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| 生命を直接の対象とする研究分野は、その研究者が好むと好まざるとに関係なく宗教と深く関連していていることは明らかです。生命現象を誰よりも最も深く追求しているはずの生物学者たちは、しばしば非常に緻密に仕組まれた生命現象を目の当たりにして、その背後に「神」の存在を感じることを告白しています。 『Newton』(2000年7月号)の表紙には、DNAを指して「神の設計図」と大きく記されていますし、東京理科大学生命科学研究所所長の多田富雄氏は、1個の受精卵が分割して人間が形成されていく過程を「神のプログラム」(『生命の意味論』新潮社)と呼んでいます。
ある国内の学術雑誌の中で、「生命を特徴づける遺伝子こそが神なのではないか」と述べていた国立大学の教授もいます。また遺伝子研究の第一人者で日本学士院賞受賞者である村上和雄教授は、生物のDNAは何者かに書き込まれたのだとして、そのDNAを書き込んだ存在を「サムシング・グレート」と呼び、その正体を天理教の神と解釈しています。 このように、一流の研究者たちと言えども、極めて複雑で精緻な生命現象の中に、なにがしかの神の存在、あるいは神性を感じてしまうことは間違いなく、「神」が一体どういうものであるかの問いは不問にしても、生命現象を取り上げる時には「神の存在」に触れないわけにはいかないのです。 しかし、私は、これまでの著作において繰り返し述べてきたように、神の存在を一切否定しています。完全に否定しています。 この宇宙を創造し、生きとし生けるもの全てを創造したものを神と呼ぶのであれば、私はそのような特性を所有する神の存在を一切否定します。また、非物質的で眼には見えないような神や人格的な特性を持つ神も全く存在しないと考えています。 「神」という言葉は確かに存在しますが、その言葉自体には何ら意味がないと考えています。その意味において、私は、自分が徹底した「無神論者」であることを強く自覚しています。 しかし、私は、宗教そのものは、それが非暴力的な思想である限りは、その信条にかかわらず認めていますし、人間にとって宗教は極めて重要なものであるとも思っています。 この言葉は、もしかすると、とても奇異に聞こえるかも知れません。一方で徹底した無神論者でありながらも、もう片方では宗教を認めるというような立場を採ることが果たして可能なのか、と疑問に思われる方はきっと多いと思いますが、両者は両立することが全く可能です。いやむしろ、私の言う無神論こそが最も宗教的だとさえ言うことができます。 現代の日本人の大半は、自分が無宗教だと思っています。また、神が存在しようがしまいが、そんなことは全くどうでもよいとも考えています。 しかし、正月には8000万人以上の人たちが初詣に出かけていますし、盆休みになると墓参りに訪れる人たちが後を絶ちません。また、自分と縁のあった人が亡くなった時も、故人の葬儀で手を合わせたり献花をしたりする光景は相変わらずです。これらは、国民の大半が無宗教だという言葉をそのまま字句とおりに受け入れることが困難であることを示しています。 実は、日本人の無宗教という感覚は、あくまでもユダヤ・キリスト教やイスラムのような、人格的で唯一神を想定するような宗教を信仰していないという意味なのであり、日本人は、日本古来のアニミズム的な宗教を持っているのです。日本人は、決して無宗教ではないのです。 日本に広く浸透している宗教は葬式仏教と呼ばれていますが、これはインドで生まれた仏教が、中国、朝鮮半島を経て儒教的な要素が加わって伝わり、その仏教が日本古来のアニミズム的な要素を取り入れて出来上がった日本独特のものです。欧米に普及している宗教は、神と個人的に向かい合い、神対自分の図式が成り立っていますが、もともと日本では、欧米の宗教のように神と向かいあうのではなく、八百神と呼ばれる自然(=神)の中に溶け込んで神に抱かれる感覚を持つような宗教観を持っています。 明治維新では、日本は西洋から様々な文化的な要素を取り入れましたが、西洋社会を成立させているキリスト教の思想までは取り入れることができなかったようです。この欧米をはじめ海外では、生きていく上で宗教を持つことは全く当然だと考えられているにもかかわらず、日本人はアニミズム的な仏教感覚を確実に持っていながら自分は無宗教であるとしか認識していません。このように、日本は世界でも極めて独特の宗教感覚を持った国民なのです。 そうした特異性を持つ日本では、「宗教的」という言葉は、まやかしやウソと同義で用いられて、どこか侮蔑的な響きを持ち、胡散臭く、また危険性を孕んだ感覚で使われているようです。そして、「宗教は科学的でないから取り上げるだけの価値がない」と単純に切り捨てようとします。 しかし、そうした態度を示す人たちもまた、自分たちが批判しているはずの「宗教的態度」を自らとっている場合があります。 よく言われるように、科学はどんどん高度化、細分化、巨大化していっています。専門的な知識や技術が非常に高度になってくると同時に、専門とする分野がどんどん細かくなってきています。さらに、個人プレーで業績を挙げることが不可能になってきており、多くのグループや人たちとプロジェクトを組まないと、何も科学的業績を残せない事態になってきています。 このような状態では、科学者と言えども、自分の専門分野には造詣が深くても、ひとつ隣の専門分野のことになると、まるで素人同然という場合も起こり得るはずです。今の科学全体の動きを正確に把握している科学者など、果たして今の世の中に存在するでしょうか。 