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■ラエルとラエリズム、そして科学

●クローンベビーの「創造者」の人間観
●「生物コンピュータ」としての人間
●愛を持つコンピュータ
●「意識を持った無限」としての人間
●生物コンピュータの創造者たち
●「楽しみましょう!」
●反ローマ法王の立場
●無神論の宗教・・・ラエリズム
●ラエリズムの価値体系


「私たちはすべてを知ることはできず、
 すべてを所有することもできません。

 ですが、すべてであることはできます。」 ラエル
ジョルダノ・ブルーノ
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●クローンベビーの「創造者」の人間観 
 1987七年にノーベル医学生理学賞を受賞した利根川進氏は、京大創立100周年記念シンポジウムで、「自然科学の究極の研究目的を集約すれば、“人間とはいったい何者か“という疑問の解明にあると思う」(京大新聞第416号<1997年11月20日>)と語りましたが、人類はその答えをすでに手に入れたのでしょうか。あるいは間もなく手に入れようとしているのでしょうか。

 すでにその答えを手に入れたと主張する人もいるでしょうし、まだ分かっていないと言う人もいるでしょうが、自然科学の分野にとどまらず、これまでに人類の知性と呼ばれた偉人たちが、この壮大なテーマに対する答えとして、彼ら自身の言葉で人間を定義してきました。


 たとえば、アダム・スミスは、人間を「取り引きをする動物」と語り、ジェームズ・オッペンハイムは「この宇宙の不良少年」、ドストエフスキーは人間に対する最上の定義だとして、「どんなことにもすぐ慣れる動物」であると述べました。

 また、20世紀の科学者を代表する二人のうちのひとり、アインシュタインは「人間とは、私たちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である」と語り、ワトソンと一緒にDNAの二重らせん構造を発見したF・クリックは、もっと具体的な内容で、「我々は、無数の神経細胞の集まりと、それに関連する分子の働き以上の何ものでもない」と語りました。

 一方、ラエル−世界初のクローン人間をつくってみせると公言した当事者−がどのような人間観を持っているのかを見てみるのは、非常に興味深いに違いありません。

 なぜならば、世界初のクローンベビー誕生の発表騒動によって、彼が「人間は、他の惑星の人間たちに創造された」と主張していることが、広く世界中に知られることとなったからです。世界初のクローン人間誕生を狙った当事者の人間観が、世間一般的に正しいと信じられている人間観とまったく違うということは、とても興味を引きます。

 彼がこれまでに積極的に推し進めてきたテーマのなかに、クローン人間の誕生と遺伝子組換え食物の普及があります。いずれも、世の中で認められているとは言い難いものです。これらに対して、世間では「生命の尊厳を脅かす」「人道上許されない」などと否定的な意見が支配的ですが、なぜ彼は、これらの技術を完全なまでに肯定し、しかも積極的に推し進めようとするのでしょうか。

 彼の頭のなかには、クローン人間や遺伝子組換え食物に対する否定的な要素は、まるで何ひとつ持ち合わせていないかのようなのです。なぜそこまで、それらを肯定することができるのでしょうか。その答えを知る上でも、彼の人間観を知ることは、なかなか興味深いに違いありません。

 では、ラエルは「人間とは何か」というテーマに、どのような言葉で答えているのでしょうか。

 彼は、私が知る限りでは、この深淵なテーマに二通りの表現を使って明快に答えています。彼が示すこれらの二通りの人間の定義は、一見まったく別のものを表しているかのように見えます。すなわち、一つは科学的であり、唯物論的なニュアンスを持ちますが、もう一方の定義は、詩的で宗教性すら感じるのです。


 その一つめは、次のとおりです。

我々は、一種の機械、コンピュータ以外の何物でもない。」(『ハーモニー・メディテーション』無限堂)


 そして、もう一つの人間の定義は、自著(『クローン人間誕生以後』徳間書店)のなかで、彼にインタビューをおこなった時の彼の答えの中にあります。世界初のクローン人間をつくろうとしたラエル自身に対して、「人間の定義」を尋ねるのはなかなか刺激的でしたが、私の質問に対して、彼は「(人間とは、)それ自身が意識を持った無限( infinity taking consciousness of itself)です」と答えたのです。

 すなわち、ラエルが定義する人間とは、「コンピュータ」であると同時に「意識を持った無限」でもあるということになります。これらの定義には、多少説明が必要でしょう。

●「生物コンピュータ」としての人間
 人間をコンピュータのような機械に見立てる見方自身は、古くから存在しています。のちの自然科学界の思想に甚大な影響を与えた17世紀の哲学者フランシス・ベーコンは、動物のからだを「時計」に見立てた最初の人物ですが、19世紀の英国国教会牧師、ウィリアム・ペーリーは、『自然神学』(1802年)と題する論文の中で、次のとても有名な「時計」のたとえを出しています。

「あなたが地面に落ちている時計を見つけたならば、あなたはその時計がどこかの時計職人が製造したに違いないと結論を下すだろう」

 
ペーリーは、この寓話を持ち出して人間の眼の複雑さに触れ、時計には時計職人が存在するのだから、時計よりはるかに複雑にできている人間には、人間を創造した存在がいるに違いないと言うのです。しかしながら、ペーリーのこの「時計職人」のたとえは、今では、科学者たちの中ではまったくのお笑いのネタになってしまっています。

 
たとえば、進化論擁護者であるリチャード・ドーキンスは、『ブラインド・ウォッチメーカー』(早川書房)の中で、ペーリーが掲げた、眼の複雑さから導かれる時計職人に見立てた生命のデザイナーのたとえ話を「みごとなまでに完全に間違っている」と、ペーリーの主張を完膚なまでに否定しています。それに代わって彼は、少しずつ進む漸進的な連続的な系列を通して、眼が少しずつ進化してきたと述べ、その進化の系列を説明していますが、その中で彼は、私たちが視覚を用いる代わりにコウモリが超音波を使っていることに触れ、両者の違いについて次のように述べています。

