然の世界でも選択が起こっているという自説を訴えたのです。

 ならば、ダーウィンが用いた人工的な取り組みと自然界とのアナロジーを、現代風にアレンジしてみることは、決して奇異なものではなく、至極当然の成り行きに思えます

 ダーウィンは、生命の改変を人工的に行う例として飼育栽培や家畜を選びましたが、当時のこれらの品種改良の技術は、人工的に制御するパラメータが今よりもずっと大雑把であり、改変の結果は全くの偶然性に頼っていました。しかし、今の時代に生きる私たちは、150年前の時代から比べれば、生命の起源を追求するための遥かに多くの知識と情報、そして技術を持っています。

 私たちは、遺伝子の本質がDNAであり、その構造を原子レベルまで詳細に知ることができ、また無数につながった遺伝暗号も殆ど全て解読して、それらがある一定の規則に従って配列しており、その生物の様々な特性を決定する基本的な情報を提供していることも知っています。
また、個体の身体から一つの細胞を抜き取って、そこから遺伝的に全く同じクローンを作出することにも成功しており、ヒトのクローニングも技術的に可能であることを既に知っています。

 私たちは、近年著しい発展を見せているバイオテクノロジーによって生命を新しく創造する段階にまでは至っていなくても、現存する生命に手を加えて、自分たちがデザインした通りに生命を改造する技術を手に入れることに成功しています。昨今の新聞記事は、そうしたバイオテクノロジーのニュースで溢れかえっています。

 当時の品種改良は、昔ながらの伝統的なバイオテクノロジーとでも言うことができるでしょうが、この技術では、交配する生物種は常によく似た近縁の生物種の間に限られ、しかも交配できる対象も非常に限られていました。しかし、現代のバイオテクノロジーは、ヒトの遺伝子をヒツジや大腸菌の遺伝子に組み込んだりしており、伝統的なバイオテクノロジーのように近隣種でなければならないという制約は全くなく、またその対象はあらゆる生物種にまたがっており、それまでにはなかった全く新しい変異を作出することも可能です。

 ダーウィンは自分の著作の中で、人工的な世界と自然の世界とのアナロジーを用いて、自然の中でも選択が働くことを主張しましたが、もし今の時代に彼が生きていて、様々な最先端のバイオテクノロジーを見ることができたとしても、やはり彼は、150年前と同じように、再び自然選択の妥当性を感じることができたでしょうか。


 現代は「生命改造の時代」に突入しており、このまま行けば、近い将来、必ずや「生命創造の時代」がやってくることは、誰にでも容易に予測できるはずです。そのような時代にふさわしい生命の起源を説明する説は、自然選択などではなく、人工的に生命が創造されたと見なす説ではないでしょうか

 生命は人工的に誰かにデザインされて創造されたものである
・・・この説ほど、著しく発展しているバイオテクノロジーを所有している現代社会にふさわしい生命起源説は、他には存在しません。


 「生物の進化」を「創造の進歩」と見なすことは、専門分野が極めて細分化された現代科学においてでさえ、単なる一つの専門領域内でおこるパラダイム変革におさまらずに様々な分野にまで影響を及ぼし、コペルニクス革命か、あるいはそれ以上に匹敵する大革命になることは間違いありません。進化論が生物学という一つの分野のみにおさまらずに、社会、文化、個々人の世界観にまで影響を及ぼしたように、生命の起源に対するこの全く新しい見方も、人間が営む活動のあらゆる領域に著しい影響を与えるはずです。

 私たち生物自身をデザインの対象とするバイオテクノロジーの急速な発展は、「私たちは一体どこに向かおうとしているのだろうか」と、私たちを不安にさせることがありますが、実はこうした世論の声は、これまで経験したこともない新しい科学技術に見合った、新しい価値観、新しい自然観を人々が必要としていることを端的に表しているのです。

 人々は、自分たちの行動が自然の理に適合したものであることを確信させてくれて、科学的、社会的・文化的秩序などのあらゆる指針を決定してくれる新しい自然観を、常に望んでいます。しかしながら、進化論は、もはや現代人のそうした欲求に十分に応えることはできなくなってきています。すなわち、今こそ、新しい自然観、自然科学上の新しいパラダイムが必要な時なのです。

 ゲーテが述べたように、私たちは「知っていることだけしか見えない」ため、これまでの進化論という知識体系ではまるで見えなかった新しい「事実」が、ここで提唱する新しいパラダイムに従えば、次から次へと見えるようになってくることを実感するはずです。 アヒルの中にウサギを見るように、進化と思われた生物の変遷の中に、知性による創造の痕跡を見てとる事ができるのです。

 私たちは、まもなく自らの手で新しい生命を創り出そうとする時代に必ず突入するでしょうが、もし私たちが生命を創造できるのであれば、過去にもこの地球で同じような出来事が起こっていたと考えることに理論の飛躍はないはずです。そして、それは科学が成立するための条件としての「再現性」を意味しています。

●「鳥にも人間に似た美的な感性があるのだろうか?」
 さて、ここからは、「生命の創造が過去にも行われていた」ということについて述べていきたいと思います。
 しかし、その前にどうしても触れておかなくてはならないことがあります。すぐ上にも記したように、「もし私たちが生命を創造できるのであれば、過去にもこの地球で同じような出来事が起こっていた」と考えることは、特に突飛な飛躍でもないように思えます。
 ここで、「過去にも地球で生命の創造が行われた」ことについては、これまでにも国内外の多くの人たちが、過去に生命の創造があったと主張してきましたが、それらはまともに取り上げられることはありませんでした。

 そうした中で、私が数年前から興味をもっているのが、元フランスのジャーナリストだったラエル(1946−)が主張している「異星人による生命の創造」です。

 これについては、別jのところで述べているので、ここでは簡単に紹介するだけにします。彼によると、ヒトも含めて地球上の生物は、「エロヒム(Elohim)」と呼ばれる「天空より飛来した人々」、すなわち異星人によって創造されたことになっています。

 「エロヒム」という言葉は日本人には馴染みのない言葉でしょうが、ユダヤ−キリスト−イスラムといった世界の主要な宗教には、極めてなじみの深い、いやそれらの宗教の根幹を形成する、極めて重要な言葉なのです。

ラエルは、生物たちがなぜこのような芸術的なセンスを持ちうるのかを次のように説明しています。

科学者たち(引用者注:地球にやってきたエロヒム)は、この素晴らしく巨大な実験場(引用者注:地球)で、まったくの化学物質だけから植物の細胞を創造しました。これから、あらゆる種類の植物が得られたのです。

