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●原理主義国家アメリカ
2001年9月11日に起きた9.11事件から一周年の日、ニューヨークでおこなわれたブッシュの演説を聞いて、私は、アメリカが世界一巨大な宗教国家であることを改めて痛感しました。その演説のなかで、ブッシュはこう言ったのです。
「アメリカへの攻撃は、アメリカ国家を成立させている理想に対する攻撃である。その理想とは、自由と平等であり、・・・この自由と平等を私たちに与えたのは、創造主である。」そして、「神よ、アメリカを祝福したまえ」と締めくくったのです。
アメリカは信教の自由と政教分離制度が確立した社会であると言われており、人種や宗教、民族を問わず、誰もが法の下に自由と平等が確保されていると思われています。しかし、実際には、アメリカが世界一巨大なキリスト教国家であることは、おそらく論を待たないでしょう。アメリカは、あらゆるハイテク産業の分野で世界をリードする科学技術国であることは誰もが認めながらも、超巨大なキリスト教国家としての顔も持っています。
アメリカは、今でこそ世界唯一の超大国として君臨していますが、建国してまだ200年ほどしか経っていないこの若い国は、もともとは神の意志に基づいた理想的な社会を築くために、イギリス本国での宗教的・政治的弾圧を逃れて脱出した一握りのピューリタンたちによってつくられた「神の国」に他なりません。
アメリカは、「神」がもっとも頻繁に語られる国のひとつです。この国の歴代の大統領は、ジョージ・ワシントンが1789年の初代大統領就任宣誓で、「神が私を助け給うように」と祈りの言葉を付け加えてからは、4年に一度の大統領の就任式の時には、大統領は必ず聖書に手を置いて宣誓をおこなっています。アメリカ映画を見ていても、その中で役者が聖書の言葉を口ずさむシーンは頻繁に登場すますし、歴代の大統領の演説のなかにも、「神」という言葉が頻繁に飛び出してきます。
たとえばアイゼンハワー大統領は、「我々の政府は、深い宗教信仰に根ざさなければ意味をなさない」と語り、ケネディ大統領は、1961年1月の大統領就任式で、「この地球上では、神の仕事は我々自身でなしとげなければならない」と語り、レーガン大統領は、1981年1月の大統領就任式で、やはり「我々は神のもとなる国家である」と演説しています。ここでレーガン大統領が触れた「神」とは、もちろん聖書に登場する「神」のことです。
アメリカの総人口約2億8500万人を宗教別で見ると、プロテスタントは56%、カトリックは28%、ユダヤ教は2%となり、実に86%の人たちが何らかの形でユダヤ・キリスト教的宗教心を持ち合わせているということになります。ちなみに、無宗教を自認する人たちは、アメリカ国民の10%にすぎません。
このアメリカの国民的宗教とも言えるキリスト教は、「愛の宗教」だと言われます。あの敬虔なクリスチャンであるマザー・テレサの献身的な行為−たとえ本当は、それが虚像であったとしても−や、キング牧師の非暴力による公民権運動を見れば、誰もがそう思うに違いありません。たしかに、キリスト教は「愛の宗教」なのかも知れません。しかし、その一方で、キリスト教徒が、これまでに数多くの人たちを「神の言葉」に従って殺し続けてきたことも、また動かしがたい事実です。
異教徒の手から聖地エルサレムを奪い返す目的で11世紀末から約200年の間に7回に亘っておこなわれた十字軍は、まさしく虐殺と略奪、強姦の象徴でした。大勢のムスリムが首をはねられ、胸を槍で射抜かれ、拷問を受けたあげくに火あぶりの刑に処せられ、女性たちは強姦されました。十字軍が通ったあとには、切断された頭や手足が積み重なっていたといいます。幼い子どもたちでさえ、容赦なく犠牲になったのです。
また大航海時代、未知の世界へと向かったコロンブスやマゼランたちは、自分たちが発見した新大陸に上陸し、その土地に住んでいた原住民族をことごとく殺していきました。上陸した司祭たちは、兵士とともにその土地の原住民たちの前に現れ、キリスト教信仰を受け入れるべしという書面を彼らに叩きつけました。もし先住民がその申し出を拒否すれば、その場で兵士たちに殺されました。こうして彼らは、先住民の財宝を略奪し、男や子どもを殺し、女性たちを強姦していったのです。
その結果、コロンブスが新大陸に上陸した1492年には、ラテンアメリカに8000万人もいた原住民は、17世紀半ばには、わずかその5%しか残らなかったのです。1世紀半のあいだに、大半の原住民が虐殺され、またこれらの侵入者たちがもたらした伝染病の天然痘やチフスによって死んだ者も続出したため、それまで平和に暮らしていた原住民はついに全滅してしまったのです。