「コウモリはエコーの助けを借り、一方我々は光の助けを借りているという事実は、このさいどうでもよい。」

 
しかし、威勢のよい言葉とは裏腹に、ドーキンスは本質的な問題から逃げています。ドーキンスは、もっとも問題としなければならないはずのところを、「このさいどうでもよい」という言葉で実に簡単に片づけている−回避している−のです。しかし、もっとも肝心なのは、実はこの点なのです。どうしてコウモリがエコーの力を借りる一方で、人間は視覚に頼っているのかという点が、とても大切なのです。

 
この点ひとつを取ってみても、ドーキンスのような進化論擁護者たちは、勝利者よろしく、ペーリーの「時計職人」のたとえをバカにしながらも、彼ら自身にしたところで、自分たちが思っているほどの勝利をおさめているわけでもなんでもないことが窺えます。要するに、彼ら自身は、人間の起源に対して、「時計職人」にとって代わるほどの明確な理屈など何も持ち合わせていないのです。すなわち、もし彼らが、自分たちこそが人類の起源を突き止めた勝利者であるなどと思っていたら、とんでもない見当違いなのです。

 
ペーリーが生きていた頃のもっとも精巧な機械と言えば、おそらく時計だったために、彼は、生命体を緻密にデザインされたものの代表例として時計を挙げたのでしょうが、今は、それは間違いなくコンピュータでしょう。すなわち、機械論的な見方に立てば、人間は「生物コンピュータ」ということになります。

●愛を持つコンピュータ
 しかし、「人間と機械のあいだには、決定的な違いがある」という昔ながらの確信が、依然として深く広く浸透していることも事実です。すなわち、機械は心を持たないが、人間は心を持つが故に、両者は決定的に異質な存在である、というものです。結局、もし人間が完全に機械にとって代わることができないのであるとすれば、人間には、機械のような物質的法則に支配されない「何か」が存在することになり、それが「心」だということになります。逆に、もし人間が完全に機械に置き換えることができるとすれば、「心」もからだと同様に、完全に物質的法則に支配されるということなります。

 
ラエルはもちろん後者のスタンスをとっており、彼は「人間の能力の中で、機械的に再現が不可能なものは何もなく、人間は機械に対して何の優越性も持たない」(『ハーモニー・メディテーション』)とまで喝破しています。

 
彼は、「愛」こそが人間特有の特権であり、機械に対する人間の優位性を示すものであるという、世間一般に深く浸透している思いこみはまったくの誤りであり、「愛」も物質的な法則に支配されていると説きます。
 すなわち、「物理・化学的な交換が、脳内に快感として感じられる放電を発生すること」(前掲書)が愛であり、愛は機械に対する人間の優位性を示す最後の砦などではなく、「愛を持つ機械」を製造することは、原理的・技術的に可能であると述べているのです。
 すなわち、彼に言わせると、人間は、その愛を持つ機械、「愛を持つコンピュータ」に他ならないというわけです。

 
2003年は、漫画の世界で「鉄腕アトム」が誕生した年です。アトムは、愛を持つ人間らしいロボットとして、日本国民の中に浸透していますが、現実の世界では、「機械」という言葉に対して私たちが持っている感覚は、アトムのような「人間らしい」人工知能からはまだまだほど遠く、人間と同じ程度の思考能力を持つ機械をつくることは絶望的なようにも思えます。

 
しかし、仮にそのような「人間らしい」機械をつくることが絶望的であるように思われても、それはあくまでも技術的な問題なのであり、原理的に不可能というわけではありません。これまでのいくつもの研究により、人間の思考能力や感情など高度な精神作用が、脳内の電気化学的反応に起因していることがはっきりと突き止められており、さらに、そうした脳内の反応を、まだ稚拙なレベルではありますが、機械的に再構成できるところまできています。

 
しかし、やはり私たちは、このままずっと、自分たちと同じ人間をつくり出すことはできないのでしょうか?

 
私は、そうは思っていません。
 人間の身体的、精神的機構や機能は、今後ますます物理化学的なメカニズムとして把握されるようになっていくはずです。事実、コンピュータが将来、人間と同等以上のレベルの知性を持つことを、世界中の多くの科学者たちも認めだしてきています。

 
たとえば、イギリスの著名な科学者S・ホーキンスは、2001年9月号のドイツ雑誌『Focus』の中で、近年のコンピュータ技術はますます高度になっており,将来、コンピュータは人類の知性を超えるだろうと語っています。
 また一方、コンピュータ技術が将来どのように展開されていくかというテーマにもっとも精通しているはずのサン・マイクロシステムズのチーフサイエンティスト、B・ジョイは、2000年4月号の『WIRED』誌の中で、2030年までに人類は、人間と同じレベルの知能を持ったコンピュータを持つようになるだろうと予言しています。

 
結局、人間とコンピュータは、程度の差こそあれ、どちらも同じ「情報処理システム」であることには違いなく、異質なものとして両者の間に一線を引くことは、原理的に不可能なのです。人間は精神を持つが故に機械とは異質な存在であり、両者の間には決定的に深い溝が存在するという、長年私たちを安心させてきた確信は、もはや崩れ去りつつあるのです。

●「意識を持った無限」としての人間
 人間の定義としてラエルが掲げているもう一つの定義は、「意識を持った無限」です。
 私たちは、自分たちを万物の霊長などと呼んで、あらゆる生物の頂点に立つと自負していますが、「土から生まれ、土に返る」と表現する考えが、東西関係なく普遍的に見られるように、しょせんは人間と言えども、自分の頭の先から足のつま先までのすべては、足下にある土と同じ成分からできているのです。

 
私たちのからだは、炭素と水素と酸素と、若干の金属成分から成り立っており、これらは、すべて地球上の土の中に存在します。地球の起源は、はるか昔に微惑星が衝突して形成されたと言われていますが、これらの微惑星もまた、もっと昔に宇宙のなかでなんらかのイベントによって生じたものです。