・・・ある種の植物を、見た目にしろ、香りにしろ、もっぱら美しく好ましいものにするため、超一流の芸術家たちも科学者の仲間に加わりました。

・・・彼らが魚の次に創造したのが鳥です。ここで言っておく必要があるかも知れませんが、芸術家たちが鳥の色や形を奇抜な、あっと驚くようなものにすることにもっぱら楽しみを見いだしたため、ごてごて飾りたてられた羽根が邪魔になって、ろくに飛べない鳥が中にはありました。
」(『真実を告げる書』)

 植物や動物が、生命維持のための自己保存と種族保存という目的以上の芸術的なセンスを備えている理由がここにあります。もし、エロヒムの科学者たちだけで生物をつくっていたならば、地球上の生物は、今とは全く違った形態と機能を持っていたに違いありません。

 私たちの世界でも、何かを設計して作り上げる際には、技術者デザイナーがお互いに協力しあいます。技術者は様々な技術を駆使して、デザイナーが考案したデザイン通りに巧妙に目的物を作り上げていきますが、エロヒムも、デザイナーである芸術家たちと技術者である科学者たちが協業で地球上の生物を創造していったと見なすことはできないでしょうか。

 おそらく、エロヒムの芸術家たちは、自分たちの卓越した直感に従って、自由に生物の外観や機能をデザインしたことでしょう。そして、科学者たちは、種を絶滅させないように生態学を取り入れながら、芸術家たちが考案したデザイン通りの形態と機能をどのように生物に付与させればよいかと考えたことでしょう。

 科学者と芸術家との組み合わせは一見奇異に見えるかも知れませんが、両者が対極の場にあり、目的や方法も排斥しあっているという、今日一般に受け止められている見方は、科学革命が起こった後の18世紀から19世紀にかけての時代に端を発しています。すなわち、科学は測定しうる属性と合理的な理論と客観性を重んじ、芸術のような感覚的で主観的で曖昧なものは極力排斥するという見方です。

 しかし、こうした見方に対して、伊藤俊治氏は、『共振する芸術と科学』(『思想としての科学/技術』岩波書店)の中で、「芸術の基礎はイメージの形成であり、それはまた科学の基礎でもあって、イメージは我々の思考や感情の出発点となる。・・・科学はイメージの構造法則へ強い関心を寄せ、芸術はイメージの感覚的体験へ特に関心を寄せる。そしてこれらのスタンスは互いに背反しあう必要はなく、共存しうる」と指摘しています。そして、「芸術はその意味において様々な科学理論に共通する構造的調和に、ある直感力を与えることができる」としています。

 アインシュタインは、ドイツ生まれの詩人ウィリアム・ヘルマンスとの対話の中で、「私の宗教は、不可知にみえるものを知るために、できるだけ自分の思考機能を使うことだ。本を読んだり事実を集めたりすることが、決して科学的発見につながらないということを考えてみたことがあるかね? 直感こそ、成功の根本的な要因なんだ」(『アインシュタイン神を語る』ウィリアム・ヘルマンス著 工作舎)と述べ、科学における直感の重要性を強調しています。アインシュタインが偉大な科学者、思想家である一方でヴァイオリニストであったことも、科学と芸術の共通点を示す象徴であるように思えます。

 エロヒムの芸術家たちが動植物をデザインしたという事については、もう一つ興味深い例があります。鳥の求愛行動は非常にユニークで、ある種のユーモラスすら感じる場合があります。

 極楽鳥やパラダイスの鳥と呼ばれる、ニューギニアに棲むフウチョウの雄は、実にユーモラスなダンスを行って雌に求愛する事で知られています。彼らは雌に求愛する場所を見つけると、お気に入りの雌の前で、自分のベールやマント、扇、長い裾、頭の裸出部や肉冠を特に引き立たせます。そして、背筋を垂直に伸ばして、前後して踊り、止まり木を軸にして鉄棒の大車輪のように回転し、一方の側から他方の側へと振り子のように揺らします。また、羽根を花のように広げたり、扇を開いたり、羽毛の髭や胸飾りを開いたり閉じたりして、一生懸命雌の気を引こうとするのです

 私は以前、このフウチョウの雄の求愛行動をビデオで観たことがありますが、その実にユーモラスな動きに笑いを禁じ得ませんでした。このフウチョウの求愛行動については、ダーウィン自ら、生存競争において全く意味がないばかりか、害ですらあると述べているのです。

 また、南アメリカに棲むイワドリの雄たちは、観客として集まった雌たちの前に設けられた「お立ち台」の上に、一匹ずつ次から次へと現れては、媚びをたっぷりふりまきながら踊って見せるのです。イワドリの求愛行動に関して、ロバート・ションバークは次のように紹介しています。「この美しい鳥の群れ全体が、大きな岩のなめらかで平らな表面の上で、ダンスの会を催した。・・・雄の一羽が岩の板の上を特別な動きであらゆる方向に歩く。やがてその雄鳥は翼を半分広げ、その時に頭をあらゆる方向に傾け、風切り羽で硬い石を引っ掻き、速くあるいはゆっくりと常にある一点から上に跳ね上がる。それから尾羽を広げ、媚びるような歩調で舞台の上をもう一度気取って歩いた。ついにこの雄は疲れ切ったようになると、ふだんの声とは違った音を一声出し、近くの枝の上に舞い上がって、次の雄にその場を譲った。しばらくして、2番めの雄がやはりダンスのわざと優美さを見せたのち、彼もまた第三の雄に場を譲った。」(『動物の性生活』ヘルベルト・ヴェント著 博品社)

 フランスの著名な博物学者G・L・L・ビュフォン(1707−1788)が「自然の最高傑作」と絶賛したハチドリは、その美しさととても素早い動き、アクロバット的な空中ダンスで多くの人々を魅了してきました。そのハチドリの雄が求愛する時、彼らの羽ばたきは、1秒間に200回にも達します。彼らは、空中で曲線を描いたり、垂直に急上昇したかと思うと真下に急降下し、ターゲットの雌の前でピタリと止まる、実に見事なアクロバット飛行を演じます。そして、雌が自分に気を許すまで、ずっと雌の前でホバーリング飛行を続けるのです。