私たちから見れば、キリスト教徒たちのこのような行為はまことに残虐非道で、野蛮極まりないものに映ります。しかし、彼らにとっては、原住民を片っ端から虐殺する行為は残虐なものなどではありません。なぜならば、彼らの行為は神に奨励されていると、彼らの教典−聖書−に記されているからです。彼らの残虐極まりない行為は、彼らにとってみれば、単に神の言葉に従った信仰深い行為に過ぎないのです。
彼らが神の言葉に従って先住民を残虐したことは、聖書に明記されています。たとえば、神がイスラエルの民に与えたとされるカナンの土地に侵略する部分です。そこでは、神がモーセの後継者ヨシュアに虐殺と略奪を命じています。
「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。」(『ヨシュア記』6・21)
「ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。」(『ヨシュア記』8・26)
「ヨシュアはその日、マケダを占領し、剣をもってその町と王を撃ち、住民を滅ぼし尽くして一人も残さなかった。・・・剣をもって町を撃ち、その住民を一人も残さなかった。・・・ヨシュアは彼とその軍をも撃って一人も残さなかった。・・・全住民をその日のうちに滅ぼし尽くし、・・・。息ある者をことごとく滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられたとおりであった。」(『ヨシュア記』10・28−10・40)
こうした彼らの大虐殺の思想は、第二次世界大戦のときにも見られました。第二次世界大戦のとき、アメリカは広島と長崎に、開発したばかりの2種類の原爆を投下し、一瞬のうちに数万人を越える日本人が殺されました。その被害者の大半は、老人や女性、子どもたちであり、いわばアメリカに脅威を与える存在ではない人たちばかりでした。
日本に原爆を投下することを命じたトルーマン大統領は、原爆は女性や子どもや非武装の人々を殺すために使われるのだと述べましたが、アメリカはその同じ年の3月、東京の上空に300機を越すB29を飛ばして無数の爆弾を落としました。いわゆる東京大空襲ですが、この絨毯爆撃によって、一夜にして10万人を越す人々−やはり非戦闘員−が生命を奪われたのです。
東京大空襲と二度にわたる原爆投下・・・、まさしくナチスによるユダヤ大虐殺と同じホロコースト、ジェノサイドです。これらの行為は、いずれも、キリスト教が異教徒を抹殺することになんの罪の意識を持たなかったためにおこなわれた結果です。原爆投下によって多くの非戦闘員を殺害しておきながら、それを真珠湾奇襲への報復であるとして正当化してしまうことにためらいを感じないのは、それが宗教戦争の側面を持っていたからに他ならず、戦後の戦勝者(キリスト教徒)が敗戦者(異教徒)を裁いた茶番劇にすぎない「東京裁判」は、まるで中世の宗教裁判のごときです。
キリスト教徒にとって、異教徒は、自分たちと同じ人間とは見なされなかったのです。ですから、彼らは異教徒を殺すことになんの抵抗も感じなかったのです。むしろ敬虔なキリスト教徒であればあるほど、聖書の神の教えに忠実に従って、ためらうことなく異教徒を虐殺していったのです。異教徒の虐殺と博愛精神がみごとに両立する宗教、それがキリスト教の本質なのです。
●アメリカとイスラムの原理主義
一方、イスラムはどうでしょうか。比較文化史家の竹下節子氏によると、パキスタンのコーラン学校やアフガニスタンの学校では、イスラム過激派を育てる教育がなされており、小学生のための最初の読み方の授業は、「ジハード」の頭文字から始めるのだそうです。その最初の文章は、「聖戦は私たちの義務です」というものです。そのため、パキスタンの小学生たちにインタビューすれば、「イスラムは自由になるために犠牲になることを求める」とか「殉教すれば永遠の生命が得られる」という答えが返ってくるといいます。(『テロリズムの彼方へ、我らを導くものは何か』NESCO)
教育だけではありません。メディアも殉教した人たちを英雄として賞賛し、殉教者に約束された天国の報酬を繰り返し伝えているのです。このため、イスラム圏において、教育やメディアによって暴力の正当性とジハードを幼少の頃から刷り込まれた子どもたちは、将来卑劣なテロリストになってしまうのです。