 
すなわち、私たちのからだは、広大な宇宙を旅してきた粒子から形成されているわけです。そして、この宇宙の大きさはいったいどれほどあるのでしょうか。今の科学で受け入れられている理論によると、宇宙の大きさは百数十億光年ほどの広がりを持つと言われていますが、ラエルは、宇宙は「無限」だと強調します。
 まさに文字通り、大きさに際限のない無限です。始まりもなければ終わりもない無限の宇宙だと言うのです。

 
つまり、ラエルは、私たちは無限であり、宇宙に存在する「塵」であるというのです。 これは、『創世記』に記された次の有名な言葉とつながるものがあります。

塵にすぎないお前は塵に返る。」(3・19)

『創世記』は、ユダヤ教、キリスト教、およびイスラムに共通した宗教的源泉ですが、その中には、神が人間を土でつくったと記されています。

「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2・7)

 神、または創造主が土(粘土)を用いて人間をつくったという神話や伝承は、日本をはじめとして世界各地で普遍的に見られるものですが、ヘブライ神話の中で、世界で初めてつくられた人間アダムには、「赤い土からつくられた」という意味があります。実際にレバノンの土は赤く、この地方の土は「テラ・ロッサ(バラ色の大地)」と呼ばれています。

 人間を土の塵からつくった「主なる神」が何者であるかは、すぐあとで述べますが、『創世記』には、この「神」が土の塵を固めて人の形をつくり、そこに命の息を吹き入れて、はじめて人間は「生きる者」となったと書かれています。つまり、人間はたんなる「塵」ではないのです。
 
 人間は宇宙から見れば、塵であるに違いありませんが、身のまわりにある無数の塵と決定的に違う点は、その塵が「意識を持っているかどうか」でしょう。私たちは、塵の固まりではありますが、そこには意識が存在するのです。意識を植え付けられてつくられた塵が、私たち人間なのです。

●生物コンピュータの創造者たち
 ここまで、ラエルが人間をどのようにとらえているかを、ごく簡単に紹介しましたが、ここで、彼の主張を特徴づけているもっとも重要なポイントについて触れておきたいと思います。すなわち、人間を生物コンピュータと見なした場合、そのコンピュータはどうやってできたのか、どこからやってきたのかということです。

 コンピュータが自然に勝手にできあがるわけがありません。それは誰の目にも明らかな話でしょう。しかし、この生物コンピュータが勝手に出来上がるとする考え方が、今の世の中に広く普及しているのです。すなわち進化論です。

 しかし、私たちの目の前にあるコンピュータが自然にできあがるわけなどありません。それらをつくったデザイナーや製造者たちが存在するように、地球上の生物コンピュータにも、それをつくった創造者たちが存在するはずです。すなわち、ぺーリーの言う「時計職人」たる存在です。時計には、それをデザインしてつくった職人が存在するように、生物コンピュータである地球上の生物にも、それらをつくったデザイナーたちが存在するというわけです。

 ラエルは、その生物コンピュータのデザイナーたちこそが異星人であり、ヘブライ語の聖書で「エロヒム(Elohim)」と呼ばれる人たちであると主張しています。エロヒムとは、旧約聖書の原典であるヘブライ語の聖書に何千回と繰り返し登場する言葉であり、古くから「神」と訳されてきましたが、この言葉は、本来は「天空より飛来した人々」という意味を持ちます。

 すなわちラエルは、「地球上のあらゆる生物は、エロヒムと呼ばれる異星人によって創造された」と訴えているのであり、これが彼の主張の最大の眼目です。

 彼のあらゆる主張のすべては、ここから始まっています。人間を含む地球上のあらゆる生物は、エロヒムの世界に住む科学者たちと芸術家たちによってデザインされ、創造されたというのです。科学の力で塵に意識を与えて人間をつくったのも、彼らなのです。それが、上に挙げた聖書の言葉の意味なのです。

 もちろん、聖書の神を異星人と見なす考えは、彼独自のものではなく、古くから存在しており、とくに1970年代に世界的にUFOブームが起こった時、多くの人たちが聖書と異星人を結びつけては、さまざまな自己流の解釈を吹聴したことがあります。ラエルによると、彼が初めてエロヒムに出会ったのも、そうしたUFOブームの真っ直中である1973年の12月のことであり、彼は、UFOに乗ってエロヒムの惑星にまで案内され、そこで楽園のようなひとときを過ごし、そこで、モーセやイエス、仏陀やマホメットといった、世界的な宗教の創設者たちにも出会ったとまで述べています。

 彼らは、エロヒムのクローン技術によってエロヒムの惑星で再生されていたというのです。またラエル自身、エロヒムと地球人の女性の間に生まれた子どもであると述べています。

 彼のこうした話は、今の世の中で、私たちが一般的に共有しているはずの常識からは、かなり遠く離れているように思えます。確かに、いたって異質な話に違いありません。
 従って、彼の話は、大衆が暇つぶしに求めるのぞき見的な興味の対象か、あるいはタブロイド判の新聞の片隅にでも載る程度の話としてでしか取り上げられず、真っ正面からまともに論じられたことは、これまでただの一度もなかったように思われます。

 しかし彼は、四半世紀以上も前にクローン人間の話をすると、誰もが彼の主張にまったく耳を傾けようとはしませんでしたが、今ではクローン人間の信憑性(少なくとも技術的には)を疑う人などだれもいないように、彼の主張の正当性も、科学技術の発展とともに明らかにされつつあると語っています。約30年の間、世の中の人々が彼の話に耳を貸そうとしなくても、彼はまるで動じることなく平然とさえしているようです。

 その彼の主張の信憑性については、これまでの拙著の中で詳しく述べていますので、ここで触れることはしませんが、ここでは、彼がエロヒムから授かったと主張するメッセージを簡単に紹介するだけに留めておきます。

 彼は今から約30年ほど前にエロヒムと出会った時、その異星人から、人類の過去と未来に関するとても重要なメッセージを受け取ったというのです。それは、概ね次のような内容です。