科学に対する知識を学び、アプローチの仕方を訓練されてきた科学者でさえこうした事態に陥るのであれば、世の中の大半の科学者ではない人たち、あるいは、ふだん科学的なトレーニングを受けていない人たちにとって、今の科学は、もはや「雲の上の出来事」にしか見えないはずです。 未だに「ドリー」の名前すら知らない人たちも多く存在します。ゲノムやクローン、多世界解釈、ES細胞などなど、全く何のことかも分からない人たちが多く存在します。そのような人たちは、おそらくはきっと、時々耳にしたり目にしたりするマスコミの断片的な情報・・・多くはセンセーショナルな言葉で彩られた言葉・・・から、乏しい科学の(しばしば誤った)情報を仕入れます。特に日本人の場合は、科学振興に対する興味も極めて低く、科学的な知識はもっぱらテレビ番組からというありさまです。また、科学の基本的な知識も極めて乏しいものでしかありません。 そのような現状では、日本はもちろん、世の中の多くの人たちにとっては、最新の科学情報など、まさしく宗教の言葉と同じように理解できないままに受け止めるという態度を示すしかないと思います。こうなってくると、無批判的に受け入れる対象が、科学か宗教か、個人の趣味の問題になってきます。 確かに、宗教は科学的でない面を多く持ちます。宗教の大きな特徴である信仰という態度が非科学的であることも事実でしょう。 しかしながら、「科学的でないから意味がない」という判断は間違っています。 なぜならば、「科学的」であるということは、ある特定の共同体の中で共有されている特定の性格を持つ知識体系を持つ概念であると考えられ、そのために科学は、宗教と同じように一つの価値体系を示しているに過ぎないからです。つまり、科学は、自然界における一つのものの見方を提示しているのです。従って、科学的でないという理由で宗教を無意味であると決めつけることはできません。 しかし、その一方で、次のような言葉もしばしば登場します。 「私は神の存在を信じています。なぜならば、神を信じている方が、人生が楽しく、幸せだからです」と。 確かに神を信じることによってその人の人生が豊かになり幸せになること自体は、全く個人の価値観の問題であり、そのこと自体は他人からなんら批判されるべきものではありません。世界人権宣言第18条にも「すべて人は、思想、良心及び宗教の自由を享有する権利を有する」と宗教の自由を謳っています。 しかし、個人レベルでの宗教の自由と「神が存在する」という問題は、全く別の次元の問題であり、両者を結びつけることは不可能です。 全く別次元の問題を無批判的につなぎ合わせるために、重大な問題が発生するのです。「神を信じることによって幸せになる」ということと「神そのものが存在する」ということは、全く切り離して考えるべきなのです。 もし、両者を結びつけた言い方が可能ならば、次のように言い切ることも全く同じように可能なはずです。 「私は神を信じていません。神を信じていない方が、人生が楽しく、幸せだからです。」 そして、やはり同じ根拠によって「神は存在しない」という主張も正しくなってしまいます。つまり、「人生が楽しく幸せになる」のは、あくまでもその人自身の問題であり、その人が幸せであろうが不幸であろうが、「神の存在」とは全く無関係であることを十分に認識する必要があります。 科学はこれからもどんどん発展していくはずですが、科学がいくら発展していっても、宗教が消滅してしまうことは決してありません。人間は常に、周囲の出来事と自分との関わりに興味を持ちながら生きています。その出来事が自分にとってどんな意味があり、どんな価値があるのかを常に考えているのです。ですから、海を隔てた遠くの地で、紛争に巻き込まれて死にかけている小さな子供たちの命よりも、自分の右の奥歯が一本痛む方が、その人にとっては人生にとても大きな意味を持ったりするのです。 人間は、自分自身に関する問題にとても興味を持ちますが、今の科学を支えてきた考え方は「無目的論的」であり、近代科学は、自分との関わりを一切破棄することから始まる価値体系なのです。ですから、ここに自分との関わりを与えてくれる宗教の存在意義があるのです。 「自分はなぜ生きているのか」、「どうしてここに自分は存在しているのか」という問いに、科学は生命の起源や宇宙の起源などを持ち込んで答えようとしますが、その問いかけは「なぜ宇宙の中の今この時点のこの場所に、自分が存在しなくてはならないのか」という自分の存在意義なのであり、その問いかけに科学は無力にも答えることができないのです。その問いかけに答えられる価値体系は、宗教をおいて他にありません。 私はこれまでの自分の著書の中で、科学が発展すれば「今の宗教」は消滅すると述べましたが、消滅していくのは、あくまでも神の存在を信じる宗教です。神の存在を信じる宗教は、おそらく近い将来、その存在意義を失うことでしょう。 私たちがこれから必要とする宗教は、神の存在を肯定する既存の宗教ではなくて、神の存在を否定する宗教、つまり「無神論の宗教」なのであり、その宗教観が科学を支えていくのです。科学と宗教は、人類、あるいは人類を構成する人間一人一人にとっては、なくてはならない価値体系の双璧なのです。 「宗教と科学は調和するものだ。宗教と欠いた科学、科学を欠いた宗教、どちらも不満なものだ。両者は互いに依存しており、真理の追究という共通の目標を持っている。」 このアインシュタインの言葉が示すように、科学が発達すればするほど、私たちはより宗教的でなくてはならないのです。しかしその宗教には、神は一切不要なのです。 |
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