また、アメリカのサミュエル・ハンチントンは、『文明の衝突』のなかで、今後の世界を西欧文明と非西欧文明、とくにイスラム文明との対立の構図としてとらえ、両者の文明の衝突が世界平和にとって最大の脅威であると説いていますが、西欧文明を積極的に取り入れてきた私たち日本人にとって、イスラムというと、どうしても自爆テロや暗殺などをおこなう過激派集団というイメージを強く持ってしまいます。確かに、そう思われても仕方がないような事件を、ムスリムは繰り返し起こしているからです。
たとえば、1988年に、インド系イギリス人サルマン・ラシュディーが発表した『悪魔の詩』が、『コーラン』やムハンマドを冒涜しているとして、当時のイラン最高指導者アヤトラ・ルホラー・ホメイニ師が「著者と発行人には処刑が宣告されねばならない」と声明を発表し、世界のムスリムに対して著者と発行人の処刑を呼びかけています。そして実際に1991年には、この本のイタリア語の翻訳者がミラノで刺されて怪我を負い、日本語の翻訳者である筑波大学の五十嵐一助教授が、何者かに刺し殺されています。しかも、この事件を受けて、イランのある日刊紙は「全世界のムスリムにとって朗報である」とまで評したのです。
また、1997年11月17日には、エジプト南部のルクソールの古代遺跡で、ナイル川西岸のハトシェプスト女王葬祭殿を見学していた、日本人10人を含む外国人観光客58人が、エジプトのイスラム過激原理主義組織「イスラム集団」のメンバー6人によって虐殺されています。彼らは、突如これらの観光客めがけて至近距離から銃を乱射したあと、まだ息のある犠牲者たちの喉をナイフで切り裂いたり、胸や腹部などをえぐり出したのです。
こうした一連の事件を見ても、「イスラム=原理主義=狂信=不寛容=戦闘的、テロ」という、イスラムに対する極めてマイナスのイメージを持つ構図が浮かび上がってきますが、イスラムを原理主義だとするこうした構図は、1979年に起きたイラン革命のときに、西側諸国が一方的に私たちに植え付けたものであることがわかっています。「原理主義」という言葉は、もともと聖書の一字一句を文字通り信じるアメリカのファンダメンタリストに対して用いられた蔑称であり、それをイスラムに用いること自体が意味をなさないにもかかわらず、キリスト教社会であるアメリカがイスラムと原理主義を勝手に結びつけてしまいました。そのため、それ以降、西側諸国のマスコミが好んで使う「イスラム原理主義」は、あたかもムスリムがすべてテロリストであり、イスラムそのものが悪や暴力の温床であるかのような印象を私たちに与えてしまったのです。
こうして、西側諸国はイスラムを原理主義的な社会として非難するようになったのですが、実は、アメリカ自身が世界最大の「原理主義国」なのです。アメリカ国民の3分の1は、キリスト教原理主義を含む保守的なプロテスタントであり、就任後わずか2年ものあいだ、アフガニスタンとイラク−どちらもイスラム社会です−に大量のミサイルと戦闘員を送り込んだ、現在のアメリカの大統領であるジョージ・W・ブッシュ自身が、アメリカ国内のキリスト教原理主義者たちからの強い支持のもとで大統領当選を果たしています。これらの宗教右派と呼ばれる保守的なキリスト教は、アメリカの二大政党のひとつである共和党のなかでも最大の勢力を誇り、ブッシュの最大の支持基盤でもあります。すなわち、アメリカの大統領になるには、宗教右派の支持を得る必要があるのです。
自らがプロテスタント主流派のひとつであるメソジスト教会に所属しているブッシュは、演説のなかで頻繁に「神」を口にすることで知られており、今年一月の一般教書演説のなかでも、「我々が尊ぶ自由は、人類への神からの贈り物である」と語っています。そして彼は、自分自身を「神の神聖な計画の一部」と見なし、世界の声を無視して強行したイラク侵略を、イラク国民に自由をもたらす「神の意志」と位置付けています。
そもそも17世紀に、イギリスでの宗教的弾圧を避けるために新大陸へ渡って、今のアメリカの基礎を築いた人たちは、この新大陸を旧約聖書の「約束の地」カナンととらえ、自分たちを、奴隷として強制労働を強いられていたエジプトを逃れてカナンに向かったユダヤ人と見なし、海を越えて渡ってきたこの新大陸で、聖書に登場するイスラエルのような神権政治を打ち立てようとしたのです。すなわち、アメリカは、イスラエルと同じように、神に託された使命に基づいて、他の民族がすでに住んでいる土地に侵入し、その民族を虐殺、追放して建国された国なのであり、彼らから見れば、自分たちも、イスラエルの民と同じように神から選ばれた特別な存在なのです。