今から約2万5000年前、聖書の中で神と呼ばれる異星人たちが、まだ濃密な霧と海に覆われた地球にやってきて、そこで巨大な大陸をつくり、生物を創造した。彼らは聖書のヘブライ語原典の中では「エロヒム」と呼ばれているが、それは「天空より飛来した人々」という意味を持つ。

彼らが地球にやってきたのは、自分たちの惑星で生物を創造することが難しくなったため、自由に生物を創造できる場所を探すためであった。彼らの惑星からやってきた科学者たちと芸術家たちは、協力しあって次から次へと生物を創造していったが、最後に、自分たちにそっくりな生物を創造した。それが我々地球人であった。

しばらく地球に滞在した彼らは、再び自分たちの惑星へと戻ったが、その時、自分たちが地球に存在したことを知らせ、そして人類を自分たち自身の力で成長させていくために、羅針盤の役目としてメッセンジャーを送り続けた。それがモーセや仏陀、イエス、マホメットなどの世界的な宗教の創設者たちであった。地球におけるエロヒムの活動の痕跡は、それらの宗教の教典や神話に見つけることができる。

そして、1945年8月6日、広島に核爆弾が投下されたとき、エロヒムは、人類が科学によってすべての事柄を理解する段階に到達したことを知り、最後のメッセンジャーとしてラエルを送った。

ラエルは、地球人の女性とエロヒムの間に生まれた子どもであり、そこに、イエスや仏陀をはじめとする、過去のメッセンジャーたちの誕生の秘密が隠されている。

エロヒムから遣わされたメッセンジャーの最後として、ラエルがエロヒムから与えられた使命は、次の二つである。
一つは、彼が授かったメッセージを広く世の中に知らせること、
もう一つは、エロヒムを迎えるための大使館を建設することである。

●「楽しみましょう!」
 今、異星人が自分に授けたとラエルが主張するメッセージの概略を紹介しました。
 メッセージ自体は長いのですが、彼は、その内容をひと言で言い表すと、「Enjoy!(楽しみましょう!)」ということばに集約されると語っています。

 しかし、そのことを意外に思う人も多いかも知れません。
 確かに彼自身、メッセージの最大の眼目は「異星人エロヒムによる地球上の生命の創造」であると述べているのですが、その一方で、メッセージをひと言で表すと「Enjoy!」になると言います。いったいこれらがどうして結びつくのでしょうか。

 それは、「エロヒムが生命を楽しんで創造した」からだと言います。
 ラエルによると、自分たちの惑星から地球にやってきたエロヒムは、芸術家たちが自分たちのインスピレーションでデザインしたものを、科学者たちが遺伝子操作をおこなってつくりあげていったのですが、これらは実に楽しみながらおこなわれたのだと言うのです。
 そう、地球上の生物は、楽しみながらつくられたのです。
 そのことは、例のメッセージの中では、たとえば次のように語られていることからもお分かりでしょう。

「ここでいっておく必要があるかもしれませんが、芸術家たちが鳥の色や形を奇抜な、あっと驚くようなものにすることにもっぱら楽しみを見いだしたため、ごてごて飾りたてられた羽根が邪魔になって、ろくに飛べない鳥がなかにはありました。」(『真実を告げる書』)

 鳥の形態もさることながら、鳥の求愛行動も非常にユニークで、ある種のユーモラスすら感じる場合があります。
 たとえば、極楽鳥やパラダイスの鳥と呼ばれる、ニューギニアに棲むフウチョウの雄は、実にユーモラスなダンスを行って雌に求愛する事で知られています。彼らは、雌に求愛する場所を見つけると、お気に入りの雌の前で、自分のベールやマント、扇、長い裾、頭の裸出部や肉冠を特に引き立たせようとします。
 そして、背筋を垂直に伸ばして、前後して踊り、止まり木を軸にして鉄棒の大車輪のように回転し、一方の側から他方の側へと振り子のように揺らしたり、羽根を花のように広げたりして、一生懸命雌の気を引こうとするのです。

 フウチョウのユニークな求愛行動を見た最初の人物であり、ダーウィンと時を同じくして独立に自然選択説を思いついた事で知られる、イギリスの博物学者A・R・ウォレスは、フウチョウの雄の求愛行動を見て、「それが何の役に立つのだろう。鳥にも人間に似た美的な感性があるのだろうか」と自問していますが、この素朴な疑問は、生命の起源の本質を見事についています。鳥類の独創的な求愛行動は、その鳥たち自身が固体保存や種保存のような生命を維持するために必要として獲得したのではなく、むしろ、あたかも人間がそれを見て楽しむために存在しているかのように感じられるのです(「生命のデザイナーたち」)。

 また、ここで、よく知られているカニの歩き方を思い出して下さい。
 大きなはさみを持ち上げて、海岸の砂の上をヨチヨチとからだを揺らせながら横歩きで進む様子は、とてもユーモラスで、見ている者の笑顔を誘います。陸上の生き物で、あのようなユーモラスな歩き方をする生物は、他にいないのではないでしょうか。

 ところで、なぜカニは、あのような横歩きをするのでしょうか。他の陸上の生き物がほとんどがまっすぐ前を向いて進む中で、なぜカニだけはまっすぐ歩くことができないのでしょうか。

 ラエルによると、それは、いろいろな生物をデザインしてきたエロヒムが、今度は横歩きの生き物をつくってみようと思ったからだと言います。エロヒムのユーモアが見てとれるようです。「もし軍隊がカニのような横歩きだったら、おもしろいでしょう」と、軍隊を茶化したラエルのユーモアも、私を思わず笑わせてくれました。

 鳥やカニだけではありません。犬や猫や、ハムスター、キリンにシロクマにジュゴン、コアラにパンダにミーアキャット・・・、あらゆる愛らしい生物は、すべてエロヒムが楽しみながらデザインしたのです。もちろん人間もそうです。人間も、エロヒムが楽しみながら塵に意識を持たせるように創造したのです。聖書に「エロヒムは言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」(『創世記』1・26)と書かれている通りです。

