ひめゆりの姿

 

 

 
<ひめゆりレポート>

今や修学旅行や観光の名所となっているひめゆりの塔。沖縄を走っていると南部の方は「ひめゆりの塔 10Km」とかって道案内によく出てきます。
ひめゆりの話は有名です。
だからこそ考えただけでも気分が暗くなり、つらいと思い姫子は今まで避けてきました。
でも意を決して行って来ましたー!

入り口には献花が売っています。屋台のように「いらっしゃいいらっしゃーい」って感じに売ってます。
(それはちょっと違う)と思いつつ中に進みます。

入り口のすぐ左手には大きな穴が開いています。もっと進んで正面下にも大きな穴が開いています。
これが米軍のガス弾投下によって多くの犠牲者を出した「第三外科病棟」のようです。下をのぞきこむとごつごつした岩です。
自然にできた洞窟なので中はもっと広がっているようですが、こんな穴が病院だったなんて、にわかには信じられません。だってただの岩穴じゃん!寝たら痛いじゃん!中も暗くて見えないじゃん!

穴の左手にはひめゆり学園(沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校をあわせた名称)の校舎を復元した建物があり、中は資料館になっています。
きれいです。

ここではひめゆり学徒隊だった方々(おばあと呼ぶにはまだまだ若い)が、実際に館内にいてお話をいろいろしてくれるのです。
姫子は何にも増して彼女たちの言葉がずしりときました。

著作権とか発生するのかどうかはよく知らないけど、いろいろな人に戦争体験を広めるのがひめゆり同窓生の願いでもあるでしょうから、姫子がそこで聞いた話、覚えているだけ正確に書きます。
「ひめゆりの少女−16歳の戦場−」(高文研)という著作もある宮城喜久子さんのお話です。

「、、、包帯の簡単な巻き方ぐらいしか習わないまま戦場に行ってね、実際怪我をして、血がばーっと出ている兵隊さんの前に出ると、もうこわくてこわくて、さーっと倒れそうになるのよ。
そうすると、『何をしてる!学生!』ってお尻をぼーんと蹴られてね、一生懸命包帯を取り替えました。

そうすると人間だんだん慣れてくるもので、血や膿がどばっとついてる包帯でもさっととりかえられるようになりました。
傷口にはうじがたくさんわくの。それがもう気持ち悪くてねえ、、、でも何よりいやだったのはあの臭いです。
この(資料館の)中には、当時の病院の様子(とはいえ暗くてせまい洞窟)を再現してるでしょ。
それでもあの臭いだけは再現できません。あれだけはもう、思い出したくないです。

昼間は爆撃の音がひっきりなしにしてるし、こっちも忙しいからわからないけど、たまに、今もアフガニスタンの攻撃なんかでも出てくるけど、急に爆撃が止まって、こわいぐらいしーんとした夜が来るの。
そうするとね、私、知らなかったんですけど、傷口にわいたうじが、傷口を食べる音が響くんです。
もう、ほんとに気持ち悪いです。あんな虫が目の前にいる生きた人間を食べる音がするんです。」

それはほんとに気持ち悪い!聞いてるほうも顔をしかめずにはいられない話。
それでも姫子がもっと驚いたのは、そばで話を聞いていた観光客らしきおばさん(推定70歳)がうんうん、と大きくうなずくんです。となりの同世代のおじさんも。
戦争体験者の共通認識として「うじが人間を食べる音」っつーのがあるとは、ほんとに驚きましたよ。

「 手術はだいたい夜に行われました。麻酔薬も不足して行き渡らないものだから、麻酔なしでの手術も珍しくありませんでした。麻酔なしで、腕や足を切るんです。私はやりませんでしたが、上級生はその腕や足を切る患者さんを押さえつける仕事をよくやらされていました。悲鳴も聞こえるんです。
弓形ののこぎりで、目の前で切るんです。ここ(ひめゆり資料館)には、私のような証言員が他にもいますが、その中で『あののこぎりだけは絶対に見たくない。私がここで証言員として働いている間は絶対に展示しないでくれ』っていう方がいらっしゃって、そういうわけでおいてありません。」

館内にはぼろぼろになったメスや薬瓶などが展示されています。
戦後約60年近くたっても、見たくないと思うぐらいの壮絶な体験です。

「けが人看護や死体運びなどよりもっと怖かったことは、水汲み、飯あげ(食料運搬)です。
砲弾がほんとに、それこそ雨のように降る中、走っていって水を汲んだり、食料を本部から調達してくるのです。
ひゅっと音がすると、ぱっと地面にふせます。そうすると近くでばーんと砲弾が落ちる。
でもね、これまた人間慣れてくるとね、そのひゅっという音を聞いただけで、どのぐらい近くに弾が落ちるかわかるようになるんです。あ、これはふせなくても大丈夫、とかね。

そのうち戦況が悪化してきて、どこそこの壕は米軍に馬乗り(戦車ごと壕の上に乗って押しつぶす)にされたとか、
当時国際法で禁止されていたはずのガス弾を投げ込まれたとか、そういう話ばかり聞くようになりました。