アメリカでは、1830年代から、それまで家庭や教会によって運営されていた子どもの教育が公立学校でおこなわれるようになりましたが、その公立学校では、子どもたちは星条旗に向かって起立し、右手を左胸の上に置いて、次の言葉を唱えなければならないと「法律で定められている」のです。
「私は、アメリカ合衆国の国旗とそれが象徴する共和国に忠誠を誓います。アメリカ合衆国はすべての者のための自由と正義を持ち、分割できない神のもとにあるひとつの国家です。」
多くのアメリカ人は、この「忠誠の誓い(The Pledge of Allegiance)」にまるで疑問を持ちませんが、この誓いの中で取り上げられている「神」とは、当然ながらキリスト教の神であり−アメリカの市民宗教の神という指摘もあります−、イスラムの神でもユダヤの神でも、多神教の神々でもありません。いわば、アメリカの公立学校では、あらゆる生徒たちに、キリスト教の神に忠誠を誓いなさいと強要しているわけなのです。この誓いは、コロンブスが新大陸を発見した400年めにあたる1892年に唱えられるようになり、その後何度か修正が加えられたのち、1954年に当時のアイゼンハワー大統領が「under
God(神のもとに)」という語句を加えることを承認して現在に至っています。
しかし、当初より、この誓いのことばの違憲性を巡って、連邦最高裁にまで持ち込まれる大きな問題にまで発展することがありました。最近では、2002年6月、カリフォルニア州クラメントに住む「無神論者」の緊急病院医師マイケル・ニュードーが、政教分離国家たるアメリカにおいて、子どもたちに強要される誓いに特定の宗教を取り入れることの違法性を訴えたところ、サンフランシスコ第九連邦控訴裁判所が、この誓いは国教の樹立を禁止した合衆国憲法修正第一条に違反するとして、彼の訴えを受け入れたのです。これはまったく妥当な判断だと言えるでしょう。
しかしながら、驚いたことに、この判決に対してアメリカ議会のほとんどの議員たちが一斉に反発したのす。彼らは、この誓いの表現は間違っていないというのです。フライシャー大統領報道官は、記者会見の場で、この判決はばかげていると叫び、ブッシュ大統領も、この判決はアメリカの伝統・歴史から逸脱していると非難したのです。この判決を批判したのは、政治家たちばかりではありません。ABCテレビと『ワシントン・ポスト』紙が合同でおこなった世論調査によると、アメリカ国民の実に84%がこの判決に反対し、さらに90%近くが、この誓いの中に「神のもとにあるひとつの国家」という言葉を残すべきだと答えたのです。
こうした公立学校における組織的な祈祷に対する裁判は、1940年代以降、何度も繰り返し起きていますが、ギャラップ社の調査によると、1999年4月20日に、コロラド州コロンバイン高校で起きた銃乱射事件をはじめとする、公立高校における銃乱射・負傷事件が続発したため、最近は公立学校での誓いを認めるべきだと主張する人たちが増えてきたといいます。集団で祈りをしなくなってしまったために、公立学校の生徒たちの心がすさんできたからだというのです。
前述のように、アメリカはもともと、宗教的な対立から逃げ出した熱狂的な信者たちが、もともと住んでいた異教徒たちを力づくで排除しながら作り上げた国ですから、こうした感覚が芽生えるのも仕方のないことかも知れませんが、それにしても、このあたりのアメリカ人の感覚は、私たち日本人にはなかなか理解できないでしょう。アメリカのこうした態度は、彼らが非難するイスラムの排他的な態度とどのぐらいの違いがあると言うのでしょう。
一神教の教育は、必然的に他のすべての宗教を否定し、その宗教だけが唯一価値のあるものであり、他の宗教はすべて間違っていると教え込みます。そのような教育によって、子どもたちに他の宗教への憎しみと不寛容が植え付けられ、それらはいつしか暴力と容易に結びつくようになります。世界人口の約半数が一神教の宗教を信じていることを、ここで改めて認識する必要があるでしょう。(一神教を信仰する人たちも、世界の約半数が一神教を信じていないことを理解する必要があります。)
子どもたちには、世界中のおもな宗教を偏見を挟まずに教え込むことが大事です。そのためにも、一神教を含む、世界的に主流となっている宗教だけでなく、あらゆる少数派の宗教や新宗教の教典を検閲して、それらのなかから、人権を尊重しないすべての記述を削除することは、とても大事なことだと思います。これは、基本的人権の一部である宗教の自由を無視するものではないでしょう。殺人を促すことまで認めることは、宗教の自由以上に基本的な生命の尊重を蹂躙するものだからです。