 エロヒムが自分たちに似せてつくった私たちの脳の中には、「快楽神経」がしっかりと存在しています。快楽神経は、私たちの脳の中を張り巡らされています。特に、私たちの脳の中にある前頭連合野と呼ばれる部分は、思考、意志、意識、感情、創造などあらゆる高度な精神的創造的活動を司る部位であり、自己表現を行うための部位ですが、そこには快楽神経が過剰とも言えるほどに活発に動いているのです。

 このことは、前頭連合野が司るような創造的な活動は、なんら抑制されることなく、いくらでも思う存分に自己表現ができるように仕組まれていることを示しています。そして、創造性を発揮することによって、人間は無上の快感を得るようにできているのです。こうした機能は、人間以外の生物には与えられていません。ただ人間だけに、この機能が仕組まれているのです。
 すなわち、人間の脳は、極めて高度につくられた世界最強の「快感マシン」なのです。

 
私たちは、地球上で文明を持つ唯一の生物種ですが、この文明を築く原動力は、「自分の人生をより快適に過ごしたい」という人間の根本的な欲求であり、それは絶えることのない「快楽の追求」に他なりません。

 他の生物種には見られない創造性を、この無限の快感が支えているからこそ、いくつかの解決しなくてはならない問題はあるにせよ、私たち人類は、今のような文明を築きあげることができたのです。もし創造性が快感に結びついていなければ、私たちは何ら創造的な活動を行うことなく、ひたすら極めて原始的な生活を強いられていたことでしょう。
 このように、快感を求めるということは、エロヒムが私たち人間に与えてくれた最高の贈り物なのです。

 
だから、「人生を楽しみましょう!」とラエルは訴えるのです。

「幸せは、私たちの遺伝子コードの中にあります」と繰り返し彼が言うように、私たちは、もともと幸せを感じるためにつくられたのです。それは上に述べたように、私たちの脳の構造が示しているとおりです。私たちは、幸せを感じるために生まれてきたのです。

 ラエルは語ります。

「人間であるということは、笑うこと、楽しむこと、小さな子どものように遊ぶこと、創造すること、開花すること、そして遊ぶことです。」

●反ローマ法王の立場
 しかし、聖書を通じてエロヒムの痕跡にもっともよく精通しているはずのキリスト教は、人々が幸せを感じることを常に禁じてきました。長年にわたるキリスト教の世界のなかで、人々は、人間は生まれながらに罪を持っており、その罪を償うために祈りなさいと教え込まれてきました。そして、喜びを与えるものは、何から何まで禁じられてきたのです。

 カトリックから聖人の称号が与えられている18世紀の宣教師グリニヨン・ド・モンフォールは、愛や歌や物語は疫病のように広まって多くの人々を堕落させると説き、18世紀の修道士は、大衆の娯楽はキリスト教の精神に反していると非難しました。また、きれいに着飾った女性は、軽蔑の対象となりました。

 キリスト教は、人々から喜びや幸せをことごとく奪い去ることに必死だったのです。

 そのキリスト教は、自分たちはイエスの教えを説いていると信じて疑いませんが、実は彼らは、イエスが指し示す方向とはまるで正反対の方向へと人々を導いてきたのです。彼らは、イエスの言葉を数え切れないほど読み返してきたにもかかわらず、ついにイエスの教えを理解することはできませんでした(詳細『複製された神の遺伝子』)。ですから、ラエルはキリスト教のあらゆる教えに反対しているのです。

 ラエルは、カトリックはイエスのメッセージを裏切っていると強く非難します。そのカトリックの頂点に立つローマ法王は、カトリックや西洋社会では絶大な権力の象徴ですが、ラエルにとっては、ローマ法王は、ただのまったく都合のよい反面教師でしかありません。

 ラエルは、科学技術の推進を常に善と見なし、「科学の発展を拒むことは、子どもの成長を止めるようなものだ」と強く主張しています。その彼が科学の発展を拒む相手として常に引き合いに出すのが、ローマ法王(ヨハネ・パウロ二世)です。

 体外受精児誕生の時しかり、安楽死の合法化の時しかり、クローン人間誕生の時しかり・・・。
 ローマ法王は常に、生命の操作を「人間の尊厳に反する」と非難します。自分は常に、最新の医療技術の恩恵にどっぷりと浸って生きながらえているにもかかわらず!

 ラエルは、ローマ法王が賛成するものはすべて反対しています。また逆に、ローマ法王が反対するものは、すべて支持しています。

 ローマ法王に対するラエルの態度を示す、ひとつのおもしろいトピックスがあります。
 ラエルはつい最近、人体の皮を剥いでプラスティックでコーティングするという、非常に論議を呼ぶ論文を書いたギュンター・フォン・ハーゲンス教授に、自分のからだを自分の死後に提供することを約束しました。この技術はプラスティネーションと言われ、体内の水分を抜いて特殊な樹脂を流し込み、自然な色つやのまま半永久的に保存する技術であり、日本でも、「人体の不思議展」で、この技術で処理された数多くの死体を目にした人たちも多いはずです。

 ラエルは、この技術を使って、自分が死んだら、遺体の半分の皮膚を剥ぎ、性器を勃起させた状態で瞑想している姿を、カナダのバンクーバーにある、通称「UFOランド」と呼ばれる彼の住居内で一般公開することを教授に要求したのです。

 その理由を、彼は次のように述べています。

「私は人生を、カトリック教会によって生み出された偏見や禁忌と戦うことに費やしてきました。そして、死後もその戦いを継続してゆくことに喜びに感じます。」

 クローン人間、遺伝子組換え食物、肝細胞研究、性に対するあらゆるタブー・・・同性愛、避妊、コンドームの使用、中絶、離婚・・・・、これらはいずれも、ローマ法王が反対しているものばかりですが、ラエルはこれらのすべてを強く支持しています。

 ローマ法王は、自分は常に何十人もの医師の世話になり、最新の科学技術の恩恵を被って生き長らえているにもかかわらず、科学の進歩には常に反対し続けています。彼は、「病気は神のご意志」などと言いながら、自分自身は大量の抗生物質を投与されているのです。