食料は慢性的に不足しているし、ほとんど寝ないで働き続けたものだから、私たちはみんな生理がとまってしまいました。少ない食料だから、たまに食べるとおいしくってねえ、、、中でも一番おいしかったものは水です。めったに降らない雨が降ったときがあってね、友達と雨の中わーっと走っていって手ですくって飲みました。」

米軍上陸が4月、沖縄戦終結が6月。沖縄はすでに真夏です。ただでさえのどがかわく季節に、水も食料も行き渡らなかった、、、その肉体的苦痛ははかりしれません。

「米軍が迫ってくるというので、とうとう壕を出て、南部に逃げていかなければならなくなりました。
ところが、病院内には歩けないような重症患者がいっぱいいるのです。さらに、そのころは同じ学徒隊として働いていた友達の中にも怪我をした人や、栄養失調で目が見えなくなった人がいたのです。
そういう人たちはどうするのか。置いていくしかなかったのです。
砲弾の中、薬も水も食料もない危険な壕に置き去りにしなけらばなりません。

とうとう壕を出て行くというその日、ある一人の兵隊さんが壕の中で牛乳のようなものを混ぜていました。
それを見た上級生の一人が「手伝いましょうか?」と声をかけると、
「まだいたのか!学生!早く出て行け!!」と怒鳴られました。
あとからわかったことですが、それは重症患者に飲ませる青酸カリ入りの牛乳だったそうです。

私たちが出て行く気配を感じ取ったのか、重症を負い、目が見えなくなってしまった知念さんが「みんな、どこ行くの?」と不安そうに尋ねてきました。歩ける友達はみんな怪我をしている友達に肩を貸していて、連れて行く余裕はどこにもありません。私も友達に肩を貸しています。
置いていかれる彼女たちもそれが伝わりました。もうどうすることもできません。お互いに泣くしかないのです。
ただ黙って泣きました。私たちは怪我をして歩けない友達を戦場に置き去りにしたのです。」

ここまで話すと、宮城さんは初めて涙を見せました。聞いているほうも泣いています。
男も、女も、おじさんも、おばさんも、おじいさんも、おばあさんも。そして姫子とDinoも。

「南部に逃げると、海に出ました。断崖絶壁ですが、ここを降りる以外、道はありません。
戦争が終わって、同じ場所に立つと、こんなところを岩を伝って降りるなんて、よく自分でもできたなあと思いますが、
その時はできたんです。

下に下りると、海辺で、遠くのほうに摩文仁の丘(※現在の平和祈念資料館があるところ。戦没者の名前が刻まれた石がずらっと置いてある、クリントンが演説したところで有名)が見えました。
あそこまで行けば助かる、そう思って友達2人と手をつなぎながら海に入りました。
私は真ん中にいたのですが、しばらく海の中を歩いていて、少し大きな波が来て、あっと左手がはなれてしまいました。そこで海側にいた友達が波にさらわれて、それっきりです。

目的地に近づきました。目の前にはやはり断崖絶壁です。上るしかありません。
上って、小さなほら穴の中に何人かの友達と一緒に入りました。日本兵も一緒です。

穴に入らない友達も数名いました。彼女たちは一人の先生を取り囲んで、『お願い、手榴弾で死なせてください。こんな怖い思いをするのはもういやです。お願い、先生」と口々に言っていました。
15、16歳の少女がそんなことを考えなければならない時代だったのです。

すると、穴の外で『デテコイ、デテコイ』と気味の悪い声がしました。アメリカ兵が自動小銃を持ってずらっと並んでいます。あ、っと思ってぱっとふせました。するとタタタ、という自動小銃を発射する音が聞こえ、あっという間に一緒に入った友達が撃たれ、私の方にもたれかかって来ました。
3人即死、一人重症です。隣にいた日本兵も撃たれて即死です。

私ともう一人の友達がよろよろを穴から這い出て、その瞬間に見た風景は生涯忘れることができません。
先生と友達何人かが手榴弾で自決していました。誰が誰だかわからないような状態で、折り重なって倒れていました。

戦後、仲宗根先生に『あの海岸に、みんなの骨を拾いに行こう』と言われて、私は『とんでもない、私は行けません』と
断りました。そしたら、『お前が拾いに行かないでどうするんだ』って言われて、、、、ずいぶん経ってから行きました。

その時のほら穴に行くと、撃たれて即死した安冨祖さんが、きれいに白骨化して、おさげ髪もそのままで、私が横にしたとおりに、まだ横たわっていました。それを見たら、涙が止まらなくなりました。」


姫子が一番強く感じたのは、彼女たちにとって、一緒に病院で働いたり、砲弾の中逃げたり、目の前で撃たれて死んでしまった友達は、中学高校と仲良く過ごした友達なんだということです。戦争前は、普通に勉強したり、寮生活を一緒に送ったりしていたわけですから。
姫子も女子高出身ですから、とても身につまされました。そんな風に仲のよい友達が目の前で無残に死んでいったら、、、やっぱり姫子もこの証言員の方たちと同じように、資料館を建て、後世に自分の体験を語り継いでいったと思います。