確かに、表現の自由は絶対に尊重して守らなければならないものではありますが、それはあくまでも成人に対して成り立つ話であり、検閲の対象となるべきは、世界中の宗教学校で、子どもたちに対して教えられているテキストの内容です。昔から、きわどい性描写に対しては、検閲がおこなわれて年齢制限が設けられているにもかかわらず、殺人を奨励する記述が決して少なくないような宗教の経典に対しては、ただそれが「神の言葉」という理由だけで、削除することは一切許されず、またいっさいの年齢制限が設けられていません。
それらの宗教の教典の中には、憎しみを込めた言葉が少なくありませんが、これらの言葉が記された宗教の教典は、ミサイルや銃よりもずっと危険です。これらの中に記載されている、人権を尊重しない記述を削除することは、人を殺すことを奨励するような文を「神との契約」として信じる子どもたちが、将来非人間的な犯罪を犯すテロリストとなるのを防ぐはずです。
これからの子どもたちは、あらゆる信仰、人種、文化を尊重する雰囲気のなかで育てられなけらばなりません。一神教による不寛容が人類を滅亡させる危険性をはらんでいるのであれば、人類の未来は、神聖と思われている宗教文献の修正にかかっていると言っても過言ではないでしょう。
1989年11月に、国連総会において採択された「子どもの権利条約」は、子どもの権利をおとなと同等に認める立場をとり、その第14条(思想・良心・宗教の自由)の第一項で、子どもの宗教の自由は尊重されなければならないと規定しつつも、第二項には、その子どもの親または法的保護者が、子どもの能力の発達にあわせて子どもに指示を与える権利と義務を尊重すると謳われており、子どもの宗教選択に際して、親が子どもに指示する権利の保有が明記されています。すなわち、子どもの宗教選択の自由−宗教を持たない自由も含めて−を認めると同時に、その親の権利行使も認めているのです。
幼い子どもには、いかなる宗教をも押しつけてはなりません。なぜならば、私たちは、子どもが自分の能力で自分にもっとも見合った宗教を選択できる年齢に達するまで待つべきだからです。生まれたばかりの新生児に施す洗礼が、洗礼を施される側の子どもの自由意志に基づいていると考えることは、とうてい不可能です。
その一方で、子どもには、世界中のおもな宗教の歴史や哲学を客観的に教える必要があります。そして、子どもが自分自身で、ある宗教を信じたり、あるいはどの宗教をも信じない選択を採ったとしても、親はその子どもの選択を尊重すべきなのです。
そもそも基本的な人権でもある「信仰の自由」とは、どの宗教を信仰するか、あるいはどの宗教も信仰しないかを個々人の選択に委ねるべきはずの自由ですが、現実には、多くの人たちにとっては、自分の親がたまたまカトリック教徒やムスリムだったので、自分も親と同じようにカトリック教徒やムスリムになってしまっています。そして、さらに悪いことには、彼らは、自分がなぜその宗教を選択したかということに、なんら重大な問題すら感じていないのです。
宗教は、先祖代々引き継いでいくような伝統などではなく、個々人の「意識」の問題です。生まれたときの家庭環境、社会環境が「たまたま」そうだったからという理由ですませるべき次元の問題ではないでしょう。私たちが所有すべき信仰の自由は、親や民族・部族、地域、国などの伝統ではなく、個々人の「意識」を重んじているのです。世界中の多くの人たちのあいだで見られるような、伝統で宗教を選ぶ行為は、それらの宗教のメッセンジャーたちであったイエスやマホメットを屈辱する行為でさえありましょう。
以上、アメリカとイスラムの宗教や信仰の実態を見てきましたが、お互いに共通していることとは、いずれも原理主義的思想が基本にある、ということです。原理主義とは、その宗教が生まれた当時の教えに戻り、時代の変化にかかわらずその教えに固執し、信仰のために自分が犠牲になることをいとわないとともに、時には自分たちの目的遂行のためにテロ行為や暴力行為などの手段を容認する過激的行動さえも容認する特徴を持っています。しかし、イスラムとアメリカの原理主義同士が、お互いに自分たちの意見を押し通すような行動に出れば、憂慮すべき事態におちいってしまうのは目に見えています。
●一神教どうしの衝突・・・「十字軍」発言の奥に潜む原理主義
アメリカを襲った9.11事件後、その原因に言及したおびただしい数の論説が、国内外の本や雑誌、インターネットなどに出ており、それぞれにテロの原因を上述の文明の衝突やアメリカ政府の経済的な策略などの中に見出そうとしていますが、たとえば小室直樹氏や小滝透氏などは、このテロは「宗教の衝突」「一神教のどうしの衝突」と呼ぶべきものであると述べています(『日本人のためのイスラム原論』集英社インターナショナル、『アメリカの正義病 イスラムの原理病』春秋社)。