 彼は、自分が生きていることが神の祝福であると考え、そのために日々神に祈りを捧げます。「神に感謝します」と。
 しかし、彼が感謝すべきなのは、神ではなく科学技術なのです。このことはまったく自明のことでり、論を待ちません。彼の血圧や血糖値、脈拍を日々管理して、体調がすぐれないときにはすぐに適切な処置を施してくれているのは、神ではなく科学なのです。医療技術なのです。
 彼は神などに感謝すべきではありません。
 彼が常に否定している科学にこそ感謝すべきなのです。

 その一方で彼は、最新の科学技術を用いればいのちを救える人たちが大勢いることを知りながらも、これらの技術を「倫理に反する」「神を演じる」として拒絶するのです。そして、挙げ句の果てに、彼は、こうした科学の恩恵を受けることなく塵に返っていく無数の人たちに向かって、いみじくもこう宣うのです。「神のご加護を」と・・・。

 なんという傲慢さ!
 彼のいったいどこに、そんな資格があるというのでしょうか。

 そんなローマ法王やキリスト教は、ラエルにとってはまったくの狂気であり、人々への愛が決定的に欠乏しており、未来を拒否する、苔の生えた過去の遺物としか映らないようです。

 2003年の日本の夏は冷夏でしたが、その反対にヨーロッパでは、パリで8月の平年値を15度以上上回る40.7度、ロンドンでも16度以上上回る37.9度を記録するなどの猛暑が続き、平年に比べて約10度以上も高い夏となりました。この記録的な猛暑は、ヨーロッパ各地で、熱中症による多数の死者や農作物への被害や森林災害などをもたらしています。

 ヨーロッパがこのような記録破りの猛暑に襲われているなか、ローマ法王は8月10日、避暑地のローマ郊外で、ヨーロッパを襲っている熱波がはやく終わるようにと「雨乞いの祈り」を呼びかけたのです。実にまったく愚かしい行為です。

 愛に満ちた全能の「神」とやらは、雨を創造することにでもなっているというのでしょうか。こうした行為は、現代科学に対する著しい屈辱ですらあります。

 ローマ法王は、肝細胞の研究、クローン人間の作出、遺伝子組換え作物など、新しい科学技術にことごとく反対する一方で、祈りで雨を降らせようとしているのです。まさに、現代社会に生きるネアンデルタール人そのものです。現代社会が抱える大きな問題のひとつは、こうしたネアンデルタール人が多くの尊敬を受け、大きな権力を持つとともに人々の思想や生活に大きな影響を与えているということです。

 ラエルは語ります。

科学がなければ、世界にいる私たちの90%は今日生きてはいないでしょう。
 100年前、私たちの寿命は35歳でした。
 発見された当時は、宗教的狂信者たちからのすさまじい反対を生じさせた外科手術、輸血、臓器移植、ワクチン、抗生物質のような医学の業績のおかげで、私たちはより長く健康な人生を送ることができます。


 科学と宗教は、元来調和するものです。
 科学は、人間に知識と力を与えて、自分たちの可能性をどこまでも広げようと欲し、宗教は人間に知恵を与えて、その欲求を抑制しようとします。

宗教を欠いた科学、科学を欠いた宗教、どちらも不満なものだ」とアインシュタインが語るように、科学と宗教は、人間の進歩を支えるための不可欠な両輪であり、お互いに補完、補強しあう関係にあります。

 ですから、宗教を否定する科学も、科学を否定する宗教も成り立ちません。科学を認める宗教、宗教を認める科学こそが、お互いの理想の姿なのです。すなわち、それは「科学を宗教とする」ということに他なりません。

「科学を宗教とする」・・・、この言葉をはじめて聞いた人の中には、この言葉が非常に奇妙に映るかも知れません。一般的に、科学と宗教は水と油の関係で、お互いにまったく相容れないと思われているからです。

 しかしながら、宗教の大きな目的の一つが、不老長寿やその究極の形である永遠の命の獲得にあるとすれば、昨今の医療技術や遺伝子操作、果てはクローニングに至るまでの最先端の科学技術は、まさしくこの宗教の目的そのものを現実にかなえようとしていると見なすことも可能だと思われます。

 科学が今ほど発達していない時期、人々は自分が死んで肉体は滅びても、自分の本質である魂は永遠に存在すると信じようとしました。人々は自分の再生を願い続けてきたのです。そしてその願いは、「神の国」や「あの世」を提供してくれる宗教にすがり、ひたすら祈り続けることによって達成できると考えてきました。

 しかし、遺伝子を操作することによって寿命を延ばし、さらにはクローニングによって死んでもまた再生される技術を手に入れることさえ可能となった今では、そうした再生を願う祈りは、遺伝子を操作する科学技術にとって代わられました。すなわち、このことは、宗教と科学は、古くからの人間の根本的な欲望をかなえる業としての表裏一体の顔であるということを示しているのです。

 クローン人間の誕生が議論される今、もはや誰が魂の存在を信じることができるでしょうか。
 あくまでも人間のクローニングは、オリジナルの人間の細胞を使って、ひとりの人格のある人間をつくりだすという純粋な科学技術なのであり、その過程に魂という概念が割り込む隙など存在しません。魂とは、永遠不滅を願った古代の人たちが、その願いを成就させるために創り出したフィクションに過ぎず、そのような願いが科学技術によって達成された今、永遠不滅を願うために魂を持ち出す必然性はもはやなくなったのです。

 私たちにとって重要なことは、魂を信じることではなく、科学を信じることです。
 ラエルは、「科学を信奉せよ」と繰り返し主張しています。なぜならば、彼の主張によれば、人間は他の惑星の異星人たちによってつくられたからです。すなわち、私たちがこの地球上に誕生したそもそもの起源は、科学技術にあるのです。目に見えない神の力によるものでもなければ、偶発的ででたらめな現象によるものでもないのです。