「この資料館には海外からの方も大勢訪れます。そういう方たちが私の話を聞いてよく言います。『なぜ、病院の入り口に赤十字の旗を立てなかったのか?そうすれば当時国際条約で決められていたように、攻撃はされなかったはずだ。』
でも、そのような決まりがあることすら、知らされていませんでした。みんなとにかく鬼畜米英と思い込んでいて、逃げるのに必死だったのです。
また、よく『このような体験をして、あなたはどうやって生き残ったのか?』とも聞かれます。それは私にもわかりません。」

別の証言員の方のお話です。

「この資料館は、摩文仁の平和祈念館と違って、政府から資金は一切もらっていません。政府のお金が入ると、『虐殺』という言葉は使うなとか、こういうことは話してはいけない、とかそういう規制が入るんです。だからここは、全て寄付と入館料だけで運営しています。入場してくれたみなさんには本当に感謝しています。その代わり、自分たちで好きなことを話せるんです。

こういう統計があるそうです。沖縄戦で戦死した人の出身で、どこが一番多かったか。1位はもちろん沖縄です。2位は?北海道なんです。北海道から連れてこられて、遠い沖縄で死んでいった。そんな人たちを何人も見ました。一番少なかったのは?東京出身の人なんです。

戦争をしようと決めた人、正確には誰だかわかりませんけど、中央の政府機関がある東京の人でしょう。戦争をしようと決めた人は、決して最前線には出てこない。戦争なんかしたくなかった田舎の人たちが大勢駆り出されて死んでいく。戦争とはそういうものです。だから戦争なんて絶対にしちゃいけません。」

次の部屋に入ると、壁一面にずらっとひめゆりで犠牲になった人の顔写真が並んでいます。こうやって、一人一人並べてみるとあらためて犠牲者の多さが感じられます。(摩文仁の丘でも同じことを感じます。)
また、彼女たちと友達だった証言員の方々はいつもこの写真を眺めているんだなと思いました。

当時のガマ(壕)の様子を再現したジオラマが置いてあります。遠く上のほうにかすかに光が見えるだけ。あとは真っ暗なほら穴です。
自然壕の病院で働くことの過酷さは、あのジオラマを見ないとわからないでしょう。(見たって全部わかるわけがないのですが)
 

近くにある平和祈念資料館にも、ビデオで戦争体験者の証言を聞くところがあります。そこで聞いた宮良ルリさんのお話。彼女も「私のひめゆり戦記」という著作があります。彼女はガス弾を投げ込まれた第三外科壕の数少ない生存者です。

「敵が来た!って言われて、壕の中は騒然となりました。アメリカ兵がすぐそこまで来て『民間人は出てきなさい。水も食料もあるから』って言うんです。でも誰も動こうとはしませんでした。シーンとしているんです。また『出てこないと爆弾を投げ入れますよ。今すぐ投降しなさい』って言うんです。そこまで言われても誰も出て行こうとしなかったのです。

すると白い煙を出すものが投げ込まれました。そのころはもう、みんなアメリカ兵がガス弾を使うことを知っていましたから、すぐにガス弾だ!と思いました。水を布に含ませて、口元を押さえるとよい、というのもわかっていましたが、水がありません。『水はどこ?水はどこ?』と叫ぶと『小便をして、口をふさげ』と言われたので、その通りにしました。

でも目の前は真っ白だし、息はできなくて、苦しくて苦しくて仕方ないんです。ああ、もうだめなんだ、この真っ暗な壕の中で死ぬんだ、、、と思ったら急に、こんな壕の中で死ぬなんて犬死にだ、死ぬなら太陽の下で死にたい!こんなところで死ねない!と強く思いました。苦しい、でも死にたくない、苦しい、、、、といううちに意識を失ってしまったようです。」

彼女が目覚めたのはなんと3日後だった。壕の中のほとんどの人が亡くなっている。同じくひめゆりの生徒であった人が、死体の山の中から突然むくっと起き上がった彼女を見て、亡霊だと思い、腰を抜かしたという。

「そのうち死臭に耐え切れなくなって、壕を出ました。一緒に壕を出た人と山の中をさまよっているうちに、アメリカ兵に見つかってしまったのです。もうだめだ、手榴弾で自決するしかない、って思って二人で抱き合って手榴弾の栓を抜いたら、不発弾だったんです。どうしよう、どうしよう、と言っているうちにアメリカ兵がやってきて、収容所に送られました。」

今考えると不幸中の幸いとしか言いようがない。戦場での生き死には何に左右されるのか、誰にもわからないものだ。姫子はこの言葉が心に残った。

「今こうして当時を振り返って思うのはね、戦争というものはある日突然やってくるものじゃないということです。」

 

 

 

        

ひめゆり資料館のすぐ横にある第三外科壕入り口。ここにはしごをかけて出入りしていたのだそう。病院の入り口とはとても信じられません。ここからガス弾を投げ込まれ、壕の中にいたほとんどの人が亡くなりました。 ひめゆり資料館正面。学校の門を再現しています。