聖地エルサレムをイスラム教徒の手から奪還するために、11世紀直前に始まったあの十字軍の遠征すら、純粋に宗教的な問題だけではなく、政治的、経済的な問題を多々含んでいたことは、今や明白です。今回のテロの原因も、もちろん政治的、経済的要因を多分に含んでいるものの、だからといって、宗教的な要因を排除する事はとうてい不可能であり、乱暴であると思います。
その十字軍について、ブッシュ大統領は、同時多発テロ発生直後の9月16日、記者たちを前に「我々の十字軍に参加せよ、さもなくば死と破壊が待っている」と述べました。のちに彼は、「十字軍」を失言だとして「我々はイスラムの信仰を尊重する。アメリカの敵は、我々の友人である多数のムスリムやアラブ人ではない」などと訂正していますが、それはあくまで体裁を取り繕うためのものであり、「十字軍」が彼の本音と見て間違いないでしょう。
2003年に始めたイラク侵略についても、ブッシュはそれを「神の意志」であると明言しています。戦争を神の名を語ることによって正当化する彼の態度は、西側世界が絶えず非難するイスラム原理主義者たちのテロ行為と、いったいどれほどの違いがあるというのでしょう。
そして、今回のテロの根本的な原因となったのが、まさしくブッシュが口を滑らせた「十字軍」であり、かつては高度な文化を誇っていたイスラム世界が、その当時は野蛮人でしかなかったキリスト教世界の人たちに、近代になって形勢を逆転されてしまったというトラウマと、キリスト教世界に属する人たちが、今の自分たちの文化が、かつての高度なイスラム文化から多大な恩恵を浴びながら形成されていったことををすっかり忘れてしまっていることに対する怨念にあります。そうしたイスラムのキリスト教世界に対するトラウマと怨念が原理主義と結びついたとき、テロ行為や暴力行為を引き起こさせるわけです。
今のイスラム世界が、かつては自分たちよりもずっと劣っていたはずの西洋=キリスト教世界の影響を大きく受けた社会の中で生きていかなくてはならないことに、彼らが居心地の悪さを感じていることは、1997年6月の大統領選挙で勝利し、イランの大統領に就任したサイエド・モハンマド・ハタミ氏の次の言葉からもわかります。彼は、イスラムはかつて世界を支配するほどの文明を手にして人類の歴史を作り上げてきたと、キリスト教世界に対する自分たちのかつての優位を主張しながらも、今の自分たちには、もはやそのような力は存在していないと告白したうえで、次のように現代のイスラム世界の根底にあるジレンマを語っています。
「今の世界は、そもそもの方向づけから技術、さらには思想にいたるまで、西側的なものです。そのため、西側世界の国教の外側で生きる人間であっても、価値観をはじめ生活そのもののなかに西側世界を持ち込まなければ生活していけないということになります。・・・われわれイスラム社会では、個人の生活や社会生活が西側の文明に直接的に影響されているにもかかわらず、その西側文明の基礎を吸収してもいなければ、自己の内部に取り込んでもいないために、まさにそここと自体が原因となって、問題をより大きくしてしまうのです。」(『文明の対話』共同通信社)
ハタミ氏の言葉は控えめではありますが、西洋社会=キリスト教が自分たち価値観をイスラム世界に押しつけてくることに対するもっとも過激な反応が、ムスリムによるテロや暴力行為として現れるようになっているのではないでしょうか。
そして、西洋社会が世界のすみずみまで影響を及ぼしているいまの世界においては、「非西洋社会」、とくに「イスラム世界」は、「後進的」「非文化的」「原始的」という言葉とほとんど同義語として見なされていると言えるのではないでしょうか。
前に、ブッシュはメソジスト教会に属していると述べましたが、アメリカの第41大統領である父ブッシュの長男として生まれたブッシュは、もともとは敬虔なキリスト教徒というにはほど遠く、アルコール依存症になったり、在学中にコカイン所持で逮捕されたりしています。そんな放埒な生活をしていたブッシュが信仰深い人間に変わったのは、ブッシュが39歳のときでした。その年に彼は、ブッシュ家と親交関係にあったビリー・グラハム牧師に出会ったのです。