 人が信奉するものは、自分たちがどこからやってきたのかを何に設定するかによって大きく変わります。自分たちが神によって創造されたとする多くの宗教信者たちは、神を信奉し、神に創造された人間を、被創造物でしかない人間自身が勝手に操作することは、神に対する冒涜であり、決してあってはならないことだと主張します。「神を演じてはならない」と遺伝子操作技術を批判するローマ法王が、その典型です。

 また、自然界の無作為な現象が無数に重ねあわさった結果、人間が誕生したと信じる進化論者たちは、人間は残された最後の自然なのであり、そのために人の生命や遺伝子を人工的に操作してはいけないと主張したがります。

 これらの二つは、人間の起源に対する見方がまるで正反対ですが、「人の生命や遺伝子を操作してはならない」という点で同じ共通点を持ちます。

 しかし、人間の起源に対するラエルの主張は、これらの見方とは異なり、ヒトは他の惑星の人間たちによって創造されたというものです。もちろん他の惑星の人間たちが私たち地球人類を創造する時に使った業は、祈りでも無作為な自然作用でもなく、科学技術です。

 すなわち、「私たちは、科学によって創造された」というのがラエルの主張であり、上に紹介した人間の起源に対する最初の見方が「神」を起源とし、二つめの見方が「自然」を起源とするのでしたら、ラエルは「科学」が人間の起源だと言っているのです。ですからラエルは、神や自然ではなく、「科学」を信奉せよと訴えているのです。

 そして、神や霊魂の存在を信じ込ませる世界中の伝統的な宗教は、科学がまったく発達していなかった私たちの祖先の時代とは確かに調和していたかも知れません。科学が発達していなかったその時代においては、彼らが頼れるものは神でしかなかったからです。しかし、それらの伝統的な宗教は、人間の生命が科学技術によって操作できるようになった今の社会とはまるで調和していません。ましてや、未来社会ではなおさらです。

 科学と調和する宗教は、神や霊魂を一切否定する宗教なのであり、古くより私たちの祖先たちが慣れ親しんできた、神や霊魂の存在を大前提とする宗教は、科学とは決して相容れないのです。人が生きていく上で、宗教は確かに重要ですが、その宗教に神は不要です。神は、未来社会へと歩むべき科学技術を、過去の時代に引き戻そうとするだけです。

 しかし、それにもかかわらず、未来社会においても、「神の恩恵」に頑迷に固執する人たちは存在するでしょう。彼らはローマ法王のように、科学の発達に常に反対し続けるのです。このような「21世紀のネアンデルタール人」と最先端の研究に従事している人たちとの間には、意識の上で決定的な「時間のズレ」が存在することになり、それは、同じ時代の空気を吸っていることがまるで不思議に思えるぐらいにまで大きくなるでしょう。

 イエスの後継者を自認してきたキリスト教は、約2000年をかけて、確かに世界の津々浦々にまで聖書を普及させることに成功したかも知れませんが、残念ながら、イエスの教えを普及させることはできませんでした。そして、聖書を普及させるという彼らの役目は、もはや終わったのです。

●無神論の宗教・・・ラエリズム
 キリスト教は、聖書を世界中に普及させるという偉大な功績を残す一方で、創造者たち−エロヒム−を神としてあがめるという重大な過ちを長きに亘り犯してきました。
 ラエルは、これからは、無神論で、科学と完全に調和していくことのできる宗教が必要不可欠であり、自分の哲学(ラエリズム)こそがその宗教になるのだと述べています。

 ラエルは、自分の哲学が宗教であることをはっきりと認めています。2003年夏に韓国でおこなわれた講演会でも、「私は、宗教のリーダーです」と語っており、2001年3月におこなわれたヒト・クローンに関するアメリカ議会においても、「私たちラエリアンは、科学が私たちの宗教であるべきだと信じています」と証言しています。

 ただし、ここで注意が必要です。
 彼によると、彼の哲学は、「まぎれもなくひとつの宗教である。すなわち、人類とその創造者たちを結ぶ絆である。たとえ神の存在を信じない無神論的宗教であってもそうである。『無神論的(athee)』は、ギリシア語の「atheos」からきていて、これは『あらゆる神性を否定する』という意味」(『異星人を迎えよう』無限堂)となります。

 すなわち、彼が主張する哲学は確かに宗教ではあるに違いありませんが、いわゆる一般的な宗教ではなく、「あらゆる神性を否定する宗教」であるというところに大きな特徴があると思われます。これは、きわめて画期的な定義ではないでしょうか。

 なぜならば、これまでの宗教は、おそらくすべてが「神性を肯定する」事が大前提にあったはずです。それらは、神や霊魂の存在を肯定することからすべてが始まっています。

 しかし、ラエルは、神や霊魂の存在をいっさい認めず、それらの神性を真っ向から否定しながらも、なおかつ、自分の哲学は100%宗教であると言い切っているのです。

 しかし、神性を徹底的に否定しながらも、宗教であるというようなことがはたして可能なのでしょうか。そもそも宗教はラテン語で「religio」ですが、これは「再び結びつけるもの」を意味します。

「創造者と創造物を結びつける絆」が宗教です。
 すなわち、「宗教」を「創造者エロヒムと創造物である人類を結びつける」ものとしてとらえた場合のみ、ラエリズムは宗教と言えるのであり、他のいかなる意味においても、「ラエリズムは宗教だ」と言うことは正しい表現にはなり得ないのです。

 すなわち、ラエルが主張する「科学を宗教とする」哲学は、「無神論の宗教」です。自分の哲学は世界でもっとも強力な「無神論の宗教」だと強調するラエルは、ジョルダーノ・ブルーノをとても尊敬しているようです。ヒト・クローン騒動のときに2001年の3月に開かれたアメリカ議会で証言をおこなった時も、彼は、その冒頭で「この証言をジョルダノ・ブルーノに捧げたい」と語っています。

 16世紀に南イタリアで生まれたジョルダーノ・ブルーノは、「人間世界は唯一無二のものである」と考えていた当時のキリスト教の思想に異を唱え、宇宙には、地球以外にも人間世界のようなものが存在する可能性があると主張し、しかも宇宙の無限性についても言及しました。このため彼は、宗教裁判所に逮捕され、ローマで7年間牢獄に入れられた挙げ句、「異端者」として火あぶりの刑に処せられたのです。