 他には、オーストラリアの奥地に棲むマダラニワシドリの雄が、柴を集めて地面に枝を突き刺して雌に求愛するための小屋をせっせと作ったり、クジャクの雄が雌に見事な尾羽を見せびらかしたりと、鳥の求愛行動は実に多種多様であり、個別ごとに説明する必要がありますが、それらのユニークでユーモラスな動き一つ一つに自然選択が働いているとは到底考えられません。

 フウチョウのユニークな求愛行動を見た最初の人物であり ダーウィンと時を同じくして独立に自然選択説を思いついた事で知られる、イギリスの博物学者A・R・ウォレス(1823−1913)は、フウチョウの雄の求愛行動を見て、「それが何の役に立つのだろう。鳥にも人間に似た美的な感性があるのだろうか」と自問していますが、この素朴な疑問は、生命の起源の本質を見事についています。その疑問は、先ほど述べた、蝶や貝類自身が決して感じることができないはずの微妙な色合いを、それらが身に付けているという現実と深い関係があります。

 それらの微妙な色合い、美しい色調を感じるためには、人間が持つほどに高度な知覚機能が必要です。すなわち、動植物が持つ芸術的な形態や機能、鳥類の独創的な求愛行動は、その動植物たち自身が固体保存や種保存のような生命を維持するために必要として獲得したのではなく、むしろ、あたかも私たち人間が見たり聞いたり、匂ったりして楽しむために存在しているかのように感じられるのです。

 生物は、生命を維持させるために形態や機能が合目的的につくられていますが、決して全ての形態や機能が合目的的にできているわけではありませんでした。そして、その理由こそが、エロヒムが極めて高度な遺伝子操作技術を用いながらも、自分たちの芸術的センスに従って生物を創造したことを示していたのです。

●自然選択は数学者を産むか?
 こうしてエロヒムの科学者たちと芸術家たちは、自分たちの創造意欲に任せて様々な生物種を創っていきました

 進化論では、これらの生物は全て突然変異と自然選択による産物であり、最も原始的な単細胞生物からヒトにかけて全てが連続した漸進的な進化によって生じたものだと論じています。しかしながら、ことヒトにかけては、他の生物種から単純に連続して発生してきたと考えること自体が極めて困難であることが分かります。

 生物の根本的な目的が「生命の維持」であることは、前に説明しました。そのために一個体としての生命に限りのある生物は、生殖により自分の遺伝子を子孫に伝えて、生命を維持していこうとします。一般的に生物は、性成熟を迎えて子孫を産み、その子孫を養育し、その期間が過ぎれば死んでいきます。これらの期間は遺伝的にプログラムされており、様々なほ乳類の性成熟年齢最大寿命の間には、極めて明確な相関関係が見られます。最大寿命とは、生物の種ごとに遺伝的に決められた最大限としての寿命ですが、性成熟年齢が遅い種ほど最大寿命が高い傾向にあります。ところが、明らかにヒトのみが、性成熟年齢と最大寿命との相関関係から大きくずれています(*6)。



            <性成熟年齢と最大寿命との関係>

 ヒトのみに見られる、性成熟年齢と最大寿命との相関関係からのずれは、生物種という観点から見れば、不要とも言える期間に相当します。すなわち、あらゆる生物は、子孫を産んで(性成熟年齢)、養育すれば死んでいく(最大寿命)わけですが、ヒトはさらにその後も生きていくために、そのようなずれが生じるわけです。ヒトだけがこの相関関係からずれている理由は、ヒトが科学技術に基づく文化を築くことができる唯一の種であるためです。

 あらゆる生物は、生殖によって世代を越えて、自分のDNAという生物情報を子孫に残していきますが、ヒトは、そうした遺伝的な情報伝達以外に、記録や教育によって子孫に情報を伝えていくことが可能な唯一の生物種です。他の生物種には見られない、生物情報以外の情報をヒトが子孫に伝えることができる最大の理由は、ヒトが卓越した「知性」と情報を細かく伝えるための「言語」を持っているからに他なりません。

 ヒトが他の生物種からみて際だった知性と言語を持っていることには、誰も異論はないでしょう。最も私たちに近い種とされるチンパンジーと比べてみても、その違いは全く明らかです。進化論によると、このヒトの卓越した知性も、漸進的な進化によってヒトが獲得し得たものだとされています。しかし、これを容認するにはあまりにも不可解な点が多すぎるのです。

 進化論に従う限りでは、単細胞生物や植物は、自然選択というプロセスによって様々な複雑なプロセスを身につけたと考えられています。しかし、自然選択によって進化が起こるのであれば、現在の生物が持つ全ての特質は、単細胞生物から無数の自然選択という「篩」にかけられて獲得してきたものでなければならないはずです。自然選択の骨子は、環境により適したものが生き残り、より多くの子孫を残す、つまり適者生存の原理です。

 しかし、この理屈に立つならば、全ての生物の中で最も「知的」であるはずのヒトの起源が全く不透明になってしまいます。その理由の一つの事例が、ヒトが持つ数学的能力です。進化論に従えば、ヒトはサルが変遷したものだということですが(*7)、樹上でバナナを食べて集団で生活しているサルの生態のいったいどこに、微積分や幾何学を創造し、かつそれを理解しうるだけの数学的必要性があったのでしょうか。サルがバナナの本数をどこまで正確に数えられるのかどうかは知りませんが、一本や二本、あるいは数本のバナナを数える知力と、フェルマーの大定理やゲーデルの不完全性定理を理解する知力の間には、少なくとも絶望的と思えるほどの不連続な開きがあるように思えます。

 私たちが知り得る限りでは、サルの生活のどこをとってみても、数学上の難問を創造するだけの知力を必要とするチャンスなど全くないはずです。しかし、進化論に従えば、サルにとっては、そのような数学的な主張に対応できるほどの知力を獲得することが、そのような知力を得ていないサルよりも彼らの環境により適応しており、子孫をより多く増やすことができることになるはずです。

 しかし、もう少しまともに考えるならば、そのような出来事が決して起こりそうにもないことなど全く明白に思えます。つまり、私たちが持っている知性は、サルからヒトに至る進化の過程から得られる能力にしては、あまりにも「重たすぎる」のです。自然選択によって得られるはずの知性にしては、オプションがあまりにも多すぎるのです。これは明白な事実です。

 チンパンジーのような大型類人猿とヒトのDNAの違いは、2%もないと言われていますが、彼らとヒトの知力の間には、自然選択のような漸進的で前進的な変化で説明するには埋め尽くされないほどの、決定的に断続的な違いが存在しているのです。2%にも満たないDNAの違いには、絶望的なほど遠い開きが存在するのです。

●サルに言語能力を付加して創られたヒト
 ゲノムの共通性から見れば、ヒトとチンパンジーとの差異はわずかに2%足らずでしかありませんが、それでも両者の間には、明らかに絶望的と言えるほどの断続的な知性の差が存在しています。そして、この両者の知性の差を決定づけている要素こそが「言語能力」に他なりません。言語能力があるかないかが、ヒトとチンパンジーの知性の違いを最も著しく表しているのです。

 前に言いましたように、人間がこれだけの文化を築けたのも、他の生物種には決して見られない、実に精緻な言語体系を持っていおり、それを活用することによってあらゆる情報を子孫に連綿と伝えることができたからです。

 ヒトとごく近縁の類人猿にボノボ(ピグミーチンパンジー)がいますが、その中でも、アメリカのある研究所で暮らしているカンジという名前のボノボは、天才サルとしてよく知られています。スワヒリ語で「埋もれた宝」という意味を持つカンジは、1980年、生後6カ月の時に母親のマタタとともにジョージア州アトランタにあるヤーキス霊長類研究所の言語研究センターにやってきました。彼は話すことはできませんが、話し言葉をかなりよく理解できることで有名であり、その能力はとてもサルだとは思えないほどですが、それでもやはり言語能力は、小学生以下程度にしか過ぎません。もちろん実際に言葉を話すわけでもありません。


 ヒトと最も近縁のチンパンジーとの間の最も大きな差異は、記憶や運動能力、知覚などではなく、「言語能力」にあるのです。つまり粗く言えば、「ヒトとサルの脳は共通して同程度の脳を持つが、ヒトは、その共通領域にさらに言語と深く関わる特別な領域を持つ」と言えるはずです。

 著名な言語学者ノーム・チョムスキーは、「言語はこの上なく人間的なもの。もし、言語系が破壊されたならば、あなたはもはや人間でなくなる。あらゆる意味でそうなのです。言語は人間存在の核となるシステムだからです」(『最新脳科学 最新科学論シリーズ』)と、やや過激にヒトが持つ言語能力の重要性を主張しています。また彼は、ヒトと類人猿の知的能力の違いは、質的なものであって量的なものではなく、そもそも知的メカニズムが両者で異なっているのだと述べています。

 サルからヒトに至るまでには、アウストラロピテクス・アフリカヌスホモ・ハビルスホモ・エレクトスを経て、ホモ・サピエンスと移り変わったとされていますが、これらの脳の大きさは、500立方ミリメートルから1300立方ミリメートルへと実に3倍近く変わっています。しかも、この脳容量の大きさの変遷は、「前頭連合野の増大」に伴うものであることが分かっています。言ってしまえば、前頭連合野以外の脳部位は、ヒトと類人猿で大きな差は存在しないのです。

 しかし、この前頭連合野は、極めて高度な情報処理をする部位として知られており、そのために「ヒトをヒトたらしめる脳の中枢」と言われ、ヒトを類人猿から顕著に区別させるものであり、前頭連合野の大脳皮質に占める割合は、サルで約12%、チンパンジーで17%程度であるに対して、ヒトは実に30%と際だって大きくなっています。

 19世紀には、発話を担うブローカ野が前頭連合野にあることが発見されましたが、その後の脳科学の発達により、前頭連合野の中でも最も高次の処理を行う場所である46野をはじめ、47野、9野、10野の一部など、言語に関連した部位も前頭連合野に集中していることが分かってきました(図D−12)。

 そしてこうした言語野は、ヒトのみに特徴的であり、他の霊長類は持っていません。ヒトとほんの少ししか違わないゲノムを持っているチンパンジーでさえ、ブローカ野や47野は持っていないのです。そして、前頭連合野に集中している特に高度な言語処理を行う47野や9野などの部位は、単なる発話や言葉の理解を司るのではなく、思考活動に多いに関係のある部位なのです。

 また、サルが言語を話せない理由は、言語を担う脳の部位が欠落しているというだけでなく、発声器官である喉頭から咽頭のかけての構造が、ヒトとまるで異なっているためでもあります。

 ヒトでは口蓋垂(ノドチンコ)の奥に広い咽頭が存在していますが、類人猿も含めたヒト以外のほ乳類動物は、口蓋垂の奥に喉頭が上がってきています。この喉頭は気管の入り口にあたり、ここに声帯のヒダがあります。ヒト以外の動物では、この喉頭が直接口蓋垂の上にある鼻腔の後ろまで来て鼻と気管が直結しています。

 それに対してヒトは、喉頭が他の動物よりもずっと下に下がっていて広い咽頭が形成されるため、その空間を利用して複雑な言語音声を発することが可能になるわけです。逆に、咽頭が狭い類人猿は、人のような複雑な音声を発することがハード的に不可能な構造になっているのです。ヒトの乳児は成人と異なり、まだ咽頭が狭くて喉頭が鼻腔の後ろまで上がったままであるため、言語を発しても発音が不明瞭になり、いわゆる独特の喃語しか話せないのです。

 ダーウィンが『種の起源』を発表する3年前の1856年に、ドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデルの谷に面した洞窟から見つかったネアンデルタール人は、未だにヒトとの関係が定まらずに議論の的になっていますが、1983三年にイスラエルのケバラ洞窟からネアンデルタール人の舌骨と下顎骨の化石が完全な形で発見され、その舌骨が現代人のものと同じ形状をしていたことから、ネアンデルタール人が私たちと同じように話していた可能性が高いことが分かったのです。

 それと同時に、興味深い発見も報告されています。

 イラクのシャニダール洞窟やガリラヤ湖近くのアムッド洞窟などからは、ネアンデルタール人が現代人と同じような埋葬を行っていたと思える痕跡が発見されています。彼らは、墓の中に草木でベッドを作って、草花を多数ふりまいていたのです。似たような光景は、やはりガリラヤ湖付近のカフゼー洞窟スフール洞窟でも見ることができました(*11)。

 これらの埋葬様式は、ネアンデルタール人が既に「死」の概念を持っていたことを示唆しています。一方、類人猿は、死んでしまった我が子を背中に背負い続けたり、干からびてしまった死体を振り回すことからも、「死」の概念が存在しないことが分かります。これらのことから、ネアンデルタール人は、現代人と同じとは言えないまでも、既にある程度の言語能力とともに「死」という概念を意識できるほどの知性−あるいは「心」−を備えていたと考えることができるはずです。

 これらのことから、サルからヒトに至るまでの過程において、言語能力が著しく備わったことが分かりますが、言語能力を備えるためには、ハード(咽頭)とソフト(脳)の両面の変化が起こる必要があり、ネアンデルタール人の時点で、すでにサルにはないハードとソフトを備えていたことが分かります。また、サルからヒトに至るまでのソフト面、すなわち知性を司る脳の発達は、高度な言語処理を担う前頭連合野において際だっており、サルからヒトに向けての知性の著しい変化は、この前頭連合野において集中的に起こっていると見なすことができるのです。

 上に述べた事柄を総合しながら、エロヒムが生物を創造したという立場でサルからヒトへの変遷を考えると、ヒトの創造がどのように行われたかをある程度イメージすることが可能です。エロヒムは、サルを改良してヒトを創ったはずです。最も大きな改良点は、サル以下の動物には決定的に欠けていた言語能力を付加した事でした。これは同時に、「知性」をその創造物に与えることを意味しています。

 言語能力の獲得は知能の獲得でもあります。

 
子供のサルと生後間もない人間の子供の知能検査を行った結果、人間の子供の知能はサルと区別できるほどの優位性はなく、両者には差異は見られません。むしろ子サルの方が知能が進んでいる場合もあります。

 しかし、ある時期を過ぎると、人間の子供の知能に著しい発展が見られ、サルをはるかに上回る知能を示します。その時期は、人間の子供が言葉を話し始めるか、話し始めようとする年齢に達した時と一致するのです。

 言語は相手とのコミュニケーションのみならず、思考する時に非常に重要な役割を果たします。言語の存在しない思考など存在しないと言ってもよいほどです。


 そして、脳内の言語処理に関連する部位は、前述のように前頭連合野に集中していることから、類人猿からヒトに至る過程では、この前頭連合野の改良が集中的に行われたことが分かります。そのため、類人猿とヒトの脳では、前頭連合野以外では大した違いは見られませんが、前頭連合野における言語に関連する領野の存在の有無が、ヒトを類人猿以下の他の生物から顕著に際立たたせているのです。

 言うならば、ヒトは、「前頭連合野が著しく改善されたサル」なのです。

 
●大脳新皮質のコラム構造と「神のプログラム」
 サルにはない、47野やブローカ野などの「領野」が付け加えられることによって著しく前頭連合野が改善されたものがヒトですが、この領野は情報処理の基本構成単位であり、脳は、機能的にも構造的にも異なった多数の領野から作られています。

 しかし、実はもっと基本的な単位構造が存在します。それがコラムと呼ばれるもので、コラムは数万個のニューロンから成る、幅0.5ミリメートルで2〜3ミリメートルの高さを持つ小さな柱状の組織であり、大脳新皮質は、大脳の表面を覆っている厚さ2〜5ミリメートル程度の薄い細胞の層ですが、コラムは大脳新皮質の表面に対して垂直に並んでいます。言うならば、大脳新皮質とは、コラムが規則正しく配列された組織体の事です(図D−14)。

 脳の情報処理を担う根本的な単位として機能的・構造的単位が集まった性質をモジュラリティと呼びますが、情報は、一連のコラム群(モジュール)によって逐次処理され、より高次な情報が作り出されていきます。これは脳のソフト面でもハード面でもかなりの確度で確かめられており、この脳の特性を「脳の階層性」と言います。すなわち、モジュラリティと階層性が、脳の働きと構造の二大特徴と言えます。

 この脳の視覚情報処理の特徴は、カナダ−アメリカの神経性理学者ヒューベル(1926−)とスェーデンの神経性理学者ヴィーゼル(1924−)らによって確かめられ、彼らはこの成果によって、1981年にノーベル医学生理学賞を受賞しています。そして、こうした歴史的な背景により、視覚一次野(V1)で分解された視覚に関連した領野については、いろいろな研究者たちによって既にかなりよく調べられており、これらの領野が階層的なシステムを形成し、そのシステムの中で視覚一次野(V1)から上位の領野に向けて高次な働きがを行なわれ、V1で分解された情報は、上位の視覚領野で段階的に再構成されていることが分かっています。

 そして、このようなモジュラリティと階層性が、前頭連合野にも当てはまることも分かってきました。

 前述のように、ヒトは前頭連合野が著しく改善されたサルと呼べますが、両者の前頭連合野の違いを、北海道大学の澤口俊之氏は「コラム重複説」で説明しています

 脳には、似たような構造や働きを持つ複数の領野が含まれており、このような領野群を多重領野と呼びますが、サルからヒトにかけては、こうした多重領野の増加のみでなく、領野の拡大も起きていると考えられています。すなわち、既存の領野が重複することによって多重領野が形成されたり、あるいは領野の拡大が起こることによって、大脳新皮質が拡大すると考えるわけです。こうした考え方をコラム重複説と呼びます。

 澤口氏によると、この仮説の主な根拠として次の三つが挙げられます。

  1.霊長類の大脳新皮質には、多重領域があること
  2.コラムが、大脳新皮質の基本的単位要素であること
  3.コラムの幅が、霊長類を通じてほぼ同じであること


 これらの内、最初の二つは上に述べたとおりですが、私が興味深いと思ったのは三つめのコラムの幅の類似性です。

 下の図は、澤口氏が開示している、霊長類の様々な種の、第一次視覚野にある眼球優位コラム−左右の眼が個別にとらえた情報を再現する働きをするコラム−の幅と大脳新皮質の体積を比べたものです。この図を見ると、チンパンジーギャラゴの大脳新皮質の体積−白い棒グラフ−は100倍も異なっているにもかかわらず、両者のコラムの幅−灰色の棒グラフ−は殆ど同じであるというです。他の霊長類についても、それぞれの大脳新皮質の体積は異なっていても、コラムの幅は、いずれも殆ど同じ大きさを示しています。



 この事実は、大脳新皮質では、コラムが重複していることを示しています。ここに掲載した図ではチンパンジーまでしかデータがありませんが、澤口氏は、ヒトとサルの大脳新皮質の間でも、同じようなコラムの重複化による変化が起きているデータも出てきていると述べています。

 このように、大脳新皮質・脳の特徴がモジュラリティーと階層性にあり、ヒトも含めた霊長類の間で見られる大脳新皮質の変化は、コラム重複説によって説明できるわけですが、こうして形成される大脳ももともとは一つの受精卵が分割してできたものであり、それならば、生物種ごとの大脳新皮質の変化も遺伝的に決定されていると見なすことができます。

 進化という立場に立って眺めると、サルからヒトへの変遷は、それまでの生物の進化に比べて圧倒的に速いという事が言われていますが、それはサルからヒトにかけての脳の進化が急速に行われたという事を意味しています。

 澤口氏はそれを脳のコラム重複説から見た見解を述べていますが、結局サルからヒトにかけて大脳新皮質が圧倒的に変化している根本的な理由については、「なんらかの理由で成立したせいだとしか思えない」(『脳と心の進化論』日本評論社)と述べるに終わっています。

 この「なんらかの理由」という言葉で澤口氏が濁している最後の一掴みが、実は私が追求しきたいテーマそのものなのですが、コラム重複説は非常に興味のある仮説であるにもかかわらず、進化論を土台にしているために、最終的には「なんらかの理由」に突き当たってしまうのです。

 パラダイムの章で論じたように、私たちは「知っているものだけを見る」ため、同じ絵を前にしても、それがアヒルと信じ切って見ている人には、ウサギはどうしても見えてこないのです。

 そうした見方の違いはあるものの、私は、澤口氏のコラム重複説を初めて知った時、大変興味を覚え、即座にホメオティック遺伝子との類似性が頭に浮かんだのですが、調べてみると、やはり澤口氏も両者の相関について触れていました。

 あらゆる生物は千差万別の姿形をしていますが、もとを辿れば、はじめはただ一つの受精卵であり、それが何度も卵割を繰り返して多数の胚細胞を作りながら成長していきます。

 生物学者たちは、こうして完成された個体の姿が多種多様であることから、身体を形作る胚の発生をコントロールする遺伝的なプロセスは、種によって全て異なるだろうと考えていました。

 しかし、極めて複雑多岐に見える生物の形も、実はその多様性からは想像できないほど簡単なルールに従っていたのです。例えば、この世界では実験材料として重宝がられているショウジョウバエについて言えば、まず胚に身体の前後と腹、背中を決める軸が形成され、次にその前後軸に沿って節が作られます。そして、ある節には脚ができたり、別の節には翅ができてそれぞれの節が特徴づけられていくわけですが、これらの節ごとに固有の特徴付けを決定する遺伝子をホメオティック遺伝子と呼び、脚や翅を作る遺伝子群の発言をコントロールしているマスター遺伝子と考えられています。

 この遺伝子がたった一つでもきちんと発現しないと、その遺伝子の指令を受ける下流の遺伝子にまで影響を及ぼすことになり、例えば、頭から触覚の代わりに脚が生えるようなドラスティックな変化を引き起こしてしまいます。

 このような身体の形を決定する遺伝子はどの生物種も持っていますが、この遺伝子の中には、180個の塩基配列がどの生物種にも共通して存在しており、これをホメオボックスと呼びます。そして、このホメオボックスは、ハエやマウスはもちろん、ヒトからさらには線虫や鳥、魚までが共通して持っていたのです。

 すなわち、身体の形を決める遺伝子体系も階層的に連結しており、その根源には共通した塩基配列を持つホメオボックスがあり、そのホメオボックスにいろいろな遺伝子のセットを「重複」させて増やしたものの発現を量的、質的に調節することによって、千差万別の姿を実現させていたわけなのです。

 その遺伝子の発現の調節次第で、人間のような手足になったり、鳥のような翼になったりするのです。

 こうして考えると、ホメオティック遺伝子も、脳のようなコラム構造と階層構造を持っている事が分かります。脳も遺伝子も、それぞれに基本形があり、そこにいろいろなオプションを重複させ、それらが階層的に働くことによってそれぞれの生物種固有の身体の形や脳の構造を決定していたのです。

 こうした身体の形や脳の構造を決定するのは、遺伝子に組み込まれているプログラムそのものに他なりません。個体発生をはじめ、脳神経系免疫系に見られる、極めて複雑でありながら驚くほど系統的に仕組まれているようなプログラムを、免疫学の多田富雄氏は「超システム」と呼んでおり、それは「神が定めたプログラム」(『生命の意味論』新潮社)であると語っています。

 ここでも、やはり「神」が登場します。村上氏の「サムシング・グレート」、『Newton』( )の「神の設計図」、そして多田氏の「神のプログラム」・・・と、生命の発生に関しては、現代の最先端の科学者と言えども、「神」という概念から逃れることは難しいようです。

 多田氏は、超システムのような生命の「技法」は工学的機械の技法を越えていると述べていますが、これまでの工学的技法はあくまでも線形的なものであり、生命とは「非線形的な機械」に他ならないため、従来の工学的技法では生命を理解するのに限界がある事は眼に見えており、これからは、非線形的な技法がもっとクローズアップされてくるはずです。

 確かに生命は極めて複雑なシステムではありますが、その仕組みは、脳やホメオティック遺伝子に見られるようなコラム構造や階層性を持っており、実際には、見かけとは比べ物にならないほど簡単なルールで決められていたことが分かってきました。ところが、そのルールが成立した理由がどうしても理解できないため、私たちは、そのルールの立案者を「神」と表現するしかなかったわけです。

 私は、この生命の発生に関わっている「神」と呼ばれるルールの立案者こそがエロヒムであると言いたいのです。

●ヒトは「快楽」を求めるようにつくられている
 話を元に戻しましょう。

 エロヒムは、サルの前頭連合野に高度な言語能力を付け加えてヒトを創造しました。

 しかし、エロヒムはただ言語能力のみをサルに付加したわけではありませんでした。エロヒムは、言語能力以外にとても大切な要素を私たち人間に付加してくれたのです。近年、エロヒムに設計された私たちの脳の構造が次第に解明されていくにつれて、私たちは、エロヒムがどのような思いを込めて人間を創造したのかを垣間見ることができるようになってきました。

 生物は、外界からの情報を受ける事により、様々な行動を起こします。

 原核生物である細菌は、べん毛を動かして特定の化学物質の方向へ移動し、アメーバは針でつつくと反対の方向へ逃げます。多細胞生物では、受容する細胞と行動する細胞の分化が始まり、両者は神経系によって連結されています。

 最も原始的な神経系はヒドラやイソギンチャクなどに見られ、神経細胞は体内の各部に分布しています。プラナリアのような扁形動物では、神経細胞は集中化し、頭部に神経節と呼ばれる一対の神経細胞の塊が存在します。これが脳の前段階だと考えられています。この神経節から後方に二本の神経策が伸びており、この神経策がさらに横に連なって神経系となっています。さらにミミズのような環形動物になると、神経細胞の集まりである神経節が体節ごとに存在します。その中でも特に咽頭下神経節は大きく、その神経節から神経策が伸びて咽頭上神経節、つまり脳につながっています。つまり、脳と呼ばれるものは、ミミズのような環形動物から存在することになるわけです。

 さらに魚類、は虫類、ほ乳類などの脊髄動物になると、神経系は脊髄と脊髄の先端部が膨らんだ脳とに分かれ、脳と脊髄の重量比は、は虫類ではほぼ1対1ですが、ウマでは3対2、ゴリラでは16対1、そしてヒトでは49対1となり、ヒトでは脳が著しく拡大していることが分かります。

 ヒトの脳の構造は、小脳と脊髄を省くと、次のように三つの階層から成り立っています。


                     <脳の三層構造>

 最も中心に位置するのが「は虫類の脳」で、脳幹と大脳基底核から成り立っており、は虫類であるへびの脳にも存在することから「へびの座」とも呼ばれています。

 脳幹は、主に生命維持に必要な役割を司り、その中で脳幹網様体(中脳、橋、延髄)は、呼吸、循環、代謝、体温などの生命に直結した身体活動を制御して生命維持を図り、視床下部には、血液中の代謝物質やホルモンを敏感に感じ取る受容細胞が密集しており、睡眠や消化、水分・体温調整などの体内のリズムを作り出しています。また、食欲、性欲、情動などの動物的本能の中枢も存在しています。

 「大脳辺縁系」は、機能的に大脳基底核と大脳辺縁脳から成り立ちますが、脳幹と共に最下層を構成する大脳基底核は、情緒の運動的要素である顔の表情や態度、及び姿勢の保持を司っており、大脳辺縁脳は、視床下部で知覚された食欲や性欲、情動の情報に対する行動の指令を送る役割をしています。

 この大脳辺縁脳は、次の階層(中間層)である「ほ乳類の脳」を構成しており、性欲や食欲を司るため「情動の座」と呼ばれています。そして、最表層には、高度な情報処理を行い、人間独自の創造的行為を行う「人間の脳」である大脳新皮質が存在しています。

 すなわち、人間は、脳幹(反射・調節作用)によって「生きて」おり、大脳辺縁系(情動行動)によって「たくましく」生きているばかりでなく、新皮質によって「うまく」(適応的行動)生き、さらに「よく」(創造的行為)生きている(時実利彦)と言えます。

 脳は神経細胞の超巨大な集合体であり、ヒトの脳全体における神経細胞の数は300〜400億個で、そのうち大脳新皮質における神経細胞は、約140億個にものぼると推定されています。

 この神経細胞が「ニューロン」と呼ばれるものであり、1立方ミリメートルの中に、平均で約1万個存在していることになります。ニューロンは、細胞体本体と、他のニューロンに信号を送るための軸索(神経繊維)、ならびに他の細胞から送られてくる信号を受け取るための樹状突起からできていますが、今では、この脳内の無数のニューロンが、それぞれの軸索や樹状突起を用いてお互いに複雑な作用を及ぼしあいながら、あらゆる生命活動を司っていることが明らかになりつつあります。



 こうした巨大なニューロンの塊である脳の中でも、脳幹は極めて長い軸索をもつ多数のニューロンが密集しており、しかもこれらのニューロンが生命活動において極めて重要な役割を持っているところです。

 下の図
は、脳幹の中央線に沿って左右に対照的に並ぶ合計40個の神経核を示したもので、外側の2列はA系列、内側の2系列はB系列と呼ばれ、さらに脳幹の下方には、左右にC系列の神経核があります。

 神経核とは、ニューロンが数万個集まって特定の活動を行う神経細胞群で、いわば小型の脳と呼べるものです。A系列とC系列の神経核は、脳を覚醒させて生命活動を活発にする役割を持っていますが、B系列は睡眠をもたらして脳を休ませる役割を持っています。



 そのうちでA系列(A1〜A15)は、覚醒剤とよく似た構造を持つドーパミンと呼ばれる快楽物質を分泌しますが、その中でも約14000個のニューロンから成る「A10と呼ばれる神経核は、非常に特異な特徴を持っており、この神経核の軸索が走っているどの箇所を電気的に刺激しても、被験者は快感を感じるのです。この時の快感は激しいものではなく、気持ちがよくて、緊張感から解放され、くつろいだ気分になるような快感に相当します。このため、10神経核が走る神経は「快感神経」と呼ばれています。

 この快感神経が通っている脳内の部位を追求すると、エロヒムが人間をどのようにして創造したのかがよく分かります。
10神経
は中脳から始まり、そのすぐ上の視床下部をかすめて大脳辺縁系を経て前頭連合野と側頭葉に入って終わっています。


 <A10神経の経路>

  その経路をもう少し詳しく見てみると、10神経は、中脳にある腹側被蓋野から始まり、攻撃性、怒りを生じる扁桃体を通ります。この扁桃体のすぐそばには、記憶の貯蔵庫として知られる、記憶や学習のために極めて重要な役割を果たしている海馬が存在しています。

 さらに10神経は、扁桃体の攻撃性を制御する中隔核にも進んでいます。中隔核は、電気的に刺激すると恍惚感、満足感が得られる場所でもあります。

 次に10神経は自発的な運動を起こす側座核へと進みます。側座核には、TRH(サイトロピン遊離ホルモン)が多量に存在しており、眠っている動物にこのTRHを注入すると、動物は起きあがって無目的にまっしぐらに走り出し、多量に注入すると狂い回ったり、痙攣を起こしてしまいます。

 また、10神経は、良い臭いをかいだ時の快感と関係する嗅球を通り、側頭葉の内窩皮質に進みます。ここを刺激すると、色情的な態度を示すようになりますが、そのことを示す有名な実験があります。

 1971年にアメリカで、三人のテンカン患者−二人の若い女性と11歳の少年−が、三人ともこの部位を刺激されると快感を感じると述べたのです。一人の女性は、普段はすました顔をしているにもかかわらず、相手に媚びを見せたり、くすくす笑ってとても話好きになり、調査官に好意を打ち明け、結婚を申し込んだのです。11歳の少年もまた、男性の調査官に好意を打ち明け、誰でもよいから結婚したいと言明したのです。もっとも、快感神経を刺激するこの実験が終わった後、少年に実験の時の様子を知らせると、自己弁護したとのことです。この実験からも、快感神経が私たちの感情に大きく影響しており、人々に大きな快感を与えるものであることがよく分かります。  

 そして、10神経は、最後に前頭葉に進みます。前頭葉は、思考や意志、さらには創造など、人間の高度な精神活動を司る部位であり、また感情にも深く関係しています。こうした高度な精神活動を行う前頭葉にA10神経が通っているという事は、思索や創造もまた快感と大きく関係があると考えられます。

 さらに、人間の脳が高度な精神活動を行うと快感を感じるようにつくられていることを示す事実が存在します。

 脳のほとんどのニューロンは、下図のようなオートレセプター(自己受容体)を持っています。脳を構成するニューロンは、シナプスと呼ばれる微小な空隙を介して、情報を送る側のニューロンの神経繊維の末端部から神経伝達物質が分泌され、それが情報を受け取る側のニューロンのレセプター(受容体)に受け止められて、情報が伝達されるわけです。しかしながら、その情報を送る側の末端部にも別のレセプターがあり、送り側で分泌された神経伝達物質の一部を回収し、それによって神経伝達物質の分泌量が調節されています。このようなフィードバックが存在することにより、神経活動のバランスが保たれているわけです。

 ところが、このようなフィードバックが働かないニューロンが存在するのです。それが、前頭連合野に向かうA10神経なのです

 このニューロンは、ドーパミンを分泌して快感や覚醒を生じさせますが、そのドーパミンの分泌を制御するオートレセプターが存在しないため、前頭連合野のニューロンは、抑制されることなくいくらでも活発に活動することになるのです。

 この前頭連合野に向かう10神経のドーパミン代謝回転は、大脳辺縁系に向かう10神経の2倍の高さであり、前頭連合野におけるドーパミンの消費量が極めて高いことを示しています。代謝回転が高いということは、それだけ過剰活動しているという事を意味しており、この部位における快感は、いくらでも大きくなるということです。

 前頭連合野は、思考、意志、意識、感情、創造などあらゆる高度な精神的創造的活動を司る部位であり、自己表現を行うための部位なのです。そこへ向かうA10神経が過剰活動しているということは、創造的な活動は抑制されることなく、いくらでも思う存分に自己表現ができるように仕組まれていることを示しています。そして、創造性を発揮することによって、人間は無上の快感を得るようにできているのです。こうした機能は、人間以外の生物には与えられていません。ただ人間だけに、この機能が仕組まれているのです。

 こうして見てみると、人間の脳は、まさに極めて高度につくられた世界最強の「快感マシン」であると見なすことが可能です。

 性欲や食欲のような、生きるために必要不可欠な本能も、創造のような極めて高度な精神活動も、全てこの快感マシンの働きによるものであり、快感マシンが作動することにより、私たちは生まれてから死ぬまで、絶えず快感を求め続けていることになります。そしてさらに、私たちは創造性を発揮することによって大きな快感を得ることができ、しかも、その快感には制限がないのです。抑制するものは何も存在しないのです。

 上に紹介した脳の中を張り巡らされた快感神経を見てもお分かりのように、快感を求めること、快楽を追求することは、それが食欲や性欲のような本能であろうが、芸術や文学、科学のような高度な精神活動であろうが、人間にとって全く当たり前のことであり、特に創造性が要求される高度な精神活動を行う時に得られる快感には、上限が存在しません

 創造性を発揮する上において、「もうここでやめておこう」という信号が送られることはないのです。創造性を発揮することが嬉しくて仕方ない、快感を感じて仕方ないように、私たちは出来ているのです。

 私たちは、地球上で文明を持つ唯一の生物種ですが、この文明を築く原動力は、「自分の人生をより快適に過ごしたい」という人間の根本的な欲求であり、それは絶えることのない「快楽の追求」に他ならないのです

 創造性を無限の快感が支えているからこそ、いくつかの解決しなくてはならない問題はあるにせよ、私たちは今のような文明を築きあげることができたのです。もし創造性が快感に結びついていなければ、私たちは何ら創造的な活動を行うことなく、ひたすら極めて原始的な生活を強いられていたことでしょう。

 このように、快感を求めるということは、エロヒムが私たち人間に与えてくれた最高の贈り物なのです

 私たちは、何を行うにおいても、その行為の奥には全て快感を得たいという欲求が見られるのです。それはとても当たり前のことであり、何事を行うにしても、快感を求めるように私たちは仕組まれているのです。人間である以上、誰一人としてそのプログラムから逸脱することはできないのです。

 快感を感じることによって、私たちは初めて生を充実させることができ、人間を人間たらしめている豊かな創造性を発揮することができるのです。従って、その快感を求めることを禁じたり抑えることは、他の生物には見られない人間だけの大きな特権である創造性の発揮、活発な精神活動を押さえ込むことになり、粗い言い方をするならば、人間としての尊厳を損なう行為であるとさえ言えるでしょう

 もう一度言えば、私たちは、他の生物には決して見られない、卓越した言語能力と思考能力を持ち、それによって極めて高度な自己表現を行えるような機能と構造をした脳を持っています。しかも、その自己表現を行うことに最大限の快感が伴うようにできています。

 すなわち、私たちは、「快感を得るために生まれてきた」のです。それが、エロヒムから人間だけに贈られた、最高の贈り物なのです。

 「楽しんでください!」・・・それが、エロヒムが私たちの遺伝子の中に刻み込んだ究極のメッセージだったのです。

 私たちは、一人一人に与えられたその贈り物を、もっともっと有意義に使っていくべきであると思います。

 そして何よりも、私たちが持っている脳という宇宙で最も高品位なシステムは、人工的に創られたものなのですから、ある意味で私たちは「人工知能」と呼ぶことができるはずです。『2001年宇宙の旅』に登場するHALは、金属製の姿をして抑揚のない話し方をしていました。それは、当時の人々が持つ人工知能のイメージそのものでしたが、もっと遥かに進んだ人工知能は、DNAに刻まれている設計図をもとに合成されたタンパク質でできた究極の非線形的なシステムであるはずです。

 すなわちそれが、私たち人間だったのです。


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