グラハム牧師は、歴代のアメリカ大統領の就任式に招待されて祈祷を行ってきた、世界でもっとも有名な福音派(エバンジェリカル)の巡回伝道師であり、父ブッシュも、グラハム牧師を心の支えとしていました。そのグラハム牧師に出会って、ブッシュは回心したと言います。回心とは、信仰に目覚めたことを意味しますが、宗教的に言えば、第二の誕生日を迎えたようなものであり、ブッシュはグラハム牧師によって信仰深い人間として生まれ変わったと言うわけです。
ブッシュは今でも、「神が毎日自分に語りかけているのを感じる」と公言してはばかりません。2000年の大統領選挙のときにも、もっとも影響を受けた人物として「キリストだ」と答えているほどです。そのぐらいにブッシュの宗教心に決定的な影響を与えたグラハム牧師ですが、その息子で、ブッシュの大統領就任式を執り行ったフランクリン・グラハム牧師が「イスラムは非常に悪い、邪悪な宗教だ」と語っていることから、ブッシュ自身もそのように思っている可能性があります。
ブッシュは、9.11を「文明に対する攻撃」と繰り返し強調していますが、それは要するに「文明国アメリカ」に対する「非文明国イスラム世界」の攻撃だということです。そしてアメリカの文明とは、9.11の一周年めにあたる日の演説でブッシュが語ったように、自由と平等を理想とする文明であり、自由と平等は創造主、つまりキリスト教の神からアメリカ人に与えられたものです。
すなわち、敬虔なキリスト教徒だと深く自覚しているブッシュにとって、9.11は、自分が信仰している「善なる」キリスト教の神に対する、「悪の」非キリスト教徒イスラム世界による攻撃、侮辱であると感じたのです。ですから、思わず「十字軍」という言葉が出たのではないでしょうか。
●「殺せ!」と神が命じたとき
そもそもキリスト教(ユダヤ教)とイスラムは同じ一神教で、ベースとなる神はどちらも同じ神であり、両者はいわば兄弟のような関係にあるわけですが、一神教は基本的に他の神を認めず、自分が信仰する神が唯一絶対的なものであり、他の神や信仰は偽物だととらえます。精神分析者の岸田秀氏は、一神教は自分が信仰する唯一絶対神を後ろ盾にして他者を徹底的に排斥するほどの強い自我が形成され、普遍性を信じて他者にも自我を押し通そうとするために、一神教は必然的に戦争の宗教であり、「人類にとって癌」であると喝破しています。
一神教とほど遠い宗教感覚を持つ我々日本人は、宗教とは平和を愛して決して人を傷つけないものであり、殺人を奨励するような宗教は邪教、偽宗教であると決めつける傾向にあるようですが、上に見たように、宗教は殺人をも奨励する場合が実際にあるのです。
たとえば、1995年11月に、イスラエルのイツハク・ラビン首相が、テルアビブの平和集会の場で、極右のユダヤ人青年イガル・アミルが放った銃弾によって暗殺されました。ラビン首相は、1993年9月に、パレスティナ解放機構(PLO)のアラファト議長とのあいだで、ヨルダン川西岸地区とガザ地区でのパレスチナ人による暫定自治実施に関する取り決めに合意しましたが(オスロ合意)、アミルは法廷で、「神の律法によれば、ユダヤの土地を敵に渡そうとする者は殺すべきだということになっている」と語り、上述の『ヨシュア記』や『民数記』に記されている言葉を引き合いに出して、ラビン暗殺を平然と正当化しています。
私たち人間が生きる社会においては、殺人は決して犯してはならない犯罪であることはまったくの自明とされるはずですが、信仰の世界では、人間が決めたルールなどよりも神の意志が上位にあり、それは、何にもまして絶対的に優先されるべきものです。原理主義に走りやすい一神教ならば、なおさらです。従って、神の意志に従う宗教の世界では、「殺人は極悪」という人間たちが決めた判断やルールは、無視されて当然なのです。
イスラムは異教徒に対して寛容であると述べる人たちは多くいます。たとえば、次の『コーラン』の言葉を読めば、誰しもが、イスラムは平和的で寛容に満ちた宗教であると思うに違いありません。
「殺人を犯したとか地上で悪いことをしたとかという理由もないのに他人を殺す者は、人類すべてを殺すのと同等であり、他人を生かす者は人類すべてを生かすのと同等である・・・」(5・32)
「宗教にはむり強いがあってはならない」(2・256)
確かに大半のムスリムは平和を愛し、非暴力的で寛容的だと思います。彼らがテロ事件を起こす一部のムスリムを激しく非難していることも知っています。しかし、すべてのムスリムが神の言葉そのものであると信じて疑わない『コーラン』に、不寛容で暴力や殺人を推奨する言葉が数多く記されていることも、ムスリムも認めざるを得ない、動かしがたい事実です。
『コーラン』を少しひともくだけで、たとえば次のような言葉を見つけることができます。
「多神教徒どもを見つけしだい、殺せ。」(9・5)
「背教徒どもに相まみえるときは、彼らの首を打て。おまえたちが多くを殺害してしまったら、次は縛りあげるがよい。」(47・4)
「おまえたち、彼を捕らえ、縛ってしまえ。業火の中で焼いてしまえ。七十尺の鎖で繋ぎ、歩かせろ。」(69・31−32)
「迫害がなくなるまで、宗教が神のものになるまで、彼らと戦え」(2・193)
「おまえたちが彼らを殺したのではなく、神が彼らを殺したもうたのである。」(8・17)
こうした言葉を、その前後の文脈を無視してそれだけを取り上げることは、不要な誤解を生む原因になり、フェアではないかも知れませんが、それにしても、これらは、上に紹介した、平和と寛容を示す『コーラン』と同じ教典に記されている言葉かと疑いたくなるような言葉ではないでしょうか。
さらに『コーラン』は、ムスリムに異教徒たちを殺すことを命じており、それは宗教的義務だとさえ断じています(2・216)。イスラムの世界では、『コーラン』によって侵略戦争は厳しく禁じられていますが、「あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え」(2・190)と書かれており、自分たちの世界を守るために異教徒たちと戦うよう説かれています。これをイスラム世界では「ジハード(聖戦)」と呼びますが、ジハードは「神の道に奮闘努力すること」であり、ジハードで死んだムスリムは殉教者となって、死後は、あらゆる苦痛が除去されて生前のすべての罪も許され、天国で至福の生活を送ることができるとされています。そして、『コーラン』はムスリムに、異教徒たちからの反逆行為がなくなり、すべての宗教がイスラムに変わるまで戦い続けることを命じているのです(8・39)。
多くのムスリムは、一連のテロ行為をおこなうムスリムは、一部の偏った過激主義者であり、多くのムスリムはそのような社会の秩序を乱したり、人権を蹂躙するようなまねは決してしないと断じています。しかし、ムスリムは、もともと神の言葉であると信じている『コーラン』の一字一句に忠実に従う人たちであるはずで、その意味では、過激主義者と非難される人たちは、単に忠実に『コーラン』の(暴力的な)言葉に従っているだけとは考えられないでしょうか。イスラムは平和的だと強調する人たちにとっても、こんにちの世界で起こっている抗争の大半が、イスラム諸国やイスラムの影響を強く受けている地域に集中している事実を簡単には否定できないでしょう。
キリスト教徒である十字軍や、かつての宣教師たちが、「神の言葉」を根拠に、なんの罪もない先住民族や異教徒たちを次から次へと平気で虐殺していったように、敬虔で純化された宗教心を持つムスリムであればあるほど、『コーラン』に明確に記されている暴力的な「神の言葉」をそのまま無批判的に受け入れて、それをそのまま行動に移す可能性を持つということは考えられないでしょうか。事実、ビン・ラディンは、アメリカに対する自分の敵意をあらわにするときに、上述の『コーラン』の言葉をしばしば引用して、自分の信仰告白をおこなっています。
一神教は、他の宗教、他の神をいっさい認めないからこそ「一神教」なのであり、そのために排他的、閉鎖的、普遍的になり、その純化された信仰心の先には、他者への暴力性や攻撃性が潜んでいるはずです。だからこそ、ラエルが言うように、一神教は危険であり、人類を滅亡へと導く危険性を持っているのです。大切なのは、一神教のように「神の言葉」を尊重することではありません。人間の生命を尊重することなのです。
人道上許すことのできない犯罪を「神」の名を用いることによって正当化することは、決して許されるべきものではありません。人類の歴史は、他人に自分の考えを押し付け、戦争を始め、中絶をおこなう医師を殺し、(神の名のもとに)虐殺を正当化したのが無神論者ではないことをはっきりと証明しています。異教徒の殺害や十字軍遠征、魔女狩り、他民族の奴隷化や絶滅などは、すべて聖書を信じる人々によっておこなわれたものです。
それらは、なにも遠い過去の話でありません。ここ2年のあいだに、「神の意志」だと言ってアフガニスタン、イラクに大量のミサイルを落として、自分が信じるところの「真実」に反対する多くの人たちのいのちを奪ったのは、いったいどこの誰だったのでしょうか。世界最大の原理主義国家のペンシルヴァニア・アヴェニュー1600番地に居座り、「毎日神に祈りを捧げている」と、自らを敬虔なキリスト教徒だと信じている男ではなかったでしょうか。
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