 しかし、ブルーノは死ぬまで自分の主張を曲げることはありませんでした。刑が執行される直前、悔い改めるように十字架が差し出されたが、ブルーノは顔をそむけ、「裁かれている私よりも、裁いているあなた方の方が、真理の前におののいているではないか?」と言い返したほどです。

 結局、ブルーノは、頑迷なキリスト教世界の中にあって、最期まで自分が信じる無限の宇宙を主張し続けながら死んでいったのですが、無限の宇宙、異星人の存在を主張するラエルは、そうしたブルーノの生き様に自分の姿を重ね合わせているのかも知れません。

●ラエリズムの価値体系
 そして、「無神論の宗教」を標榜する「ラエリズム」と呼ばれる彼の哲学は、「非暴力」「生命の絶対的な尊重」「責任負担」を重んじる価値体系です。これらの三つことばは、ラエリズムの価値体系を語る上で重要なキーワードであり、またこれらは相互に深く関係しています。

非暴力」とは、明らかにガンジーの哲学につながるものであり、個人間の暴力からテロや戦争などの組織的、国家的暴力にいたるまで、あらゆる暴力をラエルは徹底的に拒絶しています。

 彼は、「世界のすべての悲劇は、力の使用の結果として起きており、戦争や暴力によってでしか支配できないような、愚かで原始的な社会から訣別するためには、何よりも非暴力が尊重されなければならない。ソクラテスやモーツァルト、アインシュタインなど、人類の歴史において、もっとも偉大だった人たちは、すべて肉体的には貧弱だったが、誰よりも高い意識と精神を持っていた」と述べています。

 
人類にとって本当に必要なのは、腕力や武器のような相手を打ち倒すための力なのではなく、相手の意識に訴える力であり、それが愛だと彼は説きます。そして、愛と非暴力のみが地球を救うことができるのだと主張しているのです。

生命の絶対的な尊重」とは、たとえ人類全体を救うためであったとしても、たったひとりの人のいのちを奪う権利は誰も持たないという意味です。
 たとえその人物がいなくなれば、人類は救われるということが分かっていていたとしても、誰ひとりとして、その人物のいのちを奪う権利など持ち合わせていないということです。
 たとえ相手が軍人であったとしても、罪のない市民を殺すことを正当化できないのと同じように、軍人たちを殺すことも正当化できないのです。

 ラエルは、生きていく上でのあらゆる行動のなかで、常に、この「生命の絶対的な尊重」を何よりも優先するように説いていますが、生命を絶対的に尊重するということは、自分が為したいっさいの行為に対する「自己責任」と深く関わっています。すなわち、たとえ自分が属する組織のリーダーが命じても、それが自分の良心、生命の絶対的な尊重に反することならば、決してその命令に従うべきではないのです。それが「責任負担」です。

 そして、その「責任負担」とは、自分自身の一つひとつの行為すべてに責任を持つということであり、人から受けた命令を実行しただけだと言って、自分の責任を逃れることはできないのです。この責任負担がもっとも強く問いかけられなければならないのは、おそらく戦争であり、ラエルが「この世のなかでもっとも危険なセクト」と断じている軍隊においてでしょう。

 一発の爆弾で何十万人ものいのちを一瞬にして奪った原爆を投下した軍人たちは、いくら自己弁護しようが、自分たちのしでかした行為の責任から逃れることは、とうてい不可能です。日本の都市に原爆を投下するように命じたのは確かにトルーマンでしたが、その命令を受けて広島や長崎の上空から原爆を投下したポール・ティベッツたちは、たとえ彼らがどのような言い訳をして、自分たちの行為を正当化しようとも、原爆の被害者に対する責任から逃れることは永久に不可能なのです。

 
命令を実行した者は、命令を与えた者よりも重い責任を負うべきなのです。しかし、たとえ実際に原爆投下に手を貸した当事者であったとしても、彼らのいのちを奪ってもよいということにはならないのです。それが「生命の絶対的な尊重」なのです。

 しかし、自分が為した行動に責任を持つだけでは不十分です。
 行動だけでなく、自分が持つあらゆる感情にも、私たちは、いっさいの責任を持つべきなのです。

 ラエルは、個々人の身の上に生じるあらゆる出来事は、それが幸せなことであっても不幸なことであっても、すべて自分自身に責任があるのであり、たとえその出来事に対して私たちが悲しみや怒り、ストレスを感じたとしても、それらの感情のいっさいの責任は自分自身にある、と説いています。

「人は転ぶと坂のせいにする。
 坂がなければ石のせいにする。
 石がなければ靴のせいにする。
 人はなかなか自分のせいにしない」

というユダヤの格言がありますが、これなどは、人間は、自分の身の上に起きた出来事や、その出来事に対して持ったネガティブな感情を自分の責任にしたがらないという事を諭したものでしょう。

 私たちは、このユダヤの格言のように、自分が持つ怒りや憎しみ、悲しみの原因を、常に外部の中に探し出すようにし向けられてきました。しかし、そうではなく、自分自身の中に、それらの感情の原因があったのです。すなわち、自分が持つあらゆる感情の責任は、すべて自分自身にあるのです。

「あなたのせい」ではなく、「私の責任」なのです。

 ですから、常に「自分を愛する」ことが、この上もなく大切な事になってくるのです。

 
2000年前、イエスは「隣人を愛しましょう」と語りました。キリスト教徒たちは、それ以降、隣人愛を盛んに実施してきましたが、イエスは、「あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛しましょう」と語ったのです。
 あくまでも、自分自身を愛することが主体であり、自分を愛してはじめて、周りの人も愛することができるようになるのです。そして、そうなる事によってはじめて、相手に対して非暴力でいることも、生命を絶対的に尊重する事も可能になってくるのです。

 
ラエリズムの価値体系については、また別の機会に詳しく追ってみたいと思